ノルンたち
「あんたたちは上品よねぇ」
唐突にかけられた声に、ペンギンは食事の手を止めた。見れば橙色の髪の女が立っている。麦わらのところの航海士、名前はなんだったか。思うペンギンをおいて、女は腰に手を当てて遠くを見た。視線の先には、麦わらの船長を中心にして大勢が実に賑やかに食事をしている。上品からは程遠いその食事風景はいつもの通り豪快で、時々見かねた金髪のコックが注意をしているが気にした様子もない。
「やっぱり船長がそうだと自然とクルーもそうなるのかしら。トラ男くんも上品だものね。ルフィを見慣れてるものだからびっくりしちゃったわ」
初めてうちで食事をしたときはサンジくんが感動して大変だったのよ、と女は言うと快活に笑った。その物言いに他意は感じられない。だが女は知らない。ローが他船で飯を食うに至る経緯を、自分を含むハートの一味は誰一人聞かされていないのだった。その恨み言を女にぶつけるわけにもいかない。黙るペンギンに女が言った。
「作法も綺麗だし。誰かに習ったの?」
ペンギンはフォークを持つ手を見た。作法なんてもの、実親にも養父母にも教わった覚えはない。それを教えたとすればローだ。『手で食うな、汚れる』『背筋は伸ばして食え、消化に悪い』『食いながら話すな。ちゃんと噛め』まだ変声前の幼い声で言われた、律儀な躾の数々を思い出す。
ローと出会ったばかりの頃、自分とシャチは教育らしいものは一切受けていなかった。学んで身につけざるを得なかったのは、今日を生き抜いて明日に繋げる方法だけだった。教養もないくせに、悪知恵だけは働く未発達の生き物ほど始末に悪いものはない。あの頃のローには、自分たちは果たしてどう見えていたのだろう。大人になってみれば、果たして海賊に上品さは必要だったろうか、と思わないでもないが、こうして他船のクルーに褒められるのは悪くない気分だった。
「小うるせェのがいたんだ」
「やっぱり。そういう人がいるといいわよね。私にもいたわ。忘れられない」
「あんたも麦わらを躾けたらいいんじゃないか」
ペンギンが言うと、女はやぁよ、と大きな声で返した。真っ平ごめんよ、と女は続けたが、その声も表情も愛情に満ちていた。己の船長を信じて誇りにして愛している人にしか出せない空気だった。
女は賢いだけでなく、人の心の機微に聡いのだろう。それから二、三言のやりとりをしたのち、自然な様子で話を切り上げると騒がしい一団の元へと戻っていった。コックがハートを飛ばしながら女の名を叫ぶ。あぁそうだ、女の名は『ナミ』だ。そう思いながら、ペンギンは一時止めていた食事を再開した。
「小うるさくて悪かったな」
いつの間にそこにいたのか、ペンギンが腰掛ける木の株の傍から声がした。焚かれた火から遠いそこは、森と闇の境目のようなところだった。巨木に半身を預けたローへと目を遣ると、ローは目深に被った帽子の下でどこでもないところへと視線を投げていた。ペンギンは口に入れた肉を飲み込んでから言った。
「あんたちゃんと食べたんですか? 麦わらんとこの飯は美味いんだから食った方がいいですよ」
「うちと変わりゃしねぇだろ」
「コックが作るもんと輪番制の飯番が作るもんを同じにしたらバチが当たる。うちもコックを入れたらどうですか。潜水中の飯は数少ない娯楽の一つですよ」
「おれが麦わら屋と同じくらい食うようになったら考えてやる」
「ハハ、じゃあ一生コックは仲間にならねぇな。あいつずっと食ってますよね。どこに入っていくんだか」
一回スキャンでもしたらどうですか、気になるでしょう、と続けると、ローはハン、と鼻を鳴らしてその提案を一蹴した。何が可笑しいのか、一団からどっと笑い声が上がった。いつもは仏頂面の隻眼の剣士が、酒を掲げて大笑いしている。よく笑いよく食べよく飲む、海賊の鑑のような連中だった。出会ったばかりのはずのミンク族も、一味の長年の知己のように楽しげにしている。よく見ればハートの一味も何人か混ざっていた。いないと思ったら相棒がウソップの横で酒を飲んでいる。他人の横にいる相棒を見ることはあまりない。あいつあんな顔で笑うのか、と思いながら、ペンギンはローへと静かに言った。
「感謝してますよ」
「…あ?」
「おれらみたいなもんを上品にしてもらって」
おかげでどこに出ても恥ずかしくない大人になれました、と続ける。食事の作法だけじゃない。年のほとんど変わらない二人に文字を教えたのもローだ。基本的な計算も天文も生物も科学も戦い方も。ローが二人に教えられなかったのは料理くらいのものだろう。教えて貰えばよかったかもしれない。どうやっても黒焦げにしかならない料理の作り方を。まだその名に禍々しい異名も、首にかかる懸賞金もついていなかった頃のローの笑い話にしては、よくできた昔話の一つくらいにはなったかもしれなかった。
だがそれをし損ねたのは、ローの博識に本人の努力以上の痕跡を見てとれたからだった。ローがそれについて詳らかに語ったことはない。だが、聞くまでもなく、そして語るまでもないこともある。ローは明らかに、年相応以上の知識と常識と所作を誰かに叩き込まれていた。ローの圧倒的な知識量の向こう側には、それを教えた者の執念のようなものが確かにあった。
ロー自身、自分がそうされた者であることをある程度自覚していたのだろう。ローは自分に叩き込まれたそれらを、惜しみなく自分の子分へと教え与えた。時に小うるさく、そして時に献身的に、そして途方もなく気長に。
人という生き物は、自分が教えられたようにしか他人には教えられないのだと聞いたことがある。そのことが真実ならば、ローを教えた者もまた、ローに小うるさく、そして献身的に、気長に、教え導いたのだろう。トラファルガー・ローという人間一人を、どこに出しても恥ずかしくない者にするために続けられたそれは、愛だったのかもしれないしそれ以外の何かだったかもしれない。その注がれた何かにどんな名をつけるにせよ、その目論見はこれ以上なく成功したのだろう。その証明がローだった。ローという男の価値そのものが、その成果の結晶と言えた。
ガイコツがバイオリンを弾き始めた。誰かが歌い始める。人の笑い声と話し声と奏でられる音楽とが、暗い森に反響する。
「船長は混ざらないんですか」
「少し離れる」
ペンギンの問いと噛み合わない答えを残し、やがてローの気配が消えた。能力を使った様子はなかったから、どこかへ歩いていったのだろう。見知らぬ森を迷いもせずに歩けるのは、星の見方を知っているからだ。今夜もまたどこかの誰かがローに与えた知識が、ローをローとして生かしている。
ペンギンはフォークを皿の上に置いて、夜空を見上げた。海の上で見る空とは違う気がしたが、きっと気のせいだろう。世界中、どこから見上げても空にある月は一つきりで、星は無数に輝いている。
鼻をすんと鳴らすと、森特有の湿気た匂いが肺へと吸い込まれた。感謝してますよ、本当に。と胸の内で呟く。あんたが与えられた何かを食って、今のおれらがいる。
バイオリンの旋律が美しい夜だった。
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