ゆめまぼろしのジュブナイル

※春さんの「BL映画に出演する燐ひめ」からネタをお借りしました





 笑いが堪えられない様子の副所長から依頼書を手渡された時には、ああ成程これは笑いもしますね、とどこか他人事のように思ったものだ。人気BL漫画の実写映画化にあたり『Crazy:B』のダブルセンターをダブル主演に、といった内容の熱烈なオファー。ファンのためという大義名分の下とはいえ、日頃行っているBL営業のツケがこんな形で回ってくるとは、――まあ自分達で蒔いた種なので文句も言えないが。
 副所長の奥でソファに座りのんびり読書をしていた乱凪砂が「……ボーイズラブ、というものには詳しくないけれど……。愛の形は、様々。とても興味深い内容だと思うよ」なんて目を細めて笑ったのをよく覚えている。「一度持ち帰って考えていただいても構いませんよ」という副所長の言葉を遮って書類を受け取った天城が、何故だかとても頼もしく見えたのも。
「きゃはは! 悪くねェっしょ。俺っち達で『Crazy:B』ダブルセンターの存在感示してきてやっから、楽しみにしてな」



 その時の天城が何を思ってオファーを受けたのか、聞くことがないまま撮影は進んでいる。シンプルに考えれば知名度のため、あるいは将来のための布石なのだろうけれど、この無駄に大きな背中はいつだって、何を考えているのかわからない。
「……もうちょいこっちに体重かけてくんねェ?」
「――ああ、はい。すみません」
「何ぼーっとしてンだ、撮影中っしょ」
 自転車に二人乗りをして夕暮れの土手を走るシーンを撮るため、先程から天城とふたり、二人乗りの練習をしている。集中しろ、と言外に窘められたことがほんの少し癇に障って、思わず言い返してしまった。
「あなたに言われなくても、HiMERUは」
「はいはい、今は『HiMERU』じゃねェだろ?」
 ――そうだった、今は役に入り込まなければ。
 指摘されたことに歯噛みするが彼の言う通りで、今のHiMERUは詰襟の学生服を着た真面目な優等生、ごく普通の家庭の、ごく普通の学校に通う高校生だ。そして天城燐音は今だけはユニットメンバーではなく、ひとりの同級生として隣にいる。
 自転車の荷台に座り、おずおずと腕を伸ばして天城の腰に回す。「しっかり掴まってろよ」などと言った彼の手が、こちらの手をするりと撫でて離れていく。自然と上半身がぺたりとくっつき、頬を目の前の背中に押し付ける形になってしまう、学生服越しに体温を感じる。とくん、とくん、と静かに脈打つ鼓動に何故か安心する。
 同級生の天城燐音。クランクインからもう二週間になるが、未だに慣れない。衣装合わせで初めてお互いの姿を見た時は腹が捩れるほど笑った。現役高校生の自分ならいざ知らず、二十一歳の大柄な、素行の悪い派手な男が学生服に身を包んでいる姿は、どこか滑稽だった(他の共演者やスタッフ達には好評だったけれど)。時折SNSにオフショットを載せているがこちらも非常に反応が良く、ネットニュースに取り上げられたりもしている。写真集が欲しいなどという声もあるくらいだ。この仕事を受けたのは正解だったと言えよう、それもこの男の掌の上のようで何だか気に入らないが。
 天城がペダルを踏み込むと、ぐんと自転車が前へ進む。オレンジ色の斜陽を真横から浴びて、遠くに伸びた大きな影が同じ速さで追ってくる。まだ少しだけぬるい風を追い越していく、振り落とされないように、しっかりと彼の腰に掴まって、まっすぐ顔を上げて前を見据えた。

『なんかさあ、逃げてるみてえ』
『……何から?』
『なんだろうな、……現実?』
『あはは、なんですかそれ』
『良くね? 青春してる〜ってかんじで』

 台本通りの台詞。自転車を漕ぐ天城の表情は窺えないが、優しくまあるい声が風に乗ってこちらへ届く。

『ははっ、なあ、俺達、このままどこへでも行けそうだなあ』
『……どこへでも?』
『〝カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう〟……なんてな』

「……っ」
 劇中でHiMERU演じる優等生の愛読書として扱われている『銀河鉄道の夜』から引用された台詞。台本通りの、台詞。読み合わせで何度も聞いた。それなのに今この瞬間、この男がどんな顔をしてその言葉を口にしているのか、どうしても知りたくなってしまった。
「カット! 映像チェックします」
「あざ〜っす」
 自転車を停めて振り返った天城はいつも通りだった。いつものいけ好かない飄々とした態度の、『Crazy:B』の天城燐音だ。「今のテイク良かったンじゃねえ?」と言う声色もいつも通り。――ならばどうしてこの心臓は、どくどくと忙しなく暴れている?
「メルメル? オッケーだってよ」
「あっ……はい、ありがとうございます」
 天城が呼ばれて先程の映像を確認しに行った。自分は立ち竦んでしまってその場から動けない。「今の、HiMERUくんの表情がすっごく良くてね〜」と監督の声。良かった、おかしくはなかったみたいだ。一緒になって画面を覗き込んでいる天城が少し変な顔をしているが関係ない、もうこのシーンは終いだ。
 一番上まで留めていた襟のホックを外し、詰めていた息を吐き出す。心臓がきゅうっと締め付けられるように痛い。この撮影が始まってからこんなことばかりだ。恋愛なんてしたこともない、『俺』には理解の及ばないことだから、考えず演じることに徹すれば良いと思っていたのに、掻き乱される。しかも原因がわからないから厄介だ。

『このままどこへでも行けそうだなあ』

 先程のまあるい声が頭の中でリフレインする。
 もしも。もしも自分達がアイドルでなければ、本当にどこへでも行けたのだろうか。同じ教室で机を並べて退屈な授業をやり過ごしたり、時にはサボって屋上へ行き何をするでもなく時間を潰したり、テストの点数や体育の成績を競ったり、放課後は寄り道をしながら自転車で帰ったり。ありふれた学生生活を気の置けない友人同士として共に過ごす、そんなパラレルワールドのような青春もあったのだろうか。
 らしくもない、と思う。アイドルとして生きる以外の道を夢想するなど、『HiMERU』としてあってはならないことだ。でもだからこそ今はもう少しだけ、この柔くて歪な幻のただ中を漂っていたい、そう願って止まない。
 願った理由には蓋をして、彼のいる方へと足を向けた。心を掻き乱す原因に正しく思い至るのは、もう少し先のことだ。

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