ほらね盲目なのよ/タバシャス

※仏兄弟同室前提


 『グラースの夜遊びについて』という何気ない話を恭遠から聞いたのは四日前のことだった。

 あくまで世間話のようなそれを自分が解決すると申し出たシャスポーの隣で、どことなく居心地悪そうに聞いていたタバティエールから「辞めさせるのは難しいんじゃねえかなあ」という言葉を聞いたのはその日の晩のことである。来客を迎え入れるために開けたドアノブを握りしめながら、唐突に目の前の男が口にした話題が弟のことだと気付くまでに、シャスポーはゆうに一分近くかかった。
 日頃シャスポーが口うるさく言うので、この肌寒いなか外へ一服しに行ったばかりのタバティエールからは夜と煙草の匂いがした。数時間前のやりとりをじっくりと時間を掛けて考えて、どうにか無難な言葉を探して伝えようとするこの男のなんと真面目なことだろう。あの時すぐ言わなくて悪かったとは思うんだが……という歯切れの悪い言葉を続けながら部屋へと入ってくるタバティエールを眺めていると、何を思ったのかシャツの袖口を鼻先に近づけ「あぁ、悪い。におうよな」と踵を返した鈍感な背中に、シャスポーは呆れてため息をひとつ吐いた。

「違う。そっちじゃない」
「『そっちじゃない』? …………ああ、グラースのほうか?」
「そう。何が難しいんだ」

 そもそもシャスポーだって、グラースの健全かどうかも怪しい交友関係に口を挟むつもりは毛頭ない。けれど、自分と容姿の似ている弟がシャスポーを騙り、勝手気ままに過ごすという悪い癖は士官学校へ来てからも続いている。その悪癖を更生させる大義名分が目の前にぶら下がっているのに、飛びつかない手はないだろう。

「困っているのは僕だぞ? いい機会じゃないか」
「まあ、それには同意なんだが。辞めさせるにもアイツに真っ向から伝えたって反発するだけだろうから、出来るだけ少しずつが良いというか、いきなり強制するのは難しいんじゃないかと――――」
「それで何もしなければ野放しになるだけだろ。だいたいどうしてあいつはあんなにも遊び回っているんだ? 雨の日だってそうだ。大人しく部屋で過ごせばいいのに」
「それは…………」

 もごもごと言い淀んだタバティエールのことが気になり、続きを催促してみるも、いつも通りの頼りなさそうな笑みが返されるだけだった。それよりも喉が乾かないか? ハーブティーでも淹れてきてやるぜ。
 この話はもう終わりと示されてもなお、追及するような趣味はシャスポーに無い。自分はグラースよりもおとなだから、この男の決断力の無さを今日は見逃してやろうとおもう。それにハーブティーを断る理由も無かった。
 タバティエールが何を言いあぐねているのかはわからないままだけれど、シャスポーは了承の意を伝え、今日も空になったままのベッドの二段目を見つめたのだった。


 ◇


────翌日、小雨の降り止まない天候から頭痛が治らず一日ベッドで過ごした。グラースは部屋に居なかった。

────その翌日、マスターが時間があると言うのでシャスポーおすすめのカフェに誘い、職業体験までの時間をとても有意義に過ごした。部屋に戻ったとき、すでにベッドの二段目は空だった。

────さらにその翌日、急な招集ということでシャルルヴィルと共にフランス支部へと向かった。ようやく任務を終えたのは太陽が山の麓から顔を覗かせる頃、当然イギリスへの鉄道もまだ動いておらず、帰国は休息後昼前にという話で落ち着いた。

 シャスポーが件の目的でようやくグラースを捕まえられたのは、フランスから戻ってきたその足で、疲れているマスターのために茶菓子でも用意させようとタバティエールを探してキッチンを覗いたときだ。


「―――─それ、本気で言ってんのか?」

 だらしなく調理台に体重を預けた体勢のグラースが、自分と同じブルーグレーの瞳をおどろきで瞬かせ、つまみ食いしていたカヌレを片手にそんなことを言うものだから、思わずシャスポーも同じように目を瞬かせるハメになった。グラースは信じられないものでも見るかのように、シャスポーの頭から爪の先までいったりきたり視線を這わせている。

「え、本気でか?」
「……どういう意味だ」
「呆れた。本当にお前らは視野が狭くて嫌になるね。何のためにこのグラース様が……」

 ブツブツ。眉間にしわを寄せてグラースが文句を言う。
 自分は何かおかしなことでも言っただろうか。
 今夜もデートで部屋を空けるのだと上機嫌でスイーツを食べていたグラースに、他人が作った物を勝手に食べるな、行儀悪く調理台に乗るな、恋愛に現を抜かすな夜遊びも程々にしろと伝えただけだ。
 はじめは面倒くさそうに聞き流していたグラースが、シャスポーの忠告を聞いた途端に呆れ顔で文句を言い始めた。持つ者と持たざる者ってこうも違うかね、まったくモーガンもこいつの方が好みだなんて本当に見る目が無い、やっぱり僕の方が何倍も魅力的じゃないか、等々。急に何なんだと、聞こえてくる文句を聞き流しながら思案し始めたタイミングで、グラースが再びシャスポーのほうを向く。
 思わず身構えた兄の様子を満足そうに眺めてから、今度は愉快と言わんばかりに笑い出した。

「ははは! こりゃ傑作だな」
「おい! 何なんだ一体。さっきのも、どういう意味なんだ」

 注意をしているのはこちらだというのに、何なんだ。まったく不愉快極まりない。
 シャスポーの混乱を他所に、グラースはカヌレの最後のひとくちを口の中に放り込んで、指先についたベトつきを落とすため手を洗い始めた。見るからに鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だ。話を聞いているのかとシャスポーが尋ねると、自分よりもすこしだけ厚みのある口元がにんまりと弧を描く。

「お坊ちゃんにはわからないってのが傑作、って話だよ」
「はぁ!?」
「ちょうどいい機会だ、自覚がないなら理解できるまで考えるんだな。少しでも原因がわかったんなら外出は控えてやってもいいぜ? そうだなあ、週五日くらいには減らしてやるよ」
「それ、今と変わらないだろう! おいグラース!」
「あっははは!」

 条件にならない条件を一方的に突き付け、グラースは「これからデートなんだよ、デート。邪魔しないでくれよオニーサマ」と手を振りながら厨房を去っていく。

――――だから何だって言うんだ!

 遠ざかっていく弟の高笑いが廊下に響いている。遠征帰りの身体に、疲労がどっとのしかかった気がした。
 恭遠に相談を受けてからもう五日になる。一週間近く成果を出せていないなんて優秀とは言えない。
 夜遊びをやめさせるだけでいいのだ。それだけなのに、シャスポーはわかってないとグラースは言うし、タバティエールも難しいと言う。

 そういえばタバティエールはどこへ行ったんだ。

 グラースにつまみ食いされたカヌレたちを眺めながら、これらを作ったであろう料理人のことを想う。カヌレは焼きあがった後、粗熱をとってから冷やす必要があるのだと前に言っていた。つい先ほどまで居たことは確かだろうから、きちんと見張っていればこのカヌレたちもつまみ食いされることはなかったろうに。
 すこし数は減ってしまったけれど、この数なら十分マスターにも出せる量だろうか――――そう考えを巡らせていたタイミングで、ギィイと、重厚なキッチンの扉が開く音がした。

「シャスポー? 何してるんだ?」

 聞き慣れた、すこし掠れた低い声。靴の裏を擦るような歩き方。ぐるぐるしている己の心境とは裏腹に、なんとも呑気な声が聞こえてきて、シャスポーはキッチンへ入ってくる男をねめつけることしか出来なかった。歯抜けになったカヌレに気が付いたタバティエールがわずかに眉を顰めるのを、どこか恨めしげに見つめる。

「あれま。つまみ食いされちまったかね」
「……警備が手薄だからだよ。どこに行ってたんだ、タバティエール」
「談話室で燻製の作り方を教えてもらってたんだ。今日はでかい獲物が獲れたんだとペンシルヴァニアに呼ばれてな。そしたらシャルルくんから、お前もさっき帰ってきたって聞いて」
「そう。……僕は疲れた。何か甘いものが食べたい」
「へいへい、ちょっと待ってな」
「マスターの分も」
「はいよ」

 今回の遠征に共に同行していたシャルルヴィルはお土産にとスイーツをたくさん買い込んでいたから、マスターや皆へ配るためにまっすぐ談話室へと向かったんだろう。そうだ、グラースのことで頭を悩ませている場合ではないのだ。まずはマスターの慰労が先だ。もしも談話室でマークスに捕まりでもしたら、マスターの疲労が今の十倍は増えかねない。
 そんなことを考えながら、手際よくお茶の準備を始めた背中を物憂げに眺めていると、シャスポーの前に、カヌレがひとつ乗った小皿が置かれた。

「お湯が沸くまで先にコイツでも食べてな。いつもより余計に頭を使って、糖分を欲してるだろ」

 遠征の帰りで、普通に考えれば体の疲労の方が大きいのだけれど。何を言っているのかわからないグラースの言動に振り回された脳は、間違いなく甘味を欲していた。
 美味しそうなカヌレとタバティエールの顔を交互に見る。これはきっと、先程グラースが食べていたカヌレとおなじものだ。ここにカヌレがあるということは、明日のお菓子はマカロンなのかもしれない。マカロンは、カヌレを作ったときの残りの材料を使うことも多いと聞く。グラースはマカロンを見ると、いつぞやのフェスティバルのことがどうたらと調子よく言い始めて面倒くさいので、つまみ食いされることを予想したうえで一緒に作ったであろうカヌレを目につきやすいところへ置いていたのだろう。
 よく理解しているな、と思う。

「…………グラースのこと、おまえはわかってるんだよな。タバティエール」

 具体的に何とは言わなかったけれど、タバティエールは「あー……」とバツの悪そうな声を出した。

「というか、まあ。その。たぶん……俺のせいだからなあ」
「どういうこと」

 相も変わらず歯切れが悪いタバティエールに文句のひとつでも言おうかと顔を上げたその時、唇へ、ふに、と柔らかいものが触れた。次いで香ってくる煙草のにおい。驚いて、シャスポーの顔に影をつくった張本人を間近で見れば、いつも浮かべている頼りない顔がくしゃりと崩れて、申し訳なさそうに笑っている。

「確証は無いんだが……。たぶん、見られちまったかもな。こーいうの」
「………………は?」

 シャスポーにだけ聴こえるように発せられたバリトンボイスが、じわりじわりと脳の奥へ染み込んでいく。
 こーいうの、こーいうの。こういうのって、何だ。コーヒーに注ぎたてのミルクみたいに渦巻いて、思考が整理できないままでいるシャスポーの頭を、無骨な掌がやわく撫でる。

「俺が行くから、部屋を空けるようにしてくれてるんじゃねぇかな。……都合良く考えすぎかもしれないが」

 部屋を空けるようにしてくれている、理由。
 同室である弟、空になる二段ベッドの上。あたまのなかで、いくつかのピースが嵌っていく。
 それじゃあ、あのときの。あのグラースの態度は。

『本当にお前らは視野が狭くて嫌になるね。何のためにこのグラース様が……』

――――――――ガツン。
 突っ伏したときにぶつけた額に熱が集まる。大丈夫かと心配するタバティエールの声がなんだか遠くに聞こえる。
 シャスポーがタバティエールと付き合い始めたことをグラースに話したことはない。なんとなく気恥ずかしさもあったし、わざわざ時間を設けて伝えるほどの間柄ではないからだ。アイツの前で変な態度を取った記憶もない。タバティエールにも面倒事は避けたいと言ったから、余計なことはしていないはずだ。
 いつからだ。いつからバレていたんだ。恭遠は何か言っていただろうか。自分はグラースに何と注意しただろうか。調理台は額の熱を冷ますのに何の役にも立たないし、脳には糖分だって足りなくて、もうこれ以上考えられそうにない。

「頭が痛い………………………………」
「はは。だから恭遠の前で言えなかったんだよ。悪かったな」
「悪かったどころじゃない。最悪だよ」

 まあ、俺は部屋へ行くの、辞める気なかったしな。
 聞きなれたバリトンボイスがそう言うので、シャスポーは思わず出かかった声もすべて喉元に押し込んでくちを結ぶしかなかった。それを期待と勘違いした男が熱い頬をすくいあげてついばむようにキスをしてくるのも、怒る気になれなかった。お付き合いがバレたグラースにどう接すれば良いのか、恭遠への報告は何と言えば良いのか。様々な感情が混ざり合った思考が、舌先から溶けていく。
 もういい。報告内容はあとでタバティエールにも考えさせよう。今はただ、与えられる甘美を享受することにする。共犯のおとこを迎え入れるように首の後ろへと腕を回して、シャスポーはもう一度、くちびるをひらいたのだった。

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