夫婦善哉



「そういやあ、おめぇ昔はオレのことテチュって言ってたぜ。『テチュ、来た!』っつって。」
伸びきった餅に砂糖醤油を絡めながら、こちらを見やり「時々三歳に戻りゃいいのになあ。」とテツが言った。
一月の寒い時期にノースリーブでも寒くないという、筋肉達磨のためにエアコンをガンガンにつけている暖かな部屋の中。
鏡開き用に煮た小豆で作った試作品の善哉の入った塗りの碗を置いて、やっとのことで食卓に着いた譲介は、お笑い芸人の出ている正月特番のチャンネルを変えようとして片手に持ったリモコンで、思わずテレビの電源を切ってしまった。
「おい、お笑い。」
医者にしては無駄に筋肉のある腕が伸びて来たので、譲介はテレビのリモコンをテツの鼻先に突き付けた。
「正月早々から受験生のやる気を削ぐようなこと言わないでくれますか……?」
和久井譲介は当年とって十五歳。
自分で言うのもどうかと思うが、ピカピカのティーンエイジャーだ。
過剰なほどの男性ホルモンで周囲を圧倒することのできる自信過多の中年の百倍は傷つきやすい。
「受験生っつったって、おめぇ普通に合格圏内じゃねえか。当日風邪でも引くんでなけりゃ、なんとかなンだろうが、」
今度こそイエローカードだ。
譲介はテツを睨みつける。
さっきまでぜんざい作ってたくせに、というテツの言葉は、途端に尻すぼみになった。
「不吉なことを言わないでください。次に同じこと言ったら三日は口利きませんから。」
「やっぱり三歳じゃねえか。オレが帰る段になったら、あの頃のおめぇは、オレんことを嫌いだ嫌いだっつって、百回は泣いてたぜ。」
「泣いてない!」
「いいや、泣いてた。」
譲介の養い親は、反論する譲介をニヤニヤと眺めて、また餅を食べる。
テツは、磯辺焼きと呼ばれる甘辛い醤油だれの餅が好きだ。
近所の和菓子屋に糯米を持ち込んで作らせたのし餅は、この間動物番組で見た猫ほど伸びる。
伸びすぎる餅は食べづらくないのだろうか、と思うけれど、テツは妙に美味しそうな顔つきをしていた。
ぼんやりとその顔を見ていると「油断したな。」と言って長い腕を伸ばした男は、譲介の片手からリモコンを取り戻してテレビの電源を付けた。
明るい照明の下。似合わないピンストライプの衣装で書割の舞台に立つお笑い芸人が、画面の中で笑っている。
――ダサいな。
けれど、一心不乱に勉強する受験生は、あのテレビの中の芸人の百倍はダサい。
親の敷いたレールを歩く人生も、同じくらいダサい。(正確には、テツは譲介の親ではないし、親以上に大事だけど、傍から見れば似たようなものだ。)
首尾よく志望校に合格したとして――テツのように政治家やヤクザと言った錚々たる金持ちの顧客を捕まえてフリーランスの医者になるならともかく――地元の病院で勤務する医者になるとなれば、激務で身体を壊すか、その激務に耐えたら耐えたで、やはり恐ろしくダサくて退屈な人生になるだろう。
それでも、譲介を捨てて逃げた父母の人生よりはずっとマシではある。
それに、傍から見ればどれほどダサい人生に見えるとしても、テツの隣にいられるならそれでいいと思うほどには、譲介はテツのことが好きだ。
さっさと義務教育を終わらせて、地元の大学の医学部を卒業し、医師免許を取った暁には、得体の知れない客に捕まって全国あちこち津々浦々とふらふらしている保護者の首根っこをこの雪深い地元に括りつけて、養う側に回るのだ。
高校浪人などもってのほかである。
だから、保護者の無神経さに神経を尖らせた譲介は、内心で思いっきり拗ねた。
拗ねたが、餅は食べる。
漆のお椀を前に譲介は箸を持って、いただきます、と合掌する。
テツから二十年ぶりに食べたいとの要望を受けて作った汁粉の試作品は、味はどうあれ、見栄えはそう悪くない。
餡は北海道産の小豆で作られていて、つやつやと輝いている。それに、茹でた餅はさっと食べて器を洗わないと後で面倒なのだ。
器の中に餅は一つきり。
鏡開きの日には、ふたつ入れようと思っている。
譲介は、噛み切れない餅を口にして、もぐもぐと咀嚼する。
悪くはない。
ただ、カレーと比べるのがダメなのだと思ってはいるが、特別に美味しいものとも思えない。
「滑り止めは受けんだからいいじゃねえか。おめぇの成績ならどうにかなるだろ。」
「もし本命に落ちて私立に行くだなんてことになったら、僕あなたの金で大学行くの止めますから。」と譲介は付け加える。私立高校の学費は、入学費用から制服代、果ては修学旅行の積み立てまで、とにかく馬鹿みたいに金がかかるのだ。譲介がむっつりと黙ると、テツは訝し気にこちらを見た。
これがテツの出先からの電話であれば、画面をスワイプして通話を終えることが出来るけれど、対面ではそうはいかない。
「……医者になるんじゃねえのか?」
テツは、低い声で、譲介の覚悟を問うようにして言った。
「ここから通える場所で十年新卒で働いてから、なんとか二千万稼いで医学部に入り直します。足りない分はその時に貸してください。」
いつからか考えていた台詞を、譲介が目を見て言い返すと、テツは、はあ、と大きなため息を吐いた。どうせオレが出すんじゃねえか、というテツの言葉は、ナイフのように尖って、譲介の胸に刺さる。
どんなに背伸びをしようと、譲介はテツに養われている。
その事実は変わらない。
「――っ、たく。七面倒くせえ真似しようとすんなっての。」とテツは頭を掻いた。「おめぇが三十になったらオレは六十、いや、六十一か。還暦だぞ……いつまで働かせるつもりだ。」
頬に笑みを浮かべてはいるが、銃弾のように目の前の相手を一発で射抜く、いつもの好戦的な気配は感じられず、どことなく困惑しているような雰囲気もある。
言い負かされてしまった譲介は、そんなテツから視線を逸らし、伸びた餅の半分を噛み切った。
小豆の皮が舌にざらつく。
普通は、こんな風に餡を手作りせず、缶かビニールの包みに入った粒餡ないしは漉し餡を水で薄めて溶かしてから餅を投入するらしい。手作りであれば、譲介は好きな量で調整することが出来るけれど、市販の餡の方がきっとテツが食べても旨いものが出来ただろう。
「あのさ、テツ。年取ってもし勤務できる時間が減っても、最低限、僕が卒業するまでは働いててよ。テツなら、八十まで大丈夫だから。」
鯱張った敬語を取っ払って、譲介は養い親に懇願した。
この先、周りから爺さんと呼ばれる年になっても、テツは今のままの独立独歩の自由な医者をやってるかもしれない。だとしても、テツが七十から八十になるまでの十年間くらいは、譲介が養うことを許してもらえたらいいと思う。
「八十なあ。その頃にゃ、こんな風に餅を食うこともなくなってるかもなァ。」
「あのさ、テツ、本当にこういうのが美味しいって思う?」
ぜんざいってどういう味がいいのか分からなくて、と譲介は首を傾げる。
「なんだァ?……おめぇが失敗作とは珍しいじゃねえか。」
砂糖と塩の量でも間違えでもしたか、と呟いて、テツは眉を上げ、箸立てから匙を取り出して譲介の器の中の餡をひと匙さらって口にした。
口から覗くその赤い舌を目にすると、譲介は時々自分の部屋に全速力で駆け戻りたくなる。
十五の子どもの心は複雑だ。
少なくとも四十六の男よりはずっと。
「……こんなもんじゃねえのか?」と首を傾げるテツに、譲介は作った笑みを見せる。
「砂糖を少し減らしたんだけど、甘すぎない?」
「さあなあ。初めてにしちゃ、上出来じゃねえか。」
塩は一つまみまでにしておけ、と言って、テツは笑った。
譲介の気持ちを揺らす笑み。
三歳の自分は、この人を嫌いと言ったのか。
好きな人への率直な好意を、気持ちのままに伝えられないところは、その頃から十二年経っても変わってないらしい。
「小豆、オレの分あんのか?」
「そりゃ、鍋の中にはまだあるけど、少ない。底から一センチ分はある。」
譲介が鍋の中身を見に行くと、味見しているうちにすっかり減ってしまった小豆が、鍋底に少しだけ残っている。
「何だァ? ケチケチしねえで二袋でも、必要な分だけ買ってくりゃ良かったじゃねえか。」
「だって、残るかもしれないし。明後日また作るから。」
テツは今年は十日にならないと仕事を入れてない。左義長は一緒に行けない代わりに、鏡開きにするのだ。
去年までは、もっと早く仕事が入っていたので、七草を食べた。
今年は面倒なので、両方はしないと決めている。
「まあそうだけどよ。……譲介、餅まだあるか?」
「今から焼く。待っててよ。」
「磯部にしてねえやつでいいだろ。これじゃせいぜい一切れ分だな。夫婦善哉か。」
「……めおとぜんざい?」
「ひとり分の善哉をふたりで分けるのをそう言うんだよ。オレが生まれる前の映画だ、金がねえ夫婦の話だよ。」
へえ、と譲介は思う。
テツは話したがりで、時々こんな風に譲介に、誰かから聞いた昔の話をしたがる。
「男の財布がすっからかんなもんで、店には二人分の善哉が頼めねえ。……いや、逆だったか。……まあいい。」
テツは、もう一つの漆の器の中に、器用に餡子をさらえる。
「生まれる前の映画のことなんて、なんで知ってるの?」と譲介が言うと「そりゃまあ、アレだ。何度かドラマになったから、どれかを見てたんだろ。」と言ってテツは笑っている。
「誰かとこういう風にしたことある? めおとぜんざい。」
「さあなァ……ここ何年も、善哉なんて食おうと思ったこともねえよ。」
今はおめぇがいるからな、とテツは言った。
きっと、今のテツには何かを誤魔化された気がする。
それでも、誤魔化されてもいいかと譲介は思う。
テツに知らない誰かとの思い出があったとしても、今日のぜんざいは譲介とテツだけの思い出だ。
「僕、甘い豆は苦手だけど、ぜんざいは好きかも。」
そう言って小さな器の中の小豆を覗き込むふりをすると、器を持ち上げたテツは「やらねえぞ。」と言って、譲介の隣で楽しそうに笑った。

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