【涼衛】撮影と指輪の話
今日の衛は、遊園地で過ごす予定となっている。……とは言っても、遊園地とのコラボレーションで、オフショット風の撮影をするという、仕事の予定だ。後日、本当のプライベートの時間に遊びに来られるように手配されているし、その予定も立てている。けれど、この日の衛たちは休園日の、関係者以外は入園できない遊園地に集まった。撮影の衣装も、コラボレーション相手の色に合ったものである。ユニットによっては、遊園地のキャラクターが前面に出たものになったと聞いているが、衛たち四人のユニットだと小物に見られるくらいで、あとは普段の私服に近いものだ。事前の打合せで相談すれば本物のオフの姿も許可されると言われたが、衛は相談しなかった。残り三人のユニットメンバーも同様らしい。
もちろん、衣装を用意するスタッフたちはプロである。着る人間の普段の服装の傾向や好みを把握し寄り添って、それでいて遊園地の雰囲気にかちりと合ったものを選んでくれた。現に、こうして衛が袖を通しているシャツもパンツも、色やサイズだけでなく、着心地もとてもしっくりときているのだ。着替え終わった衛の胸に押し寄せてきた感動と尊敬の念は、まだじわじわと体中に広がり続けている。
ただ、用意された一点の小物に関しては、感動よりも、強い困惑が浮かんでしまうのだけれど。
「うーん……」
衛は、右手の親指と人差し指で挟み、目の前に掲げたアクセサリーを見つめて、唸り声を漏らした。控え室の照明を受けてきらりと輝くのは、小さな銀色の輪だ。衛は、それをどうすれば良いのかを理解はしていた。だが、どうしても実行にはうつせず、ただじっと眺めては、困ったような気持ちを膨らませ続けている。
輪の向こう側を見ても、控え室の奥があるだけで、また新たに生まれた不安を吸い取ったりはしない。
そうやって、しばらく銀色と、その先にある景色ばかりを見つめていたから。衛は、自分の後ろで響く足音にも、その音がだんだん大きくなっているのにも、なかなか気付けなかった。
「――衛、支度は終わった?」
誰かが近付いているらしい、と。衛が自分の耳の拾った音を認識して、しっかりと考えようとするのとほとんど同時に名前を呼ばれた。突然、想定外のタイミングで声をかけられたのにびっくりしてしまって、衛の肩は勝手にびくりと震える。当然、声の大きさの制御なんてできないので、返事も場違いな音量になる。
「わわっ、リョウくん!」
名前を呼び返しながら振り返ると、ふわり、と。先ほどまで見ていた輪よりももっとまばゆい銀色の髪が、衛の目の前で揺れる。
小物に気を取られ、ぐるぐると考え事をしすぎていたけれど。たった一言の声を聞いた時点で、衛はその声の主が誰なのかをすぐに把握した。体の向きを変える最中に呼んだ名前の通りで、ユニットメンバーのひとり。同じ控え室で一緒に撮影の順番を待っている、涼太である。昂輝はリーダーとして打ち合わせに呼ばれ、剣介は先行して遊園地の様子を見に出ている。
それでも、人違いはしていなくても、衛の反応はとても動揺したものだったのだ。衛が改めて向き合った涼太は、呆れの混ざった苦笑を浮かべている。
「そんなに驚くこと?」
涼太の表情にほんのりと心配や謝罪の色も混ざっているのが見えて、衛は慌てて軽く頭を下げた。
「ご、ごめんね、着替えは終わってます!」
謝罪をしてからすぐに、衛は涼太に服装がきちんと見えるようにと、堂々とした姿勢を取る。衛は自分の格好を見せるのと同時に、真正面に立つ涼太の全身をきちんと見ると、彼は淡く、春らしい色のシャツとコートを纏い、下は黒いパンツを履いている。普段の印象とほとんど変わらない服装で、やはりプロはすごい、と。最初の感動が衛の体の中央に戻っていく。
さっきの驚きの余韻でまだ胸はどきどきとしているけれど、涼太の姿を見ていると安堵が生まれる。そのまま寮の共有ルームにいてもおかしくない雰囲気を持った彼の近くにいれば、すぐに落ち着くだろう、という確信もある。そうして、涼太に声を掛けられるまでずっと膨らんでいた困惑や不安も、ちょっとだけ和らいだ気もする。涼太の質問に答える衛の声は自然と明るくなって、そこから、涼太の顔つきも穏やかな色に変わるのも確認できた。
それに、ひとりで考え込むのではく、誰かに話せば良いのだ、と。衛はずいぶん柔らかくなった頭でそう思いついて、そのまま続けて口を開く。
「着替えは終わったんだけど……ただ、これがまだで」
衛はそう言いながら右手を持ち上げる。手のひらを天井に向ける形でゆっくりと慎重に開いて、振り向く時に握り締めていた銀色の輪を、涼太の前に出した。
衛の手の上で、宝石や装飾などのない、シンプルな指輪が、蛍光灯の光を受けて再び輝きはじめた。先ほどまでじっと見つめていた小物、今日の衛の衣装と一緒に置かれていた指輪である。細くはないが、いかつい太さもない。ただ、指に嵌めた状態で撮影しても、きちんと確認できる存在感がある。
「これ、って…………指輪」
涼太はその指輪を見て、じっくりと時間をかけた返事をしながら、少し驚いていた。……そのはずなのだけれど、それはほんの一瞬の変化で終わった。衛がその様子に気付き、何かあったのかと首を傾げるよりも前に、涼太は真面目な顔つきに戻り、でも、と。表情と同じ声色で次の言葉を口にしていた。
「衛だって、指輪は初めてじゃなかっただろ」
「うん。ライブとか、舞台では結構してるかな。ただ、今日みたいな私服っぽい衣装では、ほとんどなかったから……」
衛も芸能プロダクションに所属してから随分と経っていて、その年月の分だけ様々な仕事を経験してきた。歌とダンスがメインのライブはもちろん、演劇の舞台などの芝居もかなりの回数になってきたし、撮影ならもっと多い。指輪と、それを身につけるのは、衛にとってそう珍しいことではなくなっている。涼太の確認にすぐに頷いたように、指輪自体には何の抵抗も浮かばない。ただ、これまでのほぼすべてが、日常から離れたイメージの衣装だったのだ。
「だから、なんだか緊張するなぁ、って」
ピアノを弾くから、と。補足みたいな言葉を口にしたのは衛ではなく、涼太だ。衛はユニットの楽曲を担当していて、そうでなくても音楽が好きだ。寮ではよく自室のキーボードやピアノ室の鍵盤に触れている。とはいえ、指輪をしているとそれらが弾けない、なんてことはないけれど、ただ衛の気持ちが落ち着かないのだ。だから、普段の生活の中で、指に絆創膏や包帯以外のものをつけた記憶は一切ない。涼太も、衛のそうした様子を見ていて、理解してくれている。
衣装担当のスタッフには嵌める指は自由にして良い、とは言われていたけれど。普段と同じ雰囲気の服装だから、何となく、寮で過ごす時間を思い出さずにはいられない。ついでに、日常生活の中のシンプルな指輪から、両親の左手の薬指で光る銀色、という。ぼんやりとした記憶まで引っ張り出してしまった。それで戸惑いも重なってしまい、衛はどこに、どうしようかと、長いこと悩んでしまったのだ。
(……って、考えすぎだったなぁ)
かなり、すごく、緊張をしすぎていたのかもしれない。衛はそうやって、自身に向けた反省の感情を、心の中にひっそりと浮かべる。この時、ひととおりの説明を終えた衛の胸中は、重苦しさがなくなり、すっきりとしているのだ。溜め息を吐き出すみたいに、胸の内に溜まっていた感情を整理できたのかもしれない。
深く考えずに、右手の、どこかの指に嵌めれば良いだけなのだ。衛はようやく、静かになった思考で、そうしたひとつの気付きを掴んだ。とても簡単なことなのに、先ほどまではずっと胸がざわめいていて、考え事をしてもどこにも進めなかった。衛はその緊張の大きさに驚いてしまうし、きっと話を聞いた涼太からすると、呆れるしかないものだっただろう。すぐに、涼太には申し訳ないことをした、と謝罪が浮かぶ。その一方で、涼太に話さなければ、涼太が話を聞く姿勢でなければ、気付けなかった、という。申し訳なさよりも大きな感謝を抱く。だから衛は、そんなことで悩んでいたの、とか。涼太から正しい指摘を受けなくてはと思いながら、視線を指輪から涼太の方へと戻した。
しかし、衛のその予想に反して、まばゆい銀髪の下にある赤い瞳は、ずっと真面目な色を灯したままだ。しかも、緊張したようにも見える様子で、涼太は口を開く。
「ちょっと、いい? サイズは合ってるんだよね」
「えっ」
右手を持ち上げながら、涼太は衛にひとつの確認を向けてきた。涼太の言葉は衛が想像していたものとは大きく異なっていて、どうしても驚き、戸惑ってしまう。それでも、話の内容は理解できるし、拒否するものでもない。涼太の言葉と所作の流れから、おそらく手にとって、指輪の大きさを確認するのだろう。衛は涼太の質問をそうやって受け取って、ひとまず頷いた。
「えっと、うん……どうぞ?」
俺は大丈夫だよ、と。衛はこくりと首を縦に振る。それを見た涼太は、やはり右手を衛の指輪の方へと伸ばして来る。そうして、ゆっくりと慎重に、二本の指で銀色の小さな輪に触れる涼太の指先をじっくりと眺めていると、ぴたり、と。床の方に向けている衛の右手の甲に触れて、そのまま固定させるみたいに掴んでくる感触があった。やわらかいが、涼太の右手ではない。衛が首を傾げながら、じんわりとした温度を持つその存在に視線を向けると、それはしなやかな指を持つ手で、淡い色のコートの袖から出てきていた。
つまり、涼太の左手によって、衛の右手は、緩やかに、しっかりと、動かないようにとおさえられたのだ。やっと落ち着いたと思った衛の胸中は、今度はさらにたくさんの疑問と戸惑いによって、大きく揺れ始める。
「――えっ?」
えっ、え、と。衛はぽかんと驚きながら右手に起きている変化を見つめて、短い声を上げ続けることしかできない。おさえられた右手の甲はどんどん熱を持っていくし、ぬるい温度を持つかたいものが、中指の爪の先から付け根近くまでするりと通っていく。
しかもその時、衛は自分の右手の中指とは別のところに、同じ銀色の光を見つけてしまって、えっ、と。また新しい驚きの声を上げてしまった。
着替えの直後に抱いた感動、それから指輪を見つけた時の困惑と緊張、その後に、涼太に声をかけられた時に浮かんだ安堵。そういう、この控え室の中で衛が胸に抱いたはずのいくつかの感情は、すべてどこかに飛んでいった。しばらく見つめていなかった涼太への淡い感情が今になって目の前にあらわれて、熱のある驚きとして膨らんでいく。
「サイズは問題ないよね。――これで、準備ができた」
涼太のその一言が衛の耳に届く頃には、右手を包んでいた感触はすっきりとなくなっていた。涼太は両手だけでなく、全身を衛から一歩ほど下がったところに離したのだ。その間の衛はといえば、ずっと驚きの中に留まっていた。もはや相槌どころか、え、という困惑の声すら上げられなくなっている。対する涼太は、指輪を見た時から変わらず真面目なまま、変わらない。衛が動揺しているのを少しだけ見つめてから、さらりと流し、衛に背を向ける。
「それじゃあ。……俺はコウの様子を見てくるから」
右手にあったぬくもりが遠ざかっても、衛の内には熱が残り続けている。その温度が全身に広がっていって、だから頭が上手く回らないし、顔まで熱いのかもしれない。ぐるぐるとあちこちを巡る熱を感じながら、衛はどうにかして涼太へと一歩踏み出し、声を出す。
「えっ、えーと、りょ、リョウくん!」
衛は、涼太へと右手を伸ばしながら、名前を呼ぶ。待って下さい、と、足を止めてもらうための言葉を投げかけた。伸ばした手の、中指の付け根はこの時も銀色に輝いていて、これは他でもない、目の前にいる涼太の手によってつけられたものだ。衛の思考は熱によって混乱しているけれど、そのことだけは正確に理解している。それから、とにかく、ひとつの頼み事をしようと、あとはそれだけしか考えられなかった。
涼太は衛の呼びかけに対して返事もなく、振り向いたりもしないものの、それでもぴたりと立ち止まった。涼太の反応に安堵する余裕もなく、衛はばたばたと涼太のすぐ近くへと向かう。
涼太が衛の頼み事を断る可能性も、反対に、そのまま承諾した場合の自分たちの姿も。この先のすべてについて、衛は何の想像も、想定や予想だってできていない。ただ胸の真ん中に浮かんでしまった言葉を、涼太に伝えたい。その一心で、衛は動かないでいてくれている涼太の横に並んで、手を下ろす。太ももあたりに下ろされた涼太の右手に指先を近付けて、ほんの少しだけ触れた。
「俺も、ちょっといい、かな……?」
涼太は、人との直接的な接触をあまり好まないところがある。それは親しい人が相手でもあまり変わらなくて、一番付き合いの長い剣介でも、時折押しのけられたりしている。衛ももちろん、勢いで接触してしまって、とても嫌そうな顔を向けられた記憶が多く残っている。
けれど、受け入れられる時だってあるのだ。今この時の涼太は、何の動きも見せていない。横に衛が立っていても、顔どころか、視線すら動かない。ずっと、控え室の出入り口のある方向を見つめ続けていた。その横顔には嫌そうな色は含まれていないし、衛の手が振り払われる気配もしない。衛の指先は、涼太の指先に触れ続けている。衛の右手にあるのと同じ銀色が光る手だって、そのままだ。
「リョウくんの指輪を、見せてもらいたくって……」
ぐるぐると、ふたりの間に鈍い熱が巡っている気がする。涼太のゆるく波打った銀髪がまぶしくて、はっきりとは確認できないけれど。涼太の顔色はいつもよりもう少し赤みを帯びているようにも見える。しかし、それならば、たどたどしい話し方しかできない自分の顔はどんな色をしているのだろう。衛が伝えたかった言葉を口にしきった後の一瞬に、そんなことを考えていると。ぐい、と、衛の意志によるものではないちょっとした力で、衛の両手が持ち上げられた。
「少しだったら、問題ないけど……どうぞ?」
そこでようやく衛の方に向けられた涼太の表情は、先ほどと変わらず真面目で、かたくなだ。だから、嫌悪などの暗い感情は何ひとつ含まれていないのもわかった。衛が伸した手も、口にした頼み事も受け入れられたのに安心したけれど、すぐに新しい緊張と入れ替わる。自身の右手と、その手が触れている涼太の右手で輝くふたつの指輪に、全身の動きが止まりそうになる。思わず涼太の手をしっかりと握ってしまっても、それらが隠れることもない。
(もしかして、リョウくんも同じなのかな……)
どこかぎこちないやりとりは、衛ひとりだけでは作れない。涼太の手は、一度離れるより前も、そうして今も、あたたかいままだ。衛は、涼太の内にも似たような熱が渦巻いていたら、と。ふと、そんな都合の良い想像をしてしまう。けれど、答えのわからない考え事をしている場合ではないし、どちらにしても、衛のやりたいことは変わらない。衛は、涼太が目の前に出してくれた、彼の指の中にある銀色を見つめて、集中する。そうして、先ほど涼太が触れてきた時みたいにそっと、涼太の人差し指に嵌められている指輪に手を伸ばした。
撮影を無事に、良い写真とともに終えられるのか、という。今日の予定に対する疑問と緊張は、この時の衛たちにとってはまだまだ遠い、輪の外の景色のようだった。
『環状の熱』
powered by 小説執筆ツール「arei」