きみのかけら - 空P
時を超えた来訪者との思わぬ出会いから一年。
ピッコロはひと山向こうから自分を呼ぶ悟飯の声を聞き取り、一人耽っていた瞑想から立ち上がった。冬のほど近い野山は枯草が目立ち、陽が昇りきった今もしんと肌を突く冷たさが一帯を占めている。時折吹く向かい風の鋭さに顔を顰めながら空を西から東へ横切り、ピッコロは悟空との組手を終えた悟飯のもとへと降り立った。ひらひらと手を振る悟飯のむき出しの肩からは熱が発露し、靄が気のように白くもうもうとたちのぼっている。
「今日はずいぶん早いな」
「風も強くなってきたし、早めに引き上げようっておとうさんが」
「そうか。当の悟空はどうした?」
「向こうの頂上に熊を見かけて、お昼ご飯だって狩りに行っちゃいました」
「あいつ……ただ腹が減ってただけじゃないのか…」
人造人間の存在と襲来を聞いた直後には、ピッコロとてその強大さと凶悪さに驚きと、また設けられたリミットに焦燥を覚えなかったわけではない。だが焦りが成果を生み出すものでないことを、ピッコロはよくわかっていた。殺人マシンが誕生し街に降り立つまで、三年。それは皮肉にも、過去にピッコロが"宿敵"に復讐を果たそうと待ち焦がれた歳月と同じだった。
「ピッコロ、午後はオラと組手だからな」
「ふん、また妙なルールを作るんだろう」
「うーん、でももう思いつかなくなってきたぞ。指一本、目隠し、脚技だけ、片腕だけ……悟飯、なんかいい案あるか?」
肩に熊を縛りつけた棒を担ぎ、木から木へ、岩から岩へと飛び移り三人は家を目指す。冬を目前に野山には動物の影も少なくなり、早々と冬越しに入る恐竜たちなどはすでに洞穴や浅く掘った巣で深い眠りに暮れていた。三人が立てるガサガサと木を揺らす音に驚き顔を上げるものもあったが、起きたところでその目に映るものは既になかっただろう。
「ぼく昨日、陣地を決めるのはどうかなって思いついたんですけど…」
「陣地?」
「地面に小さい丸を描いて、守り手はそこから出たら負けで、攻め手はそこから追い出そうとするんです」
「なるほど。それなら目隠しなどもその条件下で応用できるな」
「面白そうだ! 二対一もやれそうだし、悟飯とピッコロが先攻な」
「ハ! 随分と余裕だな」
時は、焦ろうが怠けようが万物へ平等に一分、一秒と過去をもたらす。来る結末にどれだけもがき抗おうとも、時間は一直線に進むのみ。だが絶望に満ちた未来への対抗手段を、この世界の戦士たちは手に入れることができた。敵の情報は少なくとも、修行を怠ける理由などどこにもなく、また無駄に緊張に費やすこともない。猛る高みへの好奇と欲がピッコロを錬磨し、この一年でずっとその強さに磨きをかけた。
「早く試してえな! 急いで飯食って始めよう」
「はい!」
かつての"宿敵"悟空が相変わらず弾んだ声で勝負を望んでいる。傍らで、幼くして挑むことへの恐怖を払拭した悟飯も、悟空とピッコロに倣い真摯に自分を鍛えあげながら年相応にこれまでなかった日常を楽しんでいる様子を見せ、ピッコロは釣られるようにして高まる期待に笑みを零した。
「おかあさん、ただいま」
「腹減った〜! ……あり?」
広い庭──というよりは、家の裏手のただの野っぱら──へ狩り取ってきた熊を寝かせ、悟空と悟飯は家の門戸をくぐった。常であればそこで出迎えるチチの姿は今日はなく、当然、二人の待ち望む昼食もなかった。
「さすがに早すぎたか」
「都に行ってんなら、まだしばらくはかかるだろうなあ。オラ熊一匹じゃあ足んねえや……」
「ぼくも……」
ぐう、と見事な腹の虫の二重奏が居間に響き渡り、ピッコロはため息をついた。腹を減らしたこの二人といえば、本領発揮ができないどころかむしろパワーも集中力も落ち、ろくに戦えやしない。どれだけ鍛えてもこればかりは気力でどうにかなるわけではないらしく、食事をしないピッコロは半日ごとにやれやれと呆れ、二匹の腹ッ減らしをチチのもとへ送り届けることにも慣れてきていた。
「何も待つこともないだろう、お前が作ればいいじゃないか」
「食材は計画的に、って勝手に食うと怒られんだよ」
「ぼくもおとうさんも、食いしん坊だから」
しょぼんと肩を落とす悟飯から察するに、勝手に食べて怒られたことは一度や二度ではないのだろう。「お前たちほど作りでのある父子もそういないだろうな」ピッコロが小さな頭に手を置けば、丸い頬がほんのりと色を帯びた。
「ま~作ったっていんだけど、チチみたいにうまい飯はできねえしなぁ」
「えっ」「……できるのか」
「大したもんはできねえけど、切って焼いて茹でるくらいならそう難しいこっちゃねえだろ?」
てきとうに言ったつもりだったピッコロも、悟飯ですらもこれには驚きの声を上げた。二人分の眼差しを受けて悟空は得意になるでもなく、下拵えされた食材たちを涎を垂らし端から眺めている。
「ま、チチに怒られねえで作れるもんつったら、飴くれえか」
「それは飯ではないだろう」
「だな〜腹の足しにもなんねえや。熊だけ先に焼いちまうかー」
悟空の言い様から、ピッコロも悟飯が望むような食事が供されるとはないと悟り、ひとつ頷く。巨大冷蔵庫がパタンと空気をたたむ音を立てて閉じ、小さな悟飯の前髪がひらりと揺れた。
「ぼく……」
「うん?」
俯いた悟飯がそろそろと顔を上げ、庭先に出ようと窓枠に足をかけた悟空の背中を視線で追う。先ほどよりも赤みの増した頬がもぐもぐと言葉を咀嚼し、やっとのことで絞り出した声はごく控えめで、しかし確かな熱を帯びていた。
「あめ、食べてみたい……おとうさんの………」
チチの背丈に合わせた少し低い台所で、悟空を挟みピッコロと悟飯は水蒸気の立つ鍋を覗き込む。ホウロウ製の白い鍋底を滑る、無色透明な砂糖水。それはふつふつと煮立つほどに柔らかく粘度を帯び、うっすらと蜜色の輝きを持ち始めた。
「オラが子どもだったとき、よっく作ってもらってたんだ」
「おとうさんが、子どもだったとき……」
目の前で台所に立ち、鍋を火にかける悟空の姿を不思議そうに見上げていた悟飯が呟く。宇宙を渡り常人離れした能力を持つ者たちと死闘を繰り広げた経験を持つ悟飯でも、父親の幼少期というものは想像の及ばない不可思議な物語に聞こえるのだろう。
「じいちゃんのべっこあめ、うまかったなあ」
うっとりと、まるで白昼夢を見るように目を閉じた悟空に、ピッコロは腕を組んだまま黒いつむじを見下ろす。その向こうで、背伸びをして並んだ同じ形のつむじが、これまた不思議そうに相槌を打った。
「べっこうあめ、じゃないの?」
「あぁ、そうだったな。亀仙人のじっちゃんにも言われたっけ……でもじいちゃんはずっと『べっこあめ』つってたから、オラもついそう呼んじまうんだ」
くつくつと沸かせ続けた糖水は、やがてのったりと重く色を変えて、甘く甘い香ばしいまでの匂いを立てはじめた。
「聞くが、お前、作ったことはあるのか」
「あるぞ? 亀ハウスで修行してた頃に作り方を教えてもらったっきりだけど」
途端、不安になってきたピッコロは鍋の様子を改めて慎重に見た。同じく覗き込む悟飯は不安か、それともやはり期待にか、床から足先を離して鍋を見守っている。
不意に、沸いた飴の端がぽんと鈍く音を立てて気泡を弾かせ、宙空に飛び出した飛沫を避けようと悟空が悟飯の肩を引いた。さっと火を止め、悟空の手から鍋を拐ったピッコロの手の中で、蜜飴が重たく揺れ動く。
「やべーやべー、焦がすとこだった」
「お、おとうさん、やけどしてない?」
「空気が熱かっただけで大丈夫だ。ピッコロもありがとな」
「早く移した方がいいんじゃないのか、もう固まり始めてるようだぞ」
「そーだったそーだった」
場所のわからない悟空に代わり悟飯が手早く用意したクッキングシートをバットへ敷き、そこへ悟空がスプーンひと匙分の糖蜜を垂らす。とろとろと柔らかな飴は重力に従い、バットの上で思い思いに輪郭を広げた。「おい、隣とくっついたぞ」「大きさが違う」と口を出すピッコロの反対で、悟飯が「これは色が濃いね」「これ、クワガタの頭みたい」と感想を述べ、せっせと手を動かす悟空は二人に挟まれ「うるせぇなあ」と笑った。
「きれい……」
バットの上に並ぶつやつやとした琥珀色は、ところどころ気泡が入り、形も大きさも統一感のないものばかり。表情豊かにできあがった飴を、悟飯はさきほどの悟空のようにうっとりと眺めた。
「ねえおとうさん、もう食べてもいい?」
「さすがにもうちょっと冷やした方がいいだろうな。ピッコロ、冷蔵庫入れといてくれ」
「なんで俺が」
「お前なんも手伝ってねえじゃんか」
ぐうの音も出す、ピッコロはそっとバットを取り上げ、チチの作り置きたちの隙間になんとか平衡な場所を見つけてバットを押し込めた。二度三度前後に揺れた銀色は、留まれというピッコロの念を受けてか、もう一度後ろに傾いた後静かに止まった。
庭で焼かれる熊と、火を焚べながら悟空に子供時代の話をせがむ悟飯を眺め、ピッコロは窓枠のすぐそばに腰を下ろした。思い出話に花を咲かせている悟空が、冒険の先に「ピッコロ大魔王」と出会う頃を見計らって、二人のデザートを用意するために。
「あまぁい!」
べっこう飴をひと口含むなり、悟飯は弾むように声を上げた。ただ煮詰めただけの砂糖がどう変わるのか、ピッコロは甚だ疑問であったが悟飯の嬉しそうにゆるむ顔を見れば、その疑問もするりと解けていくようだった。カラカラと音を立ててゆっくりと堪能する悟飯に、悟空も思いがけず出来が良かったのか、「そうだろう」と満足そうに頷いている。
「ほれ、ピッコロ、お前も舐めてみろよ」
「いらん」
「食わず嫌いすんなよ、うめーぞ」
昔話の中、悟空はべっこう飴を「思い出の味」と呼んだ。亀仙人に作ってもらった飴をひと口食べ、懐かしさに涙した当時の自分に、そう呼ぶものだと亀仙人が教えてくれたと。記憶に残る味とはどんなものだろうか。話に耳を傾けながらピッコロはなんとはなしに思い、悟飯の笑みにその答えを見出したつもりだった。
手のひらに置かれた琥珀色の細いかけらは、昼の陽を受けてきらきらと輝いている。不安そうに見上げる悟飯の視線を感じながら、ピッコロはそれを摘み舌先でぺろりと舐めてみた。
「っっっなんだこれは!!」
舐めたところにまつわる、重たくくどい、粘っこさのある風味。悟飯の用意した水をグラスごと飲む勢いで口をすすいでも口に残った"甘さ"は拭いきれず、まるで舌先から溶けていくような味わいにピッコロは悲鳴を上げた。
「ひどい甘さだ、とても耐えられん」
「なははは! 悟飯見たか、ピッコロのひでー顔」
「笑ったらかわいそうだよ、おとうさん」
言いながら、そんなにかなあ、と呟く悟飯も、ピッコロの悶絶ぶりには驚いたのだろう。悟空はひぃひぃと呻くピッコロをひとしきり笑ったあと、ピッコロがテーブルの上に放り出した飴のかけらをひょいと摘んで食べた。
「なっおい! 食うな!」
「だってお前食わねーんだろ、もったいねえ」
詫びのつもりか、水差しから注いだ水をピッコロへと差し出し、悟空は悟飯と同じように、カラカラ、口の中で思い出の味を鳴らした。
「うまいか? 悟飯」
「はいっ」
元気よく返事をする悟飯に、ピッコロは解けたと思った謎がまた胸の奥で絡まっていくのを感じた。口の中には、いつまでも重たい甘さがへばりついて落ちようもなかった。
春も過ぎ、夏の始まりを感じさせる暑さが続いたある日。ピッコロはなだらかな野をのんびりと進むうちに、不意に鼻腔を掠めた匂いにいつかの記憶が呼び覚まされ、喉の奥が渇く心地を覚えた。
爽やかな午後に重たく空気をただようにおいをたどり、ピッコロは地面へと降り立って開け放たれた窓から中を覗いた。
「またその甘ったるいのか」
背の低い台所に立ち、少し背を丸めて鍋を揺すっていた悟空が驚く様子もなく、ピッコロの声に顔を上げる。
「覚えてたんだな、ピッコロ」
「忘れられるか。しばらく口が溶けそうだった」
静かに口端で笑う悟空にピッコロが居室に視線を巡らせば、やはり幼いパンがすやすやとぬいぐるみを抱えて眠っていた。悟飯にパンの迎えを頼まれたピッコロだったが、これでは抱えて空を行くわけにもいかず、目覚めるのを待つしかないらしい。
匙で飴を注いでいく悟空の傍ら、ピッコロはパンはいつ寝たか、お昼は食べたかと質問を続けた。「ちょっと待ってろよ」と笑い、悟空はやはり気泡だらけの、いびつなべっこう飴をバットへ並べた。ピッコロがそれを受け取り冷蔵庫を開くと、今度はすっかり収まるスペースができていて、なんなくバットはそこへ収まった。
「ビーデルとチチは、そろそろ帰る頃か」
「悟飯が迎えに行ってんだろ? あいつすぐ連れ回されっから、きっとまだかかると思うぞ」
剥げかけた木の柄のホウロウ鍋に、くすみの増えた水差しと、新しい形のグラス。窓にはカーテンがかかり、初夏の日差しをやわらかく翳らせている。宇宙のあちらこちらの土産話に耳を傾けつつ、ピッコロは丸くなった爪先でグラスの結露をゆっくりと撫でた。
「もっぺん食ってみろよ。今度はうまいかもしんねーだろ」
バットを取り出した悟空がひとつ口に含み、小さなかけらをピッコロへと差し出した。いつかのように手のひらに置かれたきらきらと輝く粒は、あの日と同じ、琥珀色に輝いている。
しばし眺めたのち、ぺろりとひと舐めして、ピッコロは顔を険しく歪める。そしてゆるく緩む口端で、小さく笑った。
「………甘い。………相変わらず」
カラカラ、と飴を鳴らして、悟空が「そうだな」と水差しを手に取った。
@__graydawn
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