ラピート・ナール
無念の、繰りあげ、スタートです
その言葉はそこそこ強いと思った。みっつのフレーズのうちのふたつは良いものなのに、くっつけると途端に不穏で苦しい言葉になる。ありふれた言葉の組み合わせなのに、特定の競技の特定の状況でのみ使われて、競技者に強い感情を生み出す。
「これならどうかな?」
私がそういうと、バーサーカーはふるふる蠢いた。
『マエノ、ガ、ツヨイ』
「だめだったかー」
ため息にもならない吐息が蒼い世界に溶けていく。積み上がる建物は珊石のようになめらかな白で、海中のように珊瑚があちこちに根付いている。珊瑚の姿に重なり多種多様の生物が息づいていた。私を包み込むのは、赤、橙、黄、緑、藍、紫では区分できない、無限の色数だ。訂正しよう、生物はほんとうはどこにもいない。そう見えるだけの色の三原則があちこちで息吹いている。
「やっぱり、前回のが強すぎたんだ。もう打ち止めじゃないかな」
鮮やかな世界のなかで、私にはなにもない。まっしろ。白紙の私は理由もなく、理由もしらず、戦い続ける。ムーンセルが引き合わせた最も相性の良いサーヴァント(戦いの道具)は、やはり何もなさそうな泥の塊だった。
バーサーカーは、泥だった。
ある時とつぜん校舎に現れた敵から、ただただ死にたくないだけで逃げ回っていた私を助けてくれた泥は、バーサーカーのクラスのせいか意思疎通があまりうまくいかなかった。巨大な泥が蠢き、ぷるぷると動物みたいに啼く。それでも最近は随分とおしゃべりできるようになった。
なによりも、バーサーカーは強かった。つまり、私たちは強いということだ。
『はくの、ムネン、のカラアゲ』
「繰りあげだよ」
無念の繰りあげスタートです。けっこういけると思ったのだけど、バーサーカーに伺わなくても確かに前回に比べると不穏さが足りない。
私はもともと無口なようだ。自分が無口かどうかというのは結局は他人との比較評価がないとわからないことなので私をそう評したのは私以外ということになる。そう言われたのはいつだっけ。記憶がないから思い出せないのか、単にどうでもいいから記憶しなかったのか。
記憶もない、誇るべき経歴もない。ただ白紙のような名前だけがある。なにもないくせに、死にたくないから生きる。
「無念の繰りあげスタートです」
もう一度言ってみて、やっぱり弱いなと首をかしげると、同じようにバーサーカーも泥の体をくねっと曲げていた。おもわず笑ってしまう。
記憶喪失のマスターと、喋るのがへたなバーサーカーなんて、確かにお似合いかもしれない。
それでも暇はちゃんと生まれてしまうので、こうやって、普通のフレーズのはずなのに組み合わせると不穏な言葉になるランキングをつくっている。今のところ、前回の発見した「民族浄化」が最も強い。民族も浄化も多くの人が知る普通の言葉なのに、組み合わせるとどうしてここまで寒気のする音になるのだろう。
「なんで、きみだったんだろうね」
問いかけても答えはない。どうして私にぴったりなサーヴァントが本当の名前も分からないバーサーカーだったのだろう。
最近はずいぶんと私もよく喋る。よく笑う。よく怒る。でもずっと、紙の真ん中は空白のままで、それは余白とは違うもっと切羽詰まったものなのに。
「ギルガ、ね、ジガハ、ガヨクカラモ、うまレルッテ」
「お、また出たなギルガネ」
ギルガネ、といって泥は不思議な啼き声をあげるけど、その意味はあまりわからない。でもこの仔の大事な話なのだと思って、それはぜんぶしっかり覚えておく。もしかしたらギルガネというのが、バーサーカーの本当の名前なのだろうか。
「さあ、行こうか、無念の繰りあげスタートにならないように」
しずむ
溺れる、おぼれる、おぼえる
体のはじからリボンようにくるくるとほどけていくようで、蒼い海が黒ずんで沈んでいく。私が解体されて、ようやく掴んだ全てが消えていく。
ここまでなのか。
結局のところ、真っ白なままで、聖杯戦争という命のぶつかり合いの道具としてしかあり得ないのだろうか。自分には例外処理なんてなくて、無いものは無いままなのだろう。
「ちぇ……あとちょっとだと思ったのに」
鮮やかな蒼い世界から落ちていく。黒く、暗く、いやきっと何もない場所に。
『はくの』
落下しながら駆けてくる声があった。遠くから、それはするどい声になって走ってくる。
「バーサーカー?」
ばらばらになっていく私、どろどろになっていく君。
それでもバーサーカーは走ってくる。落下する私に向かって、真っ白な獣が走ってくる。足の裏で暗闇が交互に弾ける。もも、ひざ、ふくらはぎすべてを使って、その衝撃を推進力にかえる。その肩には長い紐のようなものが巻きついている。
誰かにその紐を手渡そうとしているのだろうか。
誰に。私に。
私は必死にバーサーカーに手を伸ばし、でも届かない。
「バーサーカー!」
ごめんね、ごめんなさい。見つけたのに、追いつかなかった。私は私というぼんやりとした自我をもち、乏しいながら新しい記憶を積み重ねていけていた。それでも、まったくぜんぶ意味がなくなってしまう。ごめんね、ここまで一緒にいてくれたのに。
「ごめんね」
私にはそれを受け取れないみたいだ。
もう別の人につないでしまっていい。私の次の走者は私が来るのを待っていたかもしれない。ぜんぶ駄目にしてしまった。私は繋がないといけなかった、次のスタートライン、私のゴールで。
「ごめん、届かない」
手を伸ばしても、バーサーカーに届かない。ただ暗いなかを白紙のまま落下していく。
ここで終わりなんだ。私は死ぬだけで、やり直しもない。誰かに引き継ぐこともできない。次の走者は、ずっとスタートができないで待ち続けて、時間がきて空砲が響けば、私のことをほんの短い時間だけ思って、その後にゴールに向けて走り出す。繋がらなかったね、と言いながら。でも別にいい、と振り払うように思いながら。
「じゃあ、なんなんだよ、こんな繋がらなかった終わるだけの物語なんて」
それが最後の言葉になるはずだった。ばらばらの私を物語たらしめるものへの別れの言葉のはずで。
「ギル、お願い」
はっきりとした、願いが響く。それが誰の声かわからずに、私はばらばらになっていく私の形で見上げた。
「きっと、つなげるから」
私がもう伸ばせなくなった手をすり抜けて、紐が落ちていく。ものすごく速く走ってきてくれたのに、あんなに真剣な、苦しそうな姿で追いかけてきてくれたのに。
くらい。もう、バーサーカーの声も聞こえない。
月の裏側みたいにくらい。いちども地球をみたことがないくらいに、遠くてくらい。
「無念の繰りあげスタートです……」
私といっしょに、星のように落ちていく紐がある。
なにも覚えていない。
「これって、ゴール? それともスタート?」
私が虚空につぶやくと、心底呆れたような声がした。
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