明星
本編後の四少
色々捏造
四信です
大丈夫なかただけどうぞ
1.
キイ、と軋む音を立てて診療所の扉が開いた。
暗闇の中から遠慮がちに中を覗き声を掛けてきたのは|陳洛軍《チャンロッグワン》だ。
「|四仔《セイジャイ》、|信一《ソンヤッ》を見なかったか?」
「今日は見てない。急用か?」
「いや、そうでもない。……四仔は時間あるか?」
言われて壁に掛かった時計にチラリと視線を送る。今日はもう誰も来なそうだし、そろそろ閉めても良い時間ではある。
「俺以外に練習台はいないのか」
「|十二少《サップイーシゥ》は絶対に来ないし信一にも逃げられてる」
まるで捨てられた仔犬のような顔がたとえ演技だったとしても、この表情で見つめられたら敵わない。あのふたりもそれがわかってるから逃げ回っているのに違いない。
四仔は小さくため息を吐いて、読んでいた本を閉じた。
「お手柔らかに頼む」
「任せとけ!」
パッと輝く笑顔が太陽みたいだと思う。洛軍のまっすぐな心根に照らされると、自分もその誠実さに応えなくてはと思えてくるから不思議だ。
診療所を出て理髪店に向かう途中、洛軍は天后廟に立ち寄った。線香を立てて祈りを捧げる。
「ここに来ると落ち着くんだ」
天井から吊るされた無数の塔香を眺めながら洛軍ははにかんだ。くるくると螺旋を描く塔香は竜巻の名を持つあのひとを思いおこさせる。
龍捲風の言いつけを守って洛軍を城寨の外へと運び、結果的に生き延びることになった四仔達は、その代償として龍捲風の亡骸に対面することが叶わなかった。だから龍哥を偲ぶ場所が洛軍にとってはきっとここなのだろう。理髪店は洛軍にとっては今や日常で、日々学ぶことの多い彼にはゆっくりと思いを馳せる場ではないのかもしれない。
一命を取り留めたあと、洛軍は龍捲風と城寨の方をつけるために単身城寨に乗りこんでいった。その行動が、三ヶ月間彼がどんな思いでいたのかを物語っている。親の因縁など関係ないと言い切った男が、因縁が原因で失われた恩人の命のために自らの命を賭して、落とし前をつけたのだ。
「座って」
革張りのバーバーチェアに座るように促され、腰を下ろす。背凭れを倒して横になると、自然と視線が天井を向く。
「シャンプーも練習して良いか?」
シャカシャカとカップの中で泡を立てながら洛軍が尋ねる。
「ああ」
「ありがとう」
こんなことにまで律儀に礼を述べるのが洛軍の美点である。
温めたタオルを口の周りに当てて、その間に乾いたタオルを首元に広げる。数分置いてから口元のタオルは取り去られ、別の温かいタオルが目元を覆った。柔らかなブラシが口元に泡を載せてゆく。片刃の剃刀を皮で滑らかにする音が耳に届く。
「始めるぞ」
練習中の彼は四仔が動かないように毎回合図をしてから刃を充てるのだが、これはこれで緊張するものだ。顔に傷痕があるものだから、洛軍も毎回苦戦しているようだった。
「あ」
呟きと同時に左頬にピリッと痛みが走る。
「悪い」
「大丈夫だ。最後まで続けて」
手を止めた洛軍に続けるよう促す。失敗しても焦らずに集中力を保てるところは見習いたい。黙々と手を動かし、最初の失敗以外は問題なく剃り終えた。泡を落とし、アフターシェービングローションを塗って完了だ。まだ血の滲む傷に洛軍が小さなテープを申し訳なさそうに貼った。しゅんとして落ちこんだ表情が実にわかりやすい。
「シャンプーもしてくれるんだろう?」
「ああ」
気を取りなおしてシャンプー台の椅子に移動する。洛軍の指先が力強く頭皮をマッサージしてゆく。力加減が絶妙で、これは心地が良い。トリートメント剤を洗い流してドライヤーで乾かす頃には理髪店に着いてから一時間以上が経とうとしていた。
「なんか食おう」
洛軍が片付けるのを待って、理髪店の戸締りをしてからふたり連れ立って七記冰室に向かった。
2.
同じ時間、|廟街《テンプルストリート》にあるナイトクラブのひとつに信一と十二少はいた。ふたりは今や龍城幫の|大佬《ボス》と架勢堂の若頭である。かつて信一が働いていたこの場所は虎哥の縄張りだが、実際の管理は十二少が受け持っている。ここのところ行儀の悪い客が執拗に従業員に付きまとい、しかも薬を持ち込んでいるという報告を受けて、様子を見にきたのだった。現れた問題の客をVIPルームに呼びだすと警戒心もなく喜んでやってきた。ソファに並んで座る十二少と信一を交互に見て、客の男は戸惑う様子を見せた。セントラルで働くビジネスマンが羽目を外すには廟街はちょうど良い距離感なのかもしれなかった。調べ上げた職場や家族の情報をチラつかせると、男は真っ青になって、二度とここには現れないという念書にサインをし、帰っていった。取りあげた男の所持品にあった薬を信一が確認する。
「出所を調べておく」
「悪いな」
話をつけたあと、ふたりは城寨に向かうべく店を出た。
カラフルなランタンやネオン看板で飾られた通りには屋台が立ち並び、香港のローカルフードのみならずトルコやネパールの料理も楽しめる。食欲をそそる香りが通りを満たしていた。串焼きやフィッシュボールの他に新鮮な果物も並ぶ屋台を見て、十二少が口を開く。
「洛軍に食わせてやりたいな」
あいつは美味そうに飯を食うから、と続ける。
「こんど連れてこよう」
信一は頷いてそう答えた。
正真正銘、香港で生まれたことが判明し身分証を手に入れた洛軍は、行こうと思えばどこにでも行けるはずなのに九龍城寨に留まる選択をした。龍捲風にとっては戯れだったかもしれない、「理容師になるか?」という問いかけに、その言葉通りの陳洛軍になることを彼は選んだのだった。
「腹減ったな」
「戻ってあいつら誘おう」
「いま何時だ? 四仔のやつ、今日は逃げきれたかな」
「捕まったに賭ける」
「賭けにならないだろ」
前を行く十二少を小突いて信一が笑った。
理髪店も四仔の診療所も閉まっているのを確認してから向かった七記冰室で、テレビを観ながら円卓に並んで座るふたりを認める。四仔はすぐに信一と十二少に気がついた。
「よお、色男」
左頬に貼られたテープを見て信一がニヤニヤと笑う。
「黙れクソ黒社会」
「俺の勝ちだな」
差しだされた十二少の手のひらをパチンと叩いて、
「賭けにならないって言っただろ」と信一は唇を尖らせた。
「お前ら、まったく良い友達だよ」
洛軍は呆れたように信一と十二少を交互に見やる。
「拗ねるなよ、ほら、土産」
信一が卓の上に屋台で買ってきた西瓜をドン、と置く。
「俺達はよんどころない事情があって|たまたま《﹅﹅﹅﹅》協力できなかったんだよ」
「……そういうことにしといてやるよ。なあ、これ|魚蛋小妹《ユーダンシウムイ》達にも持っていって良いか?」
「ああ」
西瓜を厨房に運ぶ洛軍を見送りながら丸椅子を引いて隣に腰を下ろした信一が、四仔に顔を近付けてスンスンと鼻を鳴らす。
「なんだ」
「シャンプーもした?」
「ああ」
「へえ……」
箸立てを信一の左側に押しやる四仔の動作に気付いて、信一はむず痒いような気持ちになる。右手の指を失くしてから、左手の箸使いはそれなりに様になってきている。
「信一、箸取ってくれ」
十二少は気を遣わないという気の遣いかたをする。
「スプーン要るか?」
洛軍はストレートに気遣いを見せる。
それで、この隣の男はと言えば。
怒りにまかせて麻雀の牌を投げ捨てるようながさつさを持ち併せているはずなのに、医師という職業柄なのか、基本的によく人を見ている。そして優しい。その優しさはいつも適切な距離感で──押しつけがましくなく、こちらが気をつけていなければそうと気付かないさりげなさで──発揮される。そういえばベッドの上でもそうだったなとそこまで考えて、思考を止める。代わりに円卓の下に下ろした右手で四仔の腿に一度だけ触れた。
3.
四人で麻雀を打って、日付が変わる頃に十二少は虎哥の元へと帰っていった。洛軍は明日も早いからと早々に自室に戻った。四仔が最上階の自室に戻るあとを、当然のように信一がついてくる。
「帰れ」
「なんで」
「気分じゃない」
「じゃあしなくていい」
「しないなら帰れ」
堂々巡りの会話をしながら、四仔が扉の鍵を開けるのと同時にするりと身を躱して信一は部屋の中に潜りこんだ。
診療所の雑然とした空間とは対照的で、四仔の部屋にはベッドとテレビくらいしか置いていない。パンツのポケットから取りだした煙草に火をつけようとしたら、「外で吸え」と言われた。口では帰れと言うわりに本気で追いだす気のない四仔の態度に信一はひっそりと笑う。窓を開けると生ぬるい風が室内に流れこんだ。星あかりのなか、手元をライターの炎が一瞬照らし、すぐに暗闇に消える。肺に吸いこんだ紫煙をゆっくりと吐きだしながら煙が薄れて闇に溶けてゆくのを信一は眺めた。
「俺がまだガキだった頃にさ」
視線を上に上げて夜空に瞬く星を見つめる。四仔は返事をしないが聞いているようだった。
「『死んだあとも俺を見ていてくれる?』って大哥に聞いたことがあるんだ」
あのときの龍哥はどんな気持ちで答えたのだろうか。
「そうしたら、空を見上げて、俺にウインクする星が龍哥だって言ってくれて」
四仔が隣に来て窓の外を見上げる。
「それが俺はすごく嬉しかったんだよ」
「……愛されてるな」
「うん」
四仔が信一の唇に挟まっていた吸いさしを摘んでひと口吸い、また信一の唇に戻す。信一は驚いて四仔を見た。
「おま、煙草吸うの?」
「吸わん」
綺麗な貌の唇が窄まって、信一の顔にふう、と煙を吹きかける。部屋の奥に戻ろうとする四仔を信一が呼びとめる。
「あの決断は正しかったと思うか?」
あのとき、洛軍を助けるために龍捲風を残してあの場を去ったこと。
「……俺の意見が必要か?」
信一が知りたいのは、あのときあの場面で龍捲風が自身の命を自分達を守ることに使いきると決めたその理由だった。人は誰もがいつかは死ぬと彼は言ったが、それが今だとなぜ確信を持ったのか。あの大量の吐血。四仔ならなにか知っているのではないか。
「なんで大哥は……。あのとき、皆で助かる方法はなかったのか、あれが最善の選択だったのかがわからない」
「龍城幫の大佬のお前にわからないことが俺にわかるわけないだろう」
それはそうだ。決断を下したのは信一自身で、その結果を引きうけるのも自分であるべきだ。
「龍哥は天命を信じてた」
四仔が静かに口を開く。
「悔いはなかっただろう」
たとえ生き残った信一達がこの先どんな後悔に苛まれようとも。それは生きている人間が負うべき業なのだ。不思議なことに四仔にそう言われると、信一の心はいくぶんかすっきりとして軽くなった。
考えてみたら仮に四仔がなにかを知っていたのだとしても、それを信一に話さないのはおそらくそれが龍捲風の望みだからなのだろう。
「なあ、やっぱりしようぜ」
吸い殻を窓枠に置かれた缶に捨てて、ベッドに腰掛けた四仔の背中に凭れかかる。
「気分じゃないって言っただろう」
「じゃあ一緒に寝るだけ」
そう言って信一はベッドに寝転がる。
四仔はため息を吐いて信一にTシャツを投げつけた。
「服が皺になるぞ。あと歯も磨け」
背中に体温を感じながら腹に回された腕に自分の手を重ねる。見上げた窓の外には優しい光を纏って星が瞬いていた。
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