お題:みすらさんがあきらくんのためになにかを作る(キッチン)
真夜中のキッチンは何の匂いもしないはずだった。
ファウストは足元が浮つく気配にやや酔いが回っていることを自覚しつつ、魔法舎の厨房への扉をそっと押した。ネロの部屋で晩酌し、まだ飲み足らない二人はもう一皿つまみを用意することにした。朝に焼いたバケットの残りがキッチンにあると言うネロへ、配達役を買って出たファウストは階段を降りてきたというわけだ。その間ネロはバケットに乗せる小エビをソテーする手筈。ガーリックシュリンクよりも優しく、バターと群青レモンの風味をつけたエビの身はさっぱりとして、深夜に食べるにも胃にもたれない。ファウストが出先で入手したフルーツワインにも合う。確約された舌の幸福に口端を持ち上げて戸枠をくぐった。ふと、ふわりと鼻先を掠めた匂いに目線をあげる。
廊下の灯が開け放たれた扉から忍んで、淡く照らされたキッチン。誰もいない。なんとはなしに匂いの元を探って、すぐにコンロ上に置かれた銀色に視線が止まった。近づけばほの甘いミルクの匂いがより濃くなり、ファウストは覗き込んだ。縁の周りに白い汚れを残したままの、空の小さなミルクパン。
「水に浸けておかないと汚れが落ちにくくなるだろう」
ほろ酔いのお小言が夜の空気に溢れた。魔法舎の料理番ネロは夕飯後毎度見事にシンクを磨き上げ、完璧に片付けて終わる。翌朝の為の仕込みは置いといても、こんな風に使ったままにしておくわけが無かった。ファウストは片手鍋をシンクに入れ、蛇口をひねる。注がれた冷たい水に白い膜が揺れ惑った。
深夜のホットミルクに子供達の顔を思い浮かべるものの、品行方正な彼らはこんな無作法はしない。その子供達の面倒を見る長寿の魔法使いだって。ファウストはすぐに犯人が思い当たらないことに不思議に思い、鍋を見つめる。日頃から過敏で居れば気が休まらなくなる、あえて閉ざしている感覚を叩き起こし、研ぎ澄ました。雑多に重なる魔法使いの気配の名残りを選り分ける。
「……なんだと?」
ことわりさえも歪ませる禍々しい魔力の持ち主、赤髪の北の魔法使いが脳裏に浮かんだ。
意外な人物にファウストは驚いた。ホットミルクなんて飲むようなタマか。しかし、魔法薬にエバーミルクをベースにするものも無いこともないし、不眠に悩む彼が寝入りに良い温かい飲み物を求める可能性だってある。先入観はよくないとファウストは水へ完全に浸った片手鍋から視線を外した。
バケットはすぐ見つかった。ネロの説明通り、埃避けの木綿の布巾が掛かった籐の籠の中にそれはあった。腕ほどの長さのバケットを一本そっと抜き出し、これまた指示通り戸棚の引き出しにある清潔なティータオルで包む。それでこの場所にはもう用が無いはずだった。
やはり酔っ払っていたのだろう。ファウストはもう一度シンクを覗き込んだ。あのミスラがどうしてホットミルクを作ったのか。真夜中で誰もいないからこそ、東の魔法使いの自制心が緩んでいた。作業台の眼前には開放的な窓がある。今は夜の闇を背景に、鏡写しになっている自身と目が合った。鏡は魔道具にするほど得意分野だ。この場にファウストただ一人、誰にも見咎められないものの、寝巻きに羽織ったストールの中で小さく魔法陣を描く。口の中で含むように呪文を唱えた。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
ファウストの鏡像が歪み、一時前に居ただろう赤髪の魔法使いの姿になった。
鏡の中の彼は手慣れた動作で片手鍋へミルクを注いでいる。味覚が破壊的でも、彼は土着呪術が得意な魔法使い。複雑怪奇な手順の魔法薬が作れるのなら、料理だって出来る道理だ。無表情が火がつけられた鍋をじっと見下ろす。平らな白い水面がふつふつと泡立つのを待つしばしの間。やがてファウストはバゲットを抱えつつ我に返った。
(いや、僕は一体何をしてるんだ)
片手で煙を払うように過去の幻を消そうとする。そのあげた片腕そのまま、ファウストは虚を突かれて固まった。夜の窓に浮かぶ北の魔法使いがミルクの湯気を浴びながら、ふっと笑ったのだ。ひどく優しくて、無垢なまま、まるで誰かへ幸せを贈るように。ファウストは己の目を疑う。同行した任務中でも見たことない。傍若無人、獣と名高い北のミスラがこんな表情をするなんて――。
彼はミルクが泡立って吹きこぼれる寸前に火を止めた。しゅわしゅわと白い泡がおとなしくなる。手にしたマグカップ二つへ注ぎ入れ、そのうちの一つに手のひらから溢すがごとくシュガーを落とす。薄紫色に淡く光ったそれ。男が創り出したことは至極当然のことだった。息も忘れて過去の幻を見守るうち、カランと音が響いた気がしてファウストは再びハッとする。
コンロに空の鍋を置いたままミスラの姿は消えていた。しばらくして魔法の効力は切れ、唖然と立ち竦む東の魔法使いが一人、夜の窓に映っていた。
「……」
二つのマグカップ――。今やミスラは可能な限り毎晩賢者と共にある。寝かしつけの為、それは周知のことだ。シュガー入りのホットミルクが誰の為かなんて考えずとも分かった。分かって、なんてものを自分は覗き見してしまったのかとファウストは頭を垂れた。自ずと口元は緩む。我慢出来ずに笑い声を漏らした。
まるで純然たる、愛じゃないか。
「これは酔いも醒めるな」
バケットを抱え直し、薄明かりの空間から踵を返す。扉を丁寧に閉め、無人のキッチンは再び暗がりに沈んだ。廊下の絨毯を踏み締める足取りは軽く。陰気な呪い屋風情でも、なんだか明るい鼻歌でも歌いたい気分だ。出会い頭に会った誰かに構わず祝福の祝詞を捧げたいぐらい。深夜にそれは叶わないだろう。仕方ないから料理人の頭に魔法で呼び寄せた花冠でも載せてやろうか。
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