溶ける



「若狭が次の寝床寄席に出るかどうか、賭けますか?」
僕は次辺り出るんやないかと思うんですが、と四草が言い出した時、隣の兄さんがぱっと顔を輝かせるのが分かった。
「おっ、面白そうやないか。オレは乗るで。小草若、お前はどうする?」
四草が出る、と言うのでは、必然的にオレと兄さんは出ない方に賭けることになる。
それでええんか、とオレは自問する。
「お前、出ない方に賭けるんとちゃうんか。」
いつものコイツならきっとそうするはず、という気持ちがある。
反射的に警戒してしまうのはこの弟弟子の言うことにいまいち信用がおけん、ということもあるが、「たまには僕かて面白い方に賭けますよ。師匠の弟子ですから。」と言ってる四草の顔が、大概胡散臭いことになっているからでもあった。
真面目な顔をしてても妙に胡散臭いように見えてしまうのは、まあ端的に言うと、オレがこいつを全然信用してへんからてこともあるやろう。
これまでも、喜代美ちゃんには弟子入りやら、新しい芸名やら、色んな局面で賭けのネタを提供してはもろてるけど、今度のは普段に比べたら面白みに欠けるし、第一、四草に分の悪い賭けには違いなかった。
あの春の夜の、散々だった初高座から丸三か月。
いつここに来ても、喜代美ちゃんは気合を入れて稽古をしてるけど、見てる方が今日はあかんな、と思うような失敗をして落ち込んでる日もあるにはあった。
まあ、上下もあったもんやないようなあの日ほどではないけど、高座に出るたびに噛んでまう兄さんみたいに、どんだけ芸達者でも、何度場数踏んでも、本番ではあないな失敗が起こってしまうもんや。
練習で分かってるだけの実力出せるんならまだマシやで、とまあ、そんな風に慰めてみたいけど、まさか本人いる横では出来へんわな。
「草原兄さんから見て、今の若狭のちりとてちん、ってどんなもんですか?」
「そらまあ……、」と言葉を濁してそないしてオレを見てるてことは、高座で出すほどの実力には足らんけど、こうして練習サボりまくりのオレかて出れてんのやから、出るなと言える道理がない、くらいのこと考えてはるんやろう。
ちらりとこっちに向いた視線が正直すぎて、四草が不自然に顔を逸らしてる。
いちいち腹立てもしゃあないわな。
あとでどついたろ、と頭の隅で考えても、それはまあ後回しや。
オヤジもまあ、師匠として、場数踏んで慣らしていくしかないことは気が付いてるはずで、徒然亭の箱入りだった末っ子を誰が見ても早いようなタイミングで、この狭い稽古場から出したったのも、そういう意図があってのことだろう。
人前に出すのがちょっと早すぎたきらいはあるけど、まあ喜代美ちゃんの本質は、後ろ向きの普段の考えを逆向きに爆発させたときのエネルギーにあるからな。
あの落語馬鹿の草々はともかく、サラリーマンになってしもた草原兄さんを引っ張り出して、焚きつけてお節介焼いて、この性根のねじくれた四草みたいな男をこないして引っ張り出したんはあの子がおったからで、言うなれば、周りにいる人間の思惑を軽々と超えてくるびっくり箱みたいなとこがある。
次に高座に出る時には、もっとずっと成長してるやろ。
オレかて、あの子がまた高座に立って、落語家らしく成長して欲しい。素直にそないには思てるけど、ひとつ話を覚えて(それもあの「ちりとてちん」や)、オレより先に、次の話に行かれてしまうのは寂しいし、何より、四草にオレもそっちがええ、というのが無理や、と思う。
兄さんと逆の側に立つことはオレには出来へんし。
「若狭が出る言うても、こんだけ暑いとなあ。気張ったところでこの日差しでは脳みそ溶けてしまうくらいやし、もうちょっと涼しくなった秋とかそのくらいの方がええやろ。」と兄さんは扇子をぱたぱたさせてる。
「そらまあ、そうですけど。」
「まあ、お前がやらんでも、オレは賭けに乗ったるで。」と草原兄さんの言葉尻を引っ掴まえて「決まりですね。」と四草が言う。
あっ。
ぼんやりしてる間に、呑気に構えている兄さんと弟の間で、結局は賭けが成立してしもた。



ただいま戻りました、と言って買い物から戻って来た喜代美ちゃんが台所で立ち働いている背中をよそに、稽古もせずにピーナツの殻を割って淡々と齧っている四草をぼんやりと眺めた。
各部屋にひとつといかない扇風機は、台所との間に立ってぐるぐると首を動かして夕暮れ時の生温い風を運んでいる。
それでも、暑さの引かない夕方にのこのことマンションの部屋に戻って、シャワーで汗を流しながら、クーラーが効くまで待っていることを考えたら、川からの風が通る家の方が幾分かは涼しい。
働いている中華料理の店からパクッて来るのか、最近の四草は落花生を手土産に持って来て自分で食べてることが多い。
一人暮らしで、自分の部屋で飯やらつまみやら食うことになると、ゴミ出るからなあ。
内弟子修行中で強制的に家事する環境に身を置いてる頃ならともかく、ちょっとずつ出る生ゴミのためにいちいち捨てに行くのがまた面倒なんやろうなという気持ちは分からないでもない。
手伝いに行かなならんなあ、と思いながら、オレにもくれ、と言って手を伸ばす。
今日のオヤジは師匠方の寄り合いのような場に行っていて、草原兄さんはもう家で食事を作るというので戻ってしもうた。緑姉さんは最近、曜日を決めて近所のスーパーにパートに出ているらしい。
若い頃からずっと専業主婦が長かった姉さんがなあ、とは思うが、まあ、持ち家買ったとはいえ、維持費も掛かるし、草太を大学行かせるためにひと働きという気持ちになったのだろう。
ちなみに草々は、新地にある師匠の行きつけの蕎麦屋で落語会だ。そば付きの落語会というのはいっぺんやってみたいとは思わないではないが、そういう渋めの店は、得てして草々や柳眉のような古典をする男を好んで呼ぶと決まっているのだった。
「四草、お前、まさか喜代美ちゃんにおかしなこと吹き込んで、無理やり高座に出さすつもりとちゃうやろな。」と声を潜める。
「僕が何を言おうと、決めるのは若狭ですから。」
スカした顔を見ていると、決め手になる言葉もその先の筋書きも、コイツの中では固まってるんやろうと確信した。
「そんな単純な子とちゃうで。」
お前がどれだけ算段したとしても、どうにかなるもんとちゃう、と脅したところで素直に聴く男でもないので、落花生を口の中に放り込む。
「僕だって、そのくらい分かってますよ。……あいつが単純になるのは草々兄さんが関わってる時だけですからね。」
草々?
「……あっ、お前まさか、」と言うと、四草が静かに、と指を立てる。
まさか今の聞こえてしもたか、と思って台所を見ると、「鯛のお造り、コリコリしてて美味しおまんなあ。」と言いながら青菜を茹でてる背中が見えた。
今の喜代美ちゃんの実力が草原兄さんの言う通りなら、あいつは、今のあの子のことを軽々しく持ち上げたりせんやろ、とは思うけど、それはそれとして、喜代美ちゃんの気持ちが勝手にそっちに向いたとしたら分からんな。
「四草、お前なあ……内弟子修行中の妹弟子にそれはないやろ。」という言葉を、年上の男は鼻で笑った。
「恋愛禁止みたいな昔からの決まり事なんか、うちの師匠にはただのお題目でしょう。」
腹は経つけど、こいつが言うと妙に説得力がある。
「そらまあ、そうやけど。」と言うと、四草が、勝った、と言わんばかりの気配が伝わって来た。
兄さん、もう勝負あった、て感じでっせ。
「僕もざるうどんが掛かってますから。」
必死なんです、というその顔は本気なんか?
知ってたけど、ホンマに卑怯なやっちゃな~。
「草原兄さんには、このこと、ネタばらしせんといて下さいよ。」
「そんなん、言えるかいな。」
そうでなくとも、若狭には浮ついたとこある、てついこの間までプリプリ怒ってはった人に向かって、今更火に油を注ぐような告げ口とか、いつこっちにとばっちり来るかもわからんことはオレもようせん。
はあ、とため息を吐いた。
「……今度はいつものきつねとちゃうんか。」
「肌寒い日やったらきつねにします。」
きつねうどんねえ。
よう考えたら、こいつ毎回きつねさんやな。
「どうせ奢ってもらうのなら、なんかもっと、美味い飯でも食べたらええやんか。」
「他に好きなもんないですから。」と言って、四草はぽりぽりと落花生を齧っては庭を眺めている。
……なんや?
「そういうたら、お前、中華料理屋で働いてるて聞いたけど、好きな中華とかあるんか?」
兄さんから、こいつがずっと天狗座の前の中華料理屋に住み込みで働いてた、と聞いて、へえ、と思ったのも、もう数か月前の話やった。
「脂っこい飯は苦手です。」
「中華はまあ炒めもんとか多いけど、他にもあるやろ。ええと、あれや……胡麻団子とか桃饅頭、杏仁豆腐?」とオレが言うと四草はふ、と口元を緩めて「それ、全部デザートやないですか。」と言った。
「ええやないか、デザート。」
そら、似合わんこともないと思うけど、お前がグルメぶって北京ダックとか食ってるとこが想像出来へんねん。
「中華料理屋でバイトしてるくせに。長いことあの……延陽伯とかいうとこにおるんやろ。餃子とか作れるようになってないんか?」
「調理するのはほとんど他のバイトです。僕は給仕と配達して、たまにはレジ任されることはありますけど。」
「へえ、そんならオレでも出来そうやな。」
中学出る前から落語家になることしか考えてなかった中卒のオレに、他に務まるような仕事なんかあらへんと分かってても、たまにはこういうことを考えてしまう。
「料理は出来んかてええですけど、中国語は多少出来た方がいいですよ。あの店、中国語しか出来ない客がたまに来ますから。」
「そらあかんわ。」と両手を上げる。
……大卒のインテリには敵わへんてことか。「それにしても、これだけ長いことおって、料理のひとつも覚えてへんとはな。」
「まあ、落語家に戻るつもりない、て口では言ってても、そうじゃなかったってことでしょう。」
未練がましい話ですけどね、と言いながら、四草はまたぽりぽりと落花生を食べた。
「……そうか。」
「まあ、仮に何か料理を覚えてても、小草若兄さんには出しませんよ。」
「なんでや。」
「僕が内弟子やったとき、味噌汁の味付けの塩梅とかうるさく言ってたくせに、忘れたんですか。」
あれは……お前の味噌汁がホンマに辛かったからやないか。
そう口にしようと思った時、「ほうれん草溶けてる~!」というSOSの声が台所から声が聞こえて来た。
「喜代美ちゃん、どないしたんや!」
「どないしたもなにも、今若狭が言ったのが全てやないですか。」とぶつぶつ言いながらも四草が殻を割ってた落花生を放り出して立ち上がった。
「すいません……メインが豚肉の薄切りの生姜焼きで、付け合わせにしようかと思ったんですけど。」と喜代美ちゃんが振り返った。
火を扱ってる台所は、熱が籠ってしまったのか、もわっと暑い。
「おい、若狭。もしかして換気扇付けてへんのと違うか。」
「あっ……すいません……どおりでさっきから暑いと思ってたんです~。」
喜代美ちゃんの額には薄っすらと汗がにじんでいる。
「四草、お前もうちっと言い方考え。喜代美ちゃんも買い物から帰って来たばかりで、疲れてしもたんやろ。」
夏だけの話やのうても、台所にクーラー入れたらあかんのかいな、と思う。
真っ黒に焦げた生姜焼きが頭に浮かんできて「……オレらも最初っから手伝っとけばよかったわな。他に冷蔵庫になんかないんか? 出来れば火ぃ使わんヤツ。」と聞いてみる。
「レタスと、あと缶詰のコーンとツナ缶で、明日のサラダにしようかと思ってたのはありますけど。」
どないします、と言う喜代美ちゃんの言葉に、四草が冷蔵庫を開けた。
あ、涼しいなこれ。
「冷しゃぶ作って、サラダうどんにでもするか?」
……お前はうどんしか食べへんのか?
そう思って目を剥くと、喜代美ちゃんが救世主が来たというような目をして「四草兄さん、手伝ってくれんのですか?」と言った。
「お前に任せといたら、百年経っても飯食えそうにないからな。」
「おい、四草、お前、可愛い妹弟子に向かって、なんちゅう言い草や!」
そういう生意気なヤツにはこうじゃ、と首に肘を決めると、換気扇の紐を引っ張ってた喜代美ちゃんが「小草若兄さん、台所入ったら大人しくしててください……!」と言った。
振り返ったその片手には……。
「き、喜代美ちゃ~ん……。」
「若狭、落ち着け。」と四草の声がいつもより低くなっている。
「え、あ……すいません! 今から、ほうれん草の、こないして茎のとこだけ切ろうと思ってて!」と言いながら、狭い台所で振り回された包丁が四草の顔の横を過ぎっていく。
キャー!
「分かった、分かったから、包丁そこに置いてくれ!」
「ほんまやで、喜代美ちゃん。」
四草……オレ、お前のそういう人間らしい声、久しぶりに聞いたで……。
すいません、と連呼しながらもまだ手にした包丁を握っていた喜代美ちゃんは、やっとのことで流しに包丁を置いてから、オレと四草のふたりにひたすらに謝った。
「ええねん、包丁、落とさずに済んで良かったわ。」
「……おい、若狭。夕飯はオレと小草若兄さんで適当に作るからお前は先に洗濯もん取り込んで来い。これから一雨来るで。」
「えっ、あっ、ありがとうございます、四草兄さん……!」
お前、もしかして庭見てセンチメンタルに浸ってたんやのうて、まだ洗濯取り込んでへんな、黙っとこ、とか思ってたんか?
はあ~……。
「おい、四草、オレが缶詰開けるからお前はお湯沸かしとけ。」
「へいへい。」
「お前はほんま、オヤジがおらんとすぐそないしてだらけてしもて、……この先どないすんねん。」
「この先て、別に僕は、草々兄さんみたいに、徒然亭を背負って行くような気持ちもないですから。師匠の落語をするにしても、この先弟子取るようなことはないと思いますし。」
何も考えずに発したその言葉に、そこそこ真面目な返事が返って来てオレは目を丸くした。
「……弟子取るとか、取らんとか、お前、今からそんなことまで考えてんのか?」というと、冷たい視線が返って来た。
「小草若兄さんは、何も考えてへんのですか。」
「オレは、……。」
「四草兄さん、小草若兄さん、すいません。こっちの洗濯物畳んだらすぐに行きますから。」という喜代美ちゃんの手にはオヤジのステテコと草々のパンツらしきものがあってオレは目を剥いた。
そ、そうかぁ……。
「アレが羨ましいなら、今からでもあのマンションと車を売りに出して、ここの空いてる内弟子部屋に戻って来たらどうです?」と四草は耳打ちしてきた。
「誰が引っ越すかい!」と小声で吠えると、「なりふり構って格好付けたところで、本当に欲しいもんなんか、手に入りませんよ。」と低めた声で四草は言った。
「師匠だって、仙人みたいにいつまでも生きてるわけやなし。どこかで素直にならないと、いつかは後悔すると思いますけど。」と言いながら、昆布だのが入った乾物の抽斗の中からうどんを選ぶ。
「……オレはこれでええんや。」と自分に言い聞かせるようにして、喜代美ちゃんに背中を向けて戸棚から出して来たツナ缶を開けた。
さっきまであないに腹減ったと思ってたけど、今はあんまり空いてない気がする。
寝床でちょっと引っ掛けて帰る、て言えば良かったなと思いながら、湯が沸くのを待っている四草の顔を眺めた。火の回りが熱いのか、額に汗が浮いている。

お前には、なりふり構わずに手に入れたいもんとか、あるんか?

いつかそんな風に聞いてみたい気がした。

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