湯豆腐

「また豆腐かいな……。」
「腐った豆腐でないだけマシと思ってたらええんと違いますか?」
「もう夏とちゃうわ。このままやと、小草若ちゃんがほんまに骨しかのうなってまうで……。」
秋刀魚の味という映画もありました、などとわざとらしい標準語を使いながらも兄弟子はちゃぶ台の前で胡坐をかいて作り立ての湯豆腐を食べ始めた。
ご飯を炊いたのは僕、湯豆腐をゆでたのも僕、薬味の柚子を切ったのも僕で、この人がしたのは、出汁つゆをお湯で薄めただけだ。
「料理してないんだから文句言わんといてください。」
「オレかて料理する日くらいあるわ。」
「それいつの話ですか?」
卵と納豆かけご飯にするコメ炊いた日のことは勘定に入れんといてください、と続けると、草若兄さんは嫌そうな顔になった。
先月、目玉焼きが食べたいと言ってソーセージと卵を買ってきていたが、僕が留守にしている間にも減った形跡がなかった。
冷奴の季節ではないというのはこちらも分かってるから今日も湯豆腐にしてるというのに。
若狭の母親でもないけど、見たら分かるわの一言くらい言わせて欲しい。
「まあ草若兄さんが高座で稼げるようになったら、そのうちグレードアップした高い豆腐買えるようになりますよ。」
「なんで豆腐やねん。」
「貴重な植物性タンパク質やないですか。」
「そうやなくて、肉とか魚とか食いたいで。」と言いながら、兄弟子は豆腐の味噌汁を啜っている。
「僕だって同じ気持ちですけど、一か月分の食費をこの間のデパートの全国駅弁大会で溶かして来たの、兄さんですからね。」
草原兄さんところから余った餅やらなにやらを貰って来るにも限度がある上に、この人は草々兄さんところから寄越された若狭の作ったと分かるおかずを、なかなか食べたがらないのである。
武士は食わねど高楊枝というが、落語家が高楊枝を決め込んだところで、不健康な人間が一人増えるだけの話。
意地を張るなと言いたいが、意地を張っていないと崩れてしまいそうな気持があるのだろう。



草若師匠が、一度あの頃の弟子四人を集めて、落語家を廃業すると言った日のことが忘れられない。
明日からは師でも弟子でもない、という言葉を聞いて、僕は頭が真っ白になっていたし、草原兄さんも似たようなものだった。
師匠に反駁出来たのは若いふたりで、それでも草々兄さんは、恩のある師匠に強く出ることは出来なかったようだった。
あの日に、よその師匠のとこ行け、と言われた後で我に返って紛糾する僕ら四人を大人しくするために、これで話はしまいや、と師匠はその場で一喝して、腕を組んで口を噤んだ。
この人に、あの頃の草々兄さんほどの実力があったなら。あるいは、一門会の高座で草々兄さんが自信を喪失していなかったら。ふたりの誰かに草若の名が継がれた可能性はゼロではなかった。
もし、師匠が生きている間に、小草若の小さいという字が取れるタイミングがあったとしたら、あのタイミングだったと今でも思っている。
一生小さいという字が取れることがないなら、この先もずっと小草若のままでおったる、と決めた兄さんが天狗に頭を下げたのはあの後のことだった。
父親の元を離れ、徒然亭の名を一人で背負ってるつもりで活動していたからこそ、あの頃のこの人があれほど売れたのだろう。
オヤジの借金を返せ、と言った鞍馬会長が裏で手を回した可能性もあったが、この人本人が、売れること、金を稼ぐことにあれだけ貪欲になったのも、師匠の借金があったればこそ。
いつか自分が被るはずの、借金の肩代わりを考えていたのだ。
気張って、気張って、また気張って。
草若師匠が復帰した後で人気がしぼんでいったのも、暴力沙汰を起こすほど感情が不安定になったのも、元々の小草若兄さんの気質からして当然のことだった。
親の元から、羽ばたく必要がなくなったのだから。
古巣に戻り、草々兄さんとくだらないことで喧嘩をしていたようなかつての一門会の頃の『小さい草若』に戻ったところで、この人が一番ギラギラしていた頃のような魅力がなくなってしまったと感じた人間は少なくなかっただろう。



「今度、鯖寿司も買って来ますから、しょうもないことでグダグダと文句ばかり付けてないで、ちゃんと稽古してください。」
「しぃ、オレ肉も食いたいで~。」
「肉はまあ、次に高座の金が入ったらでええでしょう。」
僕の方の器の湯豆腐の出汁が妙に濃い。……出汁が一のお湯が九で割ったらええのに、これ、絶対測ってへんな。
いくら豆腐が健康にいいと言っても、このままでは中年落語家ふたりで、高血圧一直線や。
「連チャンの高座の前にちゃんと体力付けとかんと、新しい草若やのうて、売れない落語家のお地蔵さんになってまうで~。ステーキやらすき焼きがええわ。」
この兄弟子は、こっちが甘い顔をしたと思えば、予算も忘れて好き勝手に。
明日は肉豆腐にするかと思ってたけど止めや、止め。
「襲名したら、祝いでステーキでも何でも兄さんの好きなもん買うて来ますから。今は辛抱してください。」
「それ、一か月も先とちゃうか。」
「さっきまで、もう一か月しかない、て言うてましたよね。」
「……。」
「その顔、止めてください。」
とはいえ、僕も湯豆腐は飽きて来たし、明日は揚げ玉と卵とじにでもするか?
「あとちょっとのことやないですか。飯食ったら、ちゃっちゃと片付けて稽古しましょう。だいたい、若狭が『はてなの茶碗』を小浜でやったて大騒ぎするから、どんだけ上手くなったかと思えば、師匠のはてなを聞いたことない若狭が話盛ってただけやないですか。」

――オレかて、草原兄さんみたいに師匠が見てるで、て言いたいけど、師匠がお前のその茶金さん見たら、地獄の釜の中に自分で飛び込んでまうわ!!!

草若兄さんの茶金さんのあまりの出来の悪さで草原兄さんの生来の教えたがりに火が付いて、このところはやっと形にはなってきたものの、草々兄さんとふたり、これを『草若』の芸として出すんか、という顔になってることの方が多い。
腹を立てた草々兄さんに割とキツい言葉で活を入れられたことも、相当に堪えているようだった。
「それ、オレがハナシ盛ってくれて言うたわけとちゃうで……。」
あれは喜代美ちゃんが、と言い訳を口にして、小草若兄さんの声は徐々に尻すぼみになっていった。
「とりあえず、話に底抜け入れたいのは分かりますけど、アレ入れて話のリズムが崩れんくらいには精進してください。」
そう言って食べ終わった僕が箸を手元に置くと、年下の兄弟子は、こっちの言いたいことがちっともわかってへんような顔で、おう、と気を取り直した顔で頷いてから、「お前がそない言うなら、底抜け入れるのは、一度に三遍までにしとくわ。」と言って、稽古に疲れた顔で小さく笑った。

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