【原利土】頸と心第2部 四年後(2)


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 利吉を追い返したあと、土井はしばらく職員室に残り、冷めていく茶を啜っていた。
 元々自分は、くれると言うものを断る主義ではない。それは昔からそうだった。黒だった頃から──それより前からもずっとそうだ。差し出されたものは受け取る。食い物でも、名前でも、触れられることでも。奪ってでも生きなければならなかった頃の名残なのか、それは土井にとっては生きるための当たり前の道理に近かった。
 だから利吉が大人になり、自分の意志で何かを差し出してくるのなら、ただそれを受け取ればいいのだと思っていた。そこに迷いなどはないはずだった。ないはずだった──のだが。
 部屋の隅へ目をやる。そこに籠手があった。兎の毛を縫った古い籠手だ。色はもう随分と褪せて端もほつれかけていて、それでも手触りだけはまだやわらかく、使いもしないくせにいつも目の届くところへ置いてある。畳んで棚の上に、大切に。誰かに問われれば古い貰い物だと答えるつもりで、けれども誰もそれを問うたことはない。
 これだけが、あの日々が夢ではなかった証だった。
 閉じられた頁の中から、黒が持ち帰った唯一のもの。利吉が黒のために兎を捕り、その革をなめし、時間をかけて縫った籠手。冬に向かう山で寒がる黒に素っ気なく寄越してきたときの顔を今でも思い出せる。無造作に渡したきた割りに、編み目はひどく丁寧だった。一目一目乱れもないそれは大きすぎも小さすぎもせず、黒の手の大きさを考えて縫ったことが今更のように感じ取れる。
 籠手だけではない。利吉は黒にいろいろなものをくれた。彼が持っていた首巻き、鹿の革の上掛けと敷物、葛の蔓で編んだ肩籠、山で見つけた蜂蜜。どれも黒が欲しいと言ったわけではなく、利吉が勝手に持ってきたものだ。腕のいい猟師が獲物を巣へ運び込むように、或いは鳥が巣に光り物を溜め込むように、黒のいる小屋へ少しずつ。
 贈り物で気を引こうとするところが、まるで獣の求愛のようで少しおかしかった。気に入った相手の巣へ光るものや食い物を運ぶ鳥がいると何かの書物で読んだことがある。利吉のそれはまさにそうだった。本人は「余ったから」とか、「どうせ捨てる」とか言っていた。けれどもどうせ捨てるものをわざわざ加工して持ってくる人間がどこにいる。そんなところが愛しかった。不器用で、回りくどくて必死で、そのくせ顔だけはいつも涼しく取り繕っていた。

 先に惚れたのは利吉の方だったのだと、土井はそう思っている。利吉が黒を拾い、名を与え、傷を手当てし、最初に自分のものにしようとした。黒は初めからそれを受け入れていただけで、くれるものを受け取り、利吉の利害と好意を利用して身を隠す場所を確保し、それをいいことに取り入ろうとしていた。それは忍としては当然の判断で、そこに後ろめたさを抱くほど当時の黒は綺麗な人間ではなかった。それなのに、いつの間にか惹かれていた。
 最初は、あの男の傍にいると息がしやすいというだけのことだった。赤い記憶に押し潰されそうな夜、利吉の息を吹き込まれてようやく呼吸を取り戻した。その感覚を失うのが怖かっただけかもしれない。依存だと言われればそうだったのだろう。それでも、利吉は黒を大事にした。
 大事にされたことのない人間が、大事にされるとどうなるか。絆される。抗えなくなる。贈り物を運んでくる手に、あの傷跡を読む指に、自分の名を呼ぶ声に──ひとつずつほどかれるように絆されていって、気づいた時にはもう手遅れだった。
 そして今、あのかつて子供だった『利吉くん』が、同じように自分へ懸想している。
 そのことに、土井はどこか安堵に似たものを覚えていた。安堵と呼ぶには少し違うかもしれない。けれども自分が何をせずとも利吉は自分を求めてくれるのだという事実が、どうしようもなく土井の心を浮き立たせた。あの頁の中で利吉が黒に惚れたように、この利吉もまた土井に惚れてくれた。状況も育ちも抱えている傷も違う。それでも利吉は土井を求めている。あの利吉が焚き火の傍で黒を抱いたように、この利吉もまた土井の傍へ来たがっている。それが土井には嬉しかった。
 そのことを否定することなどできる筈もない。そうして嬉しいと認めてしまえば話は早かった。幼い頃から知っていたあの子が時を経て大人になり、ひとりの男として自分を求めに来る。その日を自分はどこかで待っていたのかもしれないと土井は思う。閉じられた頁の中の記憶と今のあの子を重ねて、いつか同じ春に辿り着けるのだと愚かにも信じながら。
(だが──)
 土井は籠手へ視線を戻す。迷いが、ないわけではもちろんなかった。
 あの頁の中にいた利吉の影をあの子に重ねて、くれるものを受け取るだけでいる自分は、あの子にに対して誠実だと言えるのだろうか。触れたいと思うのは本心だ。けれど触れた先で、この利吉はあの利吉とは違うと感じてしまったら──その時自分はどうするのだろう。
 土井は籠手を手に取った。兎の毛の感触が指に馴染む。四年以上も前の閉じられた頁の中の温度が、まだここにだけは残っているような気がした。
「……どうしたもんかな」
 もう幾度呟いたか知れない呟きをまた吐いた。利吉に色事の指南ができるとはとても──と言われて傷ついた、あの情けない感覚の正体が今なら分かる。
 あの頁の中の利吉は、黒の身体のすべてを暗記していた。傷跡を指で読み、急所を覚え、名を呼ぶ声ひとつで黒の抵抗をほどいた。十六歳の利吉は土井の身体のことなど何も知らない。けれども黒の知る利吉だって、はじめは黒の身体のことなど何ひとつ知らなかったのだ。知らないからこそ贈り物で気を引き、知らないからこそすべてを覚えようとした。知らないところから始めて、黒のことを一つずつ覚えていった。丁寧に、急がずに──あの長い指で。
 あの頁の中で、あの利吉と重ねた夜のすべてを、あの子にも覚えてほしいのだと、土井は自分の中にあるどうしようもない欲求を自覚する。あの手が自分に何をしたか。あの声が自分に何を与えたか。あの子にも知ってほしい。知った上で、同じことをしてほしい。あるいは違うことでもいい。この利吉だけの方法で、土井の身体を覚え直してくれるのなら。
 ──結局のところ、がっついているのは自分の方なのだ。
 土井は籠手を棚へ戻した。畳んで、目の届くところに。使いもしないのに捨てもしないまま、正しく思い出と呼べる場所に大切に置き直す。
 あの子は、遠からずまた来るだろう。
 次に来た時、今日のように追い返せる自信は、正直なところあまりなかった。


***


 それから十日後。利吉は再び忍術学園を訪れてきた。
 前回の話の続きを持ち出されるものと思って、正直なところ土井は身構えていた。大人になったからどうの、触れるだの触れないだの、あの話に決着をつけに来たのだろうと踏んでいて、だから利吉が職員室の戸を引いた時には土井は無意識に背筋を正していた。
「父に報告がありまして。ついでにご挨拶を」
 利吉は涼しい顔でそう言い、目の前の板間に正座した。
(ついで?)
 ついでという言い方が気にかかったが、利吉はいつものように近況を話し始めた。先日の忍務に行く途中に見た珍しい鳥の話、火縄銃の手入れ用の油が値上がりしている話、この頃流行りの小唄の話。どれも当たり障りのない話題で、だからこそ余計に土井の耳には白々しく響く。前回のことには一切触れないその様子に、土井は拍子抜けしたまま相槌を打った。
 四半刻も話した頃だろうか。さていつ切り出されるだろう──と思いつつ、茶を淹れ直そうと茶瓶に手を伸ばしかけた土井の手を、利吉の声が遮った。
「私が淹れますよ」
 利吉はそう笑いながら言って土井の茶碗を受け取る。その拍子に湯呑みの縁で利吉の指先が土井の指を掠めた。それはほんの一瞬の接触で、それ自体はどうということもなおものだった。けれども茶碗が手を離れるその刹那に、利吉の目は茶碗ではなく土井の目を見ていた。──触れたその瞬間の土井の表情を。
  利吉はすぐに茶碗に目を落とし、何事もなかったように茶を注いだ。土井も何事もなかったように茶碗を受け取る。会話は元に戻り、その後利吉は丁寧に礼を言って帰っていった。
 教員室に一人になり、土井は冷めかけた茶を見下ろしたまま先ほどの一瞬を反芻していた。あの時、自分は何かを見せただろうか。利吉の目は何を読もうとしていたのか。考えすぎかとも思う。けれどもあの目の動きが妙に引っ掛かった。茶碗を手渡す瞬間、利吉は土井の目だけを見ていた。あれは茶を淹れるついでの視線ではない。  もっと別の──何かを確かめようとする目だった。



 六日後、利吉は再び姿を見せた。今度も父への言伝のついでだと言って、忍務先で手に入れたと言う上質の銃器油を持参していた。委員会活動で役立ててくれと言われ、土井は素直に受け取った。彼らしい気の回しようだと思った。
 小壺を受け取り、蓋を開けると清廉な油の匂いが鼻に届く。錆びにくそうな良い油で、火薬委員の生徒たちも喜ぶだろう。例を言って壺を文机に置いた土井の前で、利吉は立ち上がり荷物の中から手拭いを一枚取って戻ってきた。
「手を」
 利吉は、座り直さず土井を上から見下ろす形のまま、手を出してくださいと言った。土井が訳も分からず右手を差し出すと、利吉は手拭い越しに油のついた指を拭き始めた。布越しに包み込むようにして丁寧に。拭くというよりは確かめるように、一本一本の指に時間をかけて拭っている。手拭い越しの圧が柔らかく、確かで、妙に丹念で──世話好きと言うには度が過ぎるその触れ方に、土井は思わず利吉の顔を見た。中指を拭く手が止まり利吉の目が上がる。手を一つ伸ばせば顔に届く距離に利吉の顔がある。その近さのまま、利吉の視線が土井の瞳を覗き込んだ。
「……匂いが残りますから」
 利吉はすぐに目を伏せ、指を拭き終えると手拭いを畳んで懐に仕舞った。そのまま何事もなかったように座布団に戻り、涼しい顔で茶を啜ってみせる。けれども土井の胸は落ち着かなかった。あの距離から利吉の顔を見上げた瞬間に、閉じられた頁の中の記憶が一瞬だけ開きかけたのだ。手を握られ、見上げた先にこの顔がある──小屋の中であの利吉が触れてきたのと同じ角度、同じ距離で、同じ形をした手が土井の指に触れていて。
 利吉が帰った後、土井はしばらくは自分の右手を見つめていた。手拭い越しに拭かれた指先がまだ温く熱を持っているようだった。あれはかまをかけられたのだ──と今になって気づく。指を拭いたのは口実で、あの距離まで間合いを詰めて土井の目を覗き込むことが目的だったに違いない。あの一拍の間に、利吉は土井の瞳の奥に何が映ったかを読もうとした。 
 見せただろうか。自分は。
 制御していたつもりではあったが、あの距離では自信が持てなかった。

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