帰り道
「草若師匠、本日はありがとうございました。」と落語会で司会に紹介されていた男が頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ独演会なんて地元でもないことですからほんまにありがたいです。ほんでも、徒然亭の人間は、オレ以外にもまだまだぎょうさんおるから、もっと小さな会でもいいので、今年もまた呼んでやってください。」
「はい、ぜひ。」
スーツ姿で、いかにも地方の公務員らしさを醸し出している男は、そう言って相好を崩した。今時珍しい、柔和な顔つきだ。
「予算が足りない時でも、草々のところに若いのがたくさんいますんで。」と声を低めると、「そうさせていただきます。」と恐縮したような顔をされて、こちらが恐縮してしまう。
では、と言って市民会館を出ると、晴れ渡る空は青く、春の風が吹いていた。
四月の公演は、独演会の形にして欲しいと持ち掛けられた企画だった。
その日の番組を掛ける前の日暮亭で稽古をしていると、おい、気張れよ、と二階から降りて来た草々がケツを叩きにくるので、子育てで寝た子になってたうるさいヤツがいよいよ起きて来よった、と思いながら、久しぶりに『はてなの茶碗』を掛けた。
小浜市民会館というのは不思議な場所で、実家のような安心感がある。
普段なら、草若独演会というと、オヤジの名前が肩にずっしりのしかかってきて調子が出ないことの方が多い。
「お前、いつまで経っても上達せんなあ。」と草原兄さんに叱られ通しだった割には、今日の高座はなかなかうまくできたのではなかろうか。
独演会の前に、若狭のとこのお母ちゃんとお父さん、小梅師匠がまだまだ元気でやっているところを見られたのが効いたのかもしれなかった。
顔を出す前に、市場で蟹を買っていったのが歓待の理由だとしても、それはそれでいい。
この年になってやっと、若狭がうちに下宿し始めた頃の返礼が出来たようで、そのことがオレには嬉しかった。
市民会館を振り返ると、オレの顔が漫画になったような明るい色のポスターが貼られている。
蛍光ピンクにイエロー、夜のネオンのような草若である。かつてオヤジのファンだったらしい柳眉なんかが見たら卒倒するのではないだろうか。
草若独演会、と言う文字は、イラストの文字と同系色でほとんど埋もれてしもてるし、前座の地元の噺家の名前が小さく入ってはいるが、オレのイラストがばあんと大きく入っているだけのポスターで、ちょっと見は何かいなこれ、と首を傾げるようなものだが、制作の裏話を聞くと、どうやら、去年封切りになった映画のポスターのパロディなのだという。
パソコンが得意だという若狭塗箸製作所の若い子が、エーコちゃんと一緒になって作ってくれたものだ。
今はこういう、人が足を止めてくれそうな目を惹くつくりにするのがいいらしい。
落語会らしいポスターのバージョンとふたつ作って、こっちは街のカフェやらセレクトショップやらに置くことにしたのだと聞いていたが、まさかこっちの方が市民会館に貼る方に採用されるとは。
オヤジの下で一門会をやっていた頃のダサくて渋いポスターとは全く勝手が違う、そこだけシティポップのような感じは、市民会館の雰囲気からは浮いていたが、それはそれでいいのかもしれなかった。電球の取り換えに伴って、一時、内装工事をしていたので、オレがオヤジに連れて来て貰ったあの小さな会議室も、もうすっかり様子が変わってしまった。
ぼちぼち若狭も子どもの手が離れて、日暮亭の女将さんとしてだけでなく、お囃子さんとしても復帰の目が出たかと思ったタイミングで次の子どもが出来てしまったので(草々のヤツ、相変わらず空気読まないやっちゃ)、今日のお囃子は小梅師匠に紹介された地元の芸妓さんに頼むことになった。
今日はエーコちゃんは仕事の手が離せずに顔を見られなかったのだけが心残りだけど、オレも若狭の実家以外に、地元の落語研究会で飯を呼ばれる予定が出来たので丁度良かったのかもしれなかった。
この街で育った人間は、若狭師匠が弟子取るのが無理なら、もう草若師匠でええですとか言う、ほんとに失礼なヤツが多くて困る。
そんでも、草原兄さんなら、落語が好きな人間は皆家族みたいなもんやでとオレを諭すだろうし、オヤジが生きてたら、こんなちっさい愚痴なんか笑い飛ばして、弟子なんて面倒くさいもんよう取らんで、草々にでも任しとき、と言うのだろう。
若狭の生まれた小浜はオレにとっても、ほとんど二番目の故郷のような街だった。
野口友春と順子ちゃんの食堂で残っていた焼き鯖を買い込んでから小浜を出ると、特急の停まる敦賀に着く頃には、もうほとんど日が落ちてしまっていた。
小腹が減って改札の外にある立ち食いそばの店できつねうどんを啜っていると、出てくる前に口論したばかりの四草の顔が思い出す。
いや、焼き鯖買うたんは、あいつに食わせるためやあらへんからな、と誰が聞いているわけでもないのに言い訳が頭をぐるぐるしてきたので、他には土産も買わずに電車に飛び乗って、いつもの月ヶ瀬の煎餅を仏壇屋のおばはんに買い忘れたことに気付く。
……オレは一八か。
ため息を吐きながらガラガラの指定席に座って車窓の外を眺めると、暗い外には、いくつもの家の明かりが見えた。あの明かりが、遠くに見えてた頃もあったな、と駅のホームで買った麦茶を啜りながら思う。
スマートフォンを見ると、日付変わったら鍵締めますよ、というメッセージが入っていた。
素直じゃないやっちゃ、とは思うが、それはそれとして、さあ帰るか、という気持ちになってくる。
可愛いおちびと、不機嫌男が、腹を空かせてオレの帰りを待っているのだ。
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