首なき右腕
昼下がりの往来に背を向けるようにして、一人の男がふと立ち止まった。神経質そうに眉をひそめ、町壁に鋭い視線をじっと投げている。少し離れたところで談笑していた町人たちが振り向き、ただならぬ気配のありかを悟ると、顔を見合わせてそそくさと去っていった。
壁には作者不詳の落書が並んでいた。落書の内容は先日桜田門で発生した変事、すなわち彦根藩主にして時の大老、井伊直弼の血なまぐさい最期を揶揄するものばかりである。先の町人たちも墨跡鮮やかな壁を眺めていたから、これを話の種にしていたのだろう。
つと男は腕を伸ばし、手近な落書の一文字目に骨ばった指を這わせた。乱雑に跳ねる一画を辿り、垂れた墨の飛沫を追い、誤魔化しきれない筆跡の癖を暴き出す。
さしたる時間もかけることなく男は確信した。右から一つ、二つ、三つ目の落書までは間違いなく同じ書き手だ。この落書が書かれた日付と時間帯、周囲の住人と当時の通行人を調べれば面は簡単に割れるだろう。他の作者も同定は容易い。
(我が主君を笑いの種にした不届き者ども、草の根分けても探し出してみせようか。着せる罪状は何でも良い、可能な限り重い刑に処すのだ。武士であれば斬首、町人ならば永牢、いや足りない、市中引回しの上獄門に――)
がりっと音を立てて、落書の文字が僅かに削れた。男の立てた爪が壁を抉っている。しかし剥がれ落ちたのは墨の付いた欠片だけで、落書は体裁を保ったまま依然としてそこにあった。
ふん、と男は鼻で嗤った。欠けた爪を拳の内に隠し、羽織を翻して雑踏の中へと足早に溶けていく。
彼が身命を賭すことには最早何の意味もなかった。かつて生涯を捧げた唯一人の主、彼の尽力を喜んでくれる人は既にいない。己の還るべき場所を、男は永久に失っていた。
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