二組
「あっ……冷蔵庫の中に米と水と酒しか入ってへんやないか、お前ほんとにちゃんと食ってんのか?」
久しぶりに戻って来た第一声がそれか、と思い、僕はわざとらしく大きなため息を吐いた。
「米があればなんとかなります。」
「そらそうやけど……。」
台所には米があったりなかったりというここでの生活を思い出しているのだろうか。心配そうな表情を向けられたところで、この二年の空白が埋まる訳でもないのに。
「小草若兄さんこそ、他所で何食べてたんです。」
「別に、適当に食堂みたいなとこ探して、定食とか。」
「自炊はしてなかったんと違いますか?」
「まあ……そうやな。」
自分はそれで良くても、僕が自炊をサボっていることは気になるのだろうか。
小さな鬱屈を飲み込んだような顔で黙り込んでしまった兄弟子の横顔を眺める。
――今日は金ないからお前のとこに泊めさせてもらってええか。
そもそも、さっき尋ねられた時に、嫌です、とすっぱり断ることが出来れば良かったのだ。
内弟子部屋借りたらいいでしょう、とか、酔って足元がおぼつかないんやないですか、とかそれなりのことを一言二言でも言い返すことが出来ていたら、きっと草々兄さんと若狭が、責任を持ってこの人をなんとかしてくれたに違いない。
この人を二年ぶりにここに招き入れたまでは良かったが、目の前にいる人が段々と――かつて草若邸に迷い込んで来た九官鳥以上に――自分の手には余る厄介ごとのように思えてきて、僕は、この人の頼みを引き受けたことを後悔し始めていた。
それでも、まだあの電車のうるさいとこに住んでんのか、と笑うこの人のことを、他人事のような顔をして断ることは出来なかった。
*
師匠が亡くなったのは、全員が集う弟子の会が行われたあの年の春のことだった。
部屋に転がり込んで来た兄弟子を追い出すことも出来ずに、ずるずると同居を続けているうちに、師匠とおかみさんの二人から、この人の守役というバトンを渡されたような気になっていた僕は、この人が姿をくらますまで、それがただの自意識過剰だったことに気付いていなかった。
もう二年前のことだ。
突然やって来て、無断で出て行った。その身勝手さに腹を立てていられたのは最初の一週間だけだった。野火のような怒りの後にやって来たのは、恐れと、置いて行かれた心細さ。
夕陽に溶けて消えてしまえばいいのにと思えていたのは、この稽古嫌いの兄弟子が、決して自分の前からいなくなることがないだろうと信じていたからで。何度も、何度も、草若の子の名に恥じない落語家になれ、稽古をしろと、まるで草々兄さんが乗り移ったかのように言っていたのも、同じ理由からだった。
部屋の半分を貸し与えて、表向きは僕がこの人を支えているのだと言う顔をしていた。愛に満ちた暮らしと言う訳ではなかったが、あの頃の暮らしに支えられ、あるいは依存していたのは僕の方だった。
小草若兄さんが皆の前から姿を消したとき、この部屋の押入れの中で眠っていた奇天烈な服は、いくつかのよそ行きを残してあらかた片付いていて、あとは、粗大ごみ回収の日まで残しておくしかない布団と、パジャマの替えだけが部屋に残されていた。
不労所得がある訳でもない落語家が、同居人に去られて独り残された部屋で、ただ呆けていたところで暮らしてはいけない。
落語界のビッグネームである『三代目草若の弟子』という以外にこれと言った見どころもなく、芸風については三代目の真の後継であると目されていた草々兄さんほどに実力や持ちネタがある訳でもない僕のような並みの中堅落語家の元にも、ぽつぽつと仕事は舞い込んで来た。ちなみに、こうした言い方は過剰に自分を卑下しているというわけではない。
自分自身がいい加減な分だけ、ド厚かましい弟子(当時は内弟子志願者だったが)にも寛容で、仕事である落語や笑いのセンスについては誰より慧眼だったあの三代目草若が、かつて『端正な落語』と評した僕の落語は、つまりは馬鹿を演じる機会が多いこの世界には不向きな性質だということをストレートに表していた。
向き不向きで言えば、結局、不向きな仕事にはなるだろう。それでも、一度落語を捨てた師匠の二の舞になる訳にはいかない、という一念で稽古を続け、仕事にも行った。
あほな人間たちのあほな振る舞いをするたび、外に干すのが憚られるようなデザインのカバーを掛けた布団の上でよっぴいて稽古をしていた兄弟子の顔がちらちらと頭の中に浮かんでいたが、そんな風に集中できない日に限って、こちらが肚の中でどんなことを考えているのかも知らずに、観客は良く笑った。
僕は、人生で一番大切な人間と、その息子であるアホな男を失ってからの日々を、そんな風にやり過ごしていた。
内弟子修行中のような規則的な生活に戻るのに一番手っ取り早い解決策は、誰かと共に暮らすことだと気が付くまで時間は掛からなかったが、その相手がいない。
女が勝手に貢いでいたのも若かった頃の話で、あの人の帰る場所でもあった部屋に、今更他人を入れたいとも思わなかった。
外で女を引っ掛けるにも、そういう店に顔を出すとか、普段の身なりを流行りの服で整えておくとか、多少はこちらからのアクションが必要なのだ。
新しい服を買いに行けば、自分では手に取ることもないだろう、この人が着そうな服ばかりが目に付くようになり、女が引っかかりそうな店は、以前にも増して五月蠅く感じられて、かつてのように、そうした努力が結実するまでは、と忍従して冷静な顔を取り繕うことも、今は出来そうになかった。
結局、他に当てはないなと短絡な頭で考えた末に、僕は食事を作るのが面倒と思えばこれまでのように寝床へ行き、稽古に行くような顔をして若狭や兄弟子のところの門下のぺーぺーにメシを奢らせながら食いつないでいくことにした。草若邸に通い、草々兄さんや若狭と顔を合わせることを苦痛に思う日もないではなかったが、いい面もあった。心の中に溜め込んだ重荷は、顔を合わせる草原兄さんや、若狭をおかみさんと慕う若い内弟子の男と話していると、多少は解消された。
落語家はサラリーマンとは違い、年金が当てにできない。
新しく一門を起こす気もない自分の老後のことを考えれば、貯金を削ってまでその場しのぎのいい暮らしをしたいとも思わなかったので、起きて、家を片付け、仕事に向かうというルーティンをこなすために、僕は内弟子修行中のように、毎朝米を食う生活に立ち返ることに決めたのだった。
*
「もう麦茶作ってないんか、」と言いながら、兄弟子は酒を割るために冷蔵庫に入れていた水をコップに入れている。
まるで出て行ってからの膨大な時間がなかったように振舞うその態度。
帰って来たのか?
それともまたふらりとどこかに出て行くのか?
出て行くと言われたところで、引き留められはしないだろう、と頭の隅で思いながら、僕は考えの読めないその横顔を見ていた。
二年もの長い間連絡が取れなかった男を、草々兄さんが失踪したときの再現のように若狭が連れて戻って来たとき、自分が見ているものが信じられなかった。
「小草若ぅ!」
師匠の付けた名前を呼ばれて、他の男の腕の中で泣いている男を見て、そのことに肚落ちしている自分のことを、他人のように観察するような気持ちだった。
結局この人の帰る場所は師匠の家でしかないのか。
師匠の名を継ぐべき男の腕の中なのか。
自分が決してその代わりにはなれないという事実を目の前に突きつけられながらも、それでも、心の底からは生きているこの人をまた目にすることが出来た安堵とうれしさが湧いて来て、僕もまた泣いた。
底抜けのアホ、と言った時、この人は泣きながら僕に抱き着いて来た。
また涙腺が馬鹿になっているな、と思ったが、僕だけでなく、草原兄さんも草々兄さんも若狭も一緒になって周りで泣いているので、今日くらいはもうこれでいいだろうと考えることにした。
この人のせいで僕の心の中に空いた穴が、この先も空っぽのままだとしても。
今日の思い出があれば、いつかは穴も塞がる気がした。
コップを流しに置いた小草若兄さんが、顔を僕に向ける。
「あんなあ、」とこちらを見つめる双眸には、何かを切り出そうという腹の奥の思惑が感じられて、僕は少し身構えた。
「……。」
「おい、四草、聞いてんのか? 返事くらいせえ、オレは幽霊やないんやぞ。」
不機嫌そうなその掠れ声と、シーソー、というカタカナが頭に思い浮かぶような口調。
「この二年、僕にとってはずっと、幽霊みたいなもんだったじゃないですか。」という言葉がするりと口から出て来た。
相手は、一瞬だけ反撃に身構えるような表情を浮かべたが、すっと手に取った剣を鞘に納めるように、平静な顔つきに戻り、笑みを浮かべた。
「はは、お前、そういうとこ全然変わってへんな。……ソコヌケに手厳しいで。」
笑うな、アホ。
「誰もよう言わんやろうから、僕が言ってるんです。電話の一本、葉書の一通でも良いから、何かしようと思わなかったんですか?」
若狭のように、『皆で、小草若兄さんの連絡を待っていたんですよ、』と優しい言葉を掛けられる質なら良かったが、生憎、僕は妹弟子のように優しくはないし、そうした言葉を選ぶ余裕もない。
それに、厳しくしても、優しくしても、何をしたところで、もうこの世にはいない師匠と同じ年の兄弟子の背中しか見えてないこの人には響かないことは分かっていた。
こうした僕の態度が、二年前のこの人を追い込んだのではないかと頭の隅では分かっているが、それでも。
「葉書なあ……。まあ、ええやろ、終わったことや。」
「終わったこと、て何です。」
「お前は、オレが不在の間に何を考えてたかとか聞きたいんやろうけど、オレは今は、ただ落語がしたい。」
そう言って、兄弟子はコップの中の水を飲み干した。
「なあ四草……オレの布団、まだここにあるか?」
「捨ててたら、さっきそう言ってますよ。」と僕が言うと、彼は吹き出して、素直じゃないやっちゃ、と言った。
兄弟子はまるで二年前の日々が昨日のことだったかのようにしてちゃぶ台を片付け、塵取りと箒でさっと畳を掃いてから狭い部屋に布団を敷き始めた。上に乗せた僕の布団を出さないことには、彼の布団を出せないのだ。
「お、布団乾燥機買ったんか?」
服がなくなって空いた押し入れの下に仕舞い込んでいた家電を目敏く見つけられてしまい、「必要なので、」と僕は短く返した。
返事をしないでおこうかと一瞬思ったが、答えのない独り言がどれほど淋しいかは、この人の不在の日々に身に染みて分かっていた。
彼がいつか着ていたタンクトップのような鮮やかなオレンジ色の布団乾燥機は、去年の秋にこの部屋にやって来たのだった。
ふたり分の熱がなくなった部屋で秋冬を過ごしてみると、その寒さが妙に耐え難く感じられて、秋が深まる前に家電量販店に足を運び、財布の中身と睨み合って、すぐに壊れてしまっても構わないか、と思いながら一番安くて機能の少ないものを選んだ。
「よっしゃ、出来た。」
僕が流しで同じように寝しなの水を飲んでいる間に、二組の布団を並べて敷かれてしまった。
いよいよ、この二年が夢だったのではないかと思えて来る。
「パジャマは引き出しから出してください。」
そんな風に許可を出すと、兄弟子は、勝手知ったる人の家とばかり、冷蔵庫から水を出して飲んだ時のようにぽいぽいと着替えてしまい「したらオレ、寝るわ。」と言った。
「は? 落語の稽古すんのと違うんですか?」
「今日はええねん。……お前も寝ぇ。」
そう言って、こちらの視線を避けるようにして、兄弟子は、電灯に付いた紐に手をやって灯りを消してしまう。「ちょ、待ってください。」
暗くなってはもう何も出来ない。僕は、薄暗がりの豆球の中で服を脱ぐ羽目になった。
そのまま、ごそごそと、言われるがままに隣の布団の中に入ると、隣の布団からぼそぼそと声が聞こえて来た。
それは、僕がひとりでこの部屋で過ごしていた間の、彼の人生の話だった。
小浜へは、電車で移動したのだという。
「お前にも、皆にもずっと連絡せんかったのは、自分がどうしたいのかも分からんで、何も語れることがなかったからや。ふらふらぁ~と、あっち行ったり、こっちへ行ったりしてな。オレは、もう落語家やないんや、て、ずっと自分に言い聞かせてた。言い訳になるけど、それが、やっぱ辛かってな。……お前には悪いな、とは思ててんけどな。」
暗い中で、兄弟子の声が聞こえて来て、僕は何度か相槌を打った。
短くはなかった同居生活の中で、こんな風に話したことはなかった。
いつも互いに、自分の言いたいことを好きなように言って、結果、僕が怒るかこの人が怒るかで、対話は話し合いにはならず、物別れに終わることも多かった。
「葉書での連絡も、考えんわけではなかったんやで、それでも、自分の家の住所に、吉田方、青木様て書こうとすると、何やそこで嫌になってしもうてな。このアパートの住所も、お前に聞くの忘れてたし。電話番号も、そういえばオレ、ここのは覚えてへんかったな、って部屋出てから気づいたわ。」
その声は、夜に木の葉を揺らす風のようだった。
「……アホですか。」
「そうやな。次に出てくときは、この部屋の電話番号、掌の中にでも書いてから行くわ。」
いつもの僕なら、そうしてください、と言ってこの話は終わっていただろう。
今夜も、そうしてもいいはずなのに、口から出るはずの言葉は舌に張り付いて、いつまで経っても出て来る気配がなかった。
「小草若兄さん、」
「ん?」
「明日っからどうするつもりです。」
「落語する以外には、まだ何にも決めてない。……けど、部屋探して、ここは出て行かんとな。安心せえ、前ほど長居はせんから。」と彼は寂しそうな声で言った。
「出ていく必要ないです。」
「……いや、そうかて、しぃ、」と口ごもる兄弟子の言葉に被せるようにして「出てかんといてください。」と言った。
「明日になったら、また嫌になるんとちゃうんか。」
消えてなくなれ、てお前、百回言ってたやろ、と小草若兄さんは茶化すように言った。
「そんときは、そう言います。それでも、僕が何言っても、もう出てかんでいいです。……ここにおってくれ。」
秘めていた望みが、口をついて出て来た瞬間、心がふわりと軽くなった。
それにしても、僕はなぜ、手を握って、顔を見て言うべき言葉を、こんな風にぼんやりと天井を見ながら話しているのだろう。
「あかん、オレ、なんやまだ酔ってるわ。」
相手も、同じようなことを考えたらしく、隣で寝そべっていた兄弟子は、ごそごそと寝返りを打ち、布団をきちんと被って、もう寝ると言った。
ちゃんと返事せえ、と思ったが、返事を聞くのが怖いような気がした。
おやすみなさい、と僕が言うと、おやすみ、と声が返って来る。
二年前と変わらないその掠れ声を聞いて、やっと目を閉じた。
瞼の裏には、『出来たやないか』と笑う師匠の顔が見えたような気がした。
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