あの人



明るい日の光の下で、僕は歩いている。
子ども用の小さなリュックを背負って、二本の足で立って、前へ進む。
「よォし、いい子だ。」と僕を褒める人の元へと。
僕は何にもしていない。
褒められるようなことはなにも。ただ歩いているだけ。
どうして褒めるの?
幼いばかりの僕は、母でも父でもない誰かに対して、そう問い掛ける語彙をまだ持たない。
「ゆっくり来いよぉ……よし!」
あの人の足元にたどり着いて、譲介、そら、と高い場所まで抱き上げられる。
その浮遊感。
前髪で隠れていていない方の目が、譲介を優しく見つめているのが分かる。
よく頑張ったな、偉いぞ、とその人の微笑む顔が、小さな僕の記憶に焼き付く。


***

夜の十時に食べる居酒屋のカレーは美味しい。

「京介のヤツ、まぁたおめぇを置いてフラフラしてんのか。」とテツは言った。
いつものように、なぜか居酒屋でオーダーしたコーヒーを啜りながら、譲介が食事を終えるのを待ってくれている。
「……いいよ別に、父さんいなくてもこうしてテツが来てくれるし。……痛って!」
「ドクターTETSUって言えっつってんだろうが。」と言ってテツは拳に息を吹きかける。
テツはいつも口より先に手が出る。
ショーワの男は皆こういうもんだ、と父さんはテツのことを庇うけど、そうやっていいようにテツを使って僕の面倒見させてるのだから、全く楽な人生だ。
僕もああいう男になってしまうのだろうか。ああ嫌だ。
見習いたいなんて毛ほども思っていないけれど、進退窮まると調子のいい男を演じてしまう父さんを見て来たせいで、学校でもどこでも愛嬌のある愛想笑いが上手くなったと自分でも思う。
「テツ先生。」と僕は言い直した。
父さんが普段テツと呼びならわすこの人をドクターTETSUとおべんちゃらでおだてる時は、大概は何か願い事があるときだ。
そのことを、テツはちゃんと分かった上で、許しているんだろうか。傍で見ていてもそんな風には見えない。父さんと同じようにはしたくない、なりたくないと思うのに、そんな僕の気持ちをテツは分かってくれない。
大人なら何でも分かるんじゃないのかよ、と思いながら、僕はテツを眺める。いつまで経ってもふさふさした長い髪に片方の顔を隠して、時々入って来るよその家族を見ながら寂しそうにしているのを僕は知ってる。
「おい、譲介。なにぼさっとしてんだ。さっさとカレー食っちまえ。冷めちまうぞ。」
「うん。……ねえ、また今度うちに来てカレー作ってよ。」
テツのカレーはいつも、そんなに美味しくはないけど、もう少し一緒にいてよとは言えないから、僕は口実を作る。
「馬ぁ鹿。いつもいつもオレばっかりがおめぇの家に入り浸れるかよ……それをしていいのは京介だけだ。おめぇ、あんまりあいつをないがしろにしてやんなよ。」と言ってテツは僕の頭を撫でた。
「何だよそれ。」と譲介は口を尖らせる。
ないがしろの意味は分からないけど、テツが僕に対して父さんに優しくしろと言ってるのは分かる。どうして僕を放っておくような大人を大事にしなければならないのかと思うけど、テツは真面目な顔をしている。
「早く大人になれってことだ。」
あいつはオレが言っても何にも聞かねえからな、おめぇの方が賢い、とテツは言った。



***


「…………TETSU先生、父さんが………父さんが………。」
どこかへ行ってしまった、と言うと本当になりそうで口には出せなかった。
泣きじゃくる僕の声を聞いて、彼は、そこで待ってろ、と言って電話を切った。
いつまで待てばいいのだろう。
ツー、ツーという音を鳴らし続ける受話器を持ったまま、止まらない涙を片手で拭っている僕を、通り過ぎる仕事帰りの大人たちがじろじろと眺めていく。
こんな時に頼りに出来る相手がいないわけではないけれど、母さんには逃げられ、親戚とは縁を切ったという父さんのせいで、同じアパートに暮らしている人か、父さんがまだギャンブルに今ほど依存していたわけじゃなかった頃に知り合ったテツのことしか、僕は知らなかった。
そして、僕が頭の中の電話帳に暗記しているのは、テツの番号だけだ。

父さんがいないがらんどうな家に帰ることは、いつものことだった。
仕事をしているか、賭博が出来る場所へ出入りをしているかで、夜の遅くに、おい、譲介、開けろぉ、とドアを叩くこともある。
僕は、父さんが、ギャンブルで出来た穴を埋めるための借金を繰り返していたことを、薄々知っていた。
けれど、アパートの部屋の前にスーツを着た顔の怖い人がうろついていて、こんな風に家に戻れないのは初めてのことだ。
――女房がいれば女房を売れたのに。
――あいつにゃ、まだガキがいるはずだ。
誰のことを言っているのかは直ぐに分かった。片親が父親という家は、あのアパートではうちだけで、他は二親が揃っているか、母親だけの暮らしだ。僕は家に帰るのを諦めて、学校から家までの途中にある小さなよろづ屋へと走った。その前に、電話ボックスにはなっていない古いタイプの公衆電話がある。

――オレが下手打ちゃ、お前みたいなちびっこいガキは人相の悪いヤーサンに捕まって、外国へ売り飛ばされちまうぞ。いや、まあ売り飛ばされる前にオレが……じゃねえや、テツがなんとかしてくれるか。そうなったらそうなっただな、オレがいなくなりゃ、お前もオレと同じ施設暮らしだ。まあ、それが嫌だってんなら、いっぺんドクターTETSUに電話してみろ。


テツは、僕が生まれるずっと前に父さんが通っていた競馬場で知り合った医者だ。
まだ駆け出しのサラリーマンだった独身時代の父さんが、競馬場の片隅でヤクザに追われていたテツに、上手い逃げ道を教えてあげてからの付き合いだった。僕が生まれたときに取り上げたのはさすがにテツじゃないみたいだけど、母さんがギャンブルにハマってしまった父さんと僕を残して家から消えた後も、時々鍵っ子をしている僕の様子を見に来てくれていた。母さんに捨てられ、父さんもあんな風で、二親に恵まれない僕にクリスマスのサンタが与えてくれた叔父のような人だ。
これまでは父さんの悪い冗談だと思っていたいつものあの言葉が、急に信ぴょう性を帯びて迫って来る。
もう父さんと暮らしたあの部屋には戻れないかもしれない、と思いながら、心臓が爆発するかもしれないというほどの速さで走って、アパートから遠ざかった。
息を切らせながら、困った時に使おうと思っていた小銭入れを鞄から出して、電話を掛けた。走り過ぎて心臓がまだドキドキしている。
十円玉を入れて、次にまた十円玉。
電源が入っていないわけでも、電波の届かない場所でもない。
いくらおめぇの呼び出しでも、手術をしている間は取れねえ、と枕元で熱を出した僕の額に手を押し当てていた、いつかの夜のテツの声を思い出した。
最後の十円玉で、やっとテツと繋がった。
ほっとしたのもつかの間。電話は一分も立たずに切れて、僕はまたひとりになった。
公衆電話の横に佇んでいると、段々と日が暮れて来た。膝から下に冷たい風が吹きつけてくる。
長ズボンを履いて来れば良かった。
薄闇のなかにひたひたと、孤独が押し寄せて来る。
待ってろ、と言う言葉を、本当に信じてしまうのは怖い。
待ってて、と言った母さんは、僕を駅のベンチに置いて消えてしまった。
オレが戻るまでは家で待ってろ、と言っていた父さんは、僕の家を二度と帰れない場所に変えてしまったようだった。
とうとう捨てられたのだ、という気持ちが心の底に浮かんでは消えて。
父さんが僕を捨てたかどうかは分からない、という気持ちは段々と小さくなっていく。
施設か。
どんな場所かは知らないけど、そこへ行ったらもうテツとカレーを食べることはなくなるんだろうな、と思った。
あの日のカレーが最後なら、もっと味わって食べておいたら良かった。
「……………。」
その時、ガルルルル、とどこかで聞き慣れたエンジン音が聞こえてきた。こんな大きな音を立てる車が走っているところは、譲介の住む小さな町にはほとんど見かけない。
譲介が振り返ると、その車の窓が開くのはほとんど同時だった。
泣きじゃくった後のくしゃくしゃになった譲介の顔を見て、テツの眉間にギュッと皺が寄った。
テツ。
名前を呼んだら、また泣いてしまいそうで、譲介は唇を噛んだ。
車の窓が開いて、右ハンドルの運転席から「譲介、乗れ。」と声を掛けられる。
僕がぼんやりと立っていると「話は車の中だ、来い。今日はカレーを作ってやるから。」とテツはもう一度言った。
カレー。
覚えていたのか、と思うと、また泣きそうになってしまった。
僕は頷いて、助手席のドアを開けた。


***


ベッドから出て来たばかりの彼は、頭を掻きながらキッチンへとやって来た。
年がら年中同じ黒のタンクトップなので、僕はもう春先だというのにエアコンの暖房を付ける。
「………朝から味噌汁かよ。」
ふわ、と大きな欠伸をする。
「昨日テレビで見たのを試したくなったんです。」
「んなこたぁいいから勉強しろっつってんだ。落ちるぞ。」
僕が料理を作るたびに彼は同じことを言う。高校の受験の時もそう言った。
「多少の息抜きですから。」と僕はいつものように言って、彼に淹れたてのコーヒーを出した。
出来のいい秘書の顔をして「今日から出張でしたっけ。」と尋ねるのもいつものことだ。
甘えた息子のような顔など、絶対にしないと決めている。
「金曜までいねぇから適当にしとけ。」持ち手を持たないいつもの持ち方でコーヒーを啜りながら彼は言う。
長い不在を告げた後、「診療鞄の中に必要なものは入れておきました。後で確認を。それから、行き先と泊まる場所は知らせてください、ドクターTETSU。」とにっこり笑う僕に、彼は少し気まずいような顔をしている。
結婚して長い配偶者に浮気を気取られた時の男の顔というのは、こうした顔をしているのかもしれない、と人に思わせるような顔。
炊き立てのご飯と味噌汁をふたりぶん配膳して、僕も彼の前の席に座る。
買って来た漬物と、焼き魚を並べ、いただきます、と僕が言うと、いただきます、と彼が唱和した。
ひとりになる夜は、昨日の夜に彼が作っておいてくれたカレーを食べるのだ。
だから朝は、彼の好きなものを僕も一緒に食べる。
「いい天気ですね。」と僕が言うと、早起きしすぎてガッコで寝てんなよ、と彼は釘を刺すようにして言った。
三者面談は来なくても、担任からそれとなく話が行っているらしい。
「真面目にしますよ。あなたがいなくても。」と笑うと、よォしいい子だ、と言って、箸を置いた彼が無造作に手を伸ばして来た。
触れる指先はあたたかい。
これまでの僕を形作って来た、彼の言葉。
彼の手のひら。
セットした頭をくしゃくしゃにされているというのに、幸せで息が詰まりそうで。
僕はなんとかして渋面を作ろうとし、眉間に力を入れた。

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