円く満ちて明日を招く - 飯B+P
「ピッコロさんて、どんな人?」
さわさわと流れる水の音を背後に、ビーデルはそっと囁くように悟飯に尋ねた。
指先で手のひらほどもある大きな蝶と戯れていた悟飯はその問いかけに驚きつつも、羽根を休める紫の鱗翅目を揺らさないようビーデルへと向き直る。
「ピッコロさん? どんなひとって……ビーデルさんもよく知ってるじゃないですか」
「もちろん知ってはいるけど……やっぱりどうしても、気心が許せるようになるまでの時間ってあるじゃない。きっと私の知らないピッコロさんを、悟飯くんはたくさん知ってるでしょう」
「それは、まあ……子どもの頃からの付き合いですし」
ビーデルはくつろいだ様子の悟飯の横顔を眺め、やはりここへ連れてきてよかったとひそやかに息をついた。
二人が連れ立って訪れたのは都から少し外れた山間の街に開園した真新しい植物園で、ビーデルの父サタンが融資したことで特別優待券を手に入れたのがきっかけだった。院進を目指し猛然と研究に邁進する悟飯はここしばらく、全身を隙のない集中力で凝り固めてゆるめる隙もない様子でいた。本人が楽しんでやっていることである以上無理に机から引きはがすのもためらわれる一方、彼の母チチからも「体が心配だ」と共有され、ビーデル自身も気配りに手をこまねく日々。そこへ降って湧いた、これ以上ない息抜きの機会をビーデルは当然逃すべくもなく、多少勢い任せに小休止を挟む悟飯をひっ捕らえてクルマのジェットを飛ばしたのだ。
世界でも有数の規模を誇るそこは併設してある昆虫園をも巡ることができ、とくにエリアごとの生態系を再現した各所ではそれぞれの地域の生物が自然に近い環境で観察できることが評判となっている。
二人は一通り展示を巡り、とくに悟飯が気に入ったらしい東エリアの豊富な植物と水辺を兼ね備えたパビリオンの端で腰を落ち着かせた。そうしてしばらく、ゆっくりと深く息をつき、そこここに息づく生物たちと呼吸を同じにしてか、悟飯の貌にはビーデルがいっとう安らぎを得る柔らかさを取り戻していた。
そこへ、ひらりひらりと二人の視界へと遊ぶように舞い込んだ蝶。その大きさにビーデルは一瞬面食らったのに対し、悟飯は少し感動した声を上げてその蝶の名前を呼んだ。
悟飯と並ぶその紫が、ふとビーデルの脳裏に一人の背中を想起させた。きっと、今のこの心地で話すには最適の話題で違いないと、そうして口をついたのが先刻の問いだった。
「うーん、そうだなあ。強くてかっこよくて、修行はとっても厳しいけど、同じくらい優しいし……なんでもできちゃいそう、ってくらい憧れてもいるけど、結構不器用なところもあって」
ほんの好奇心でもあった。これまで地球人相当の常識で暮らしてきたビーデルにとっては、まだまだ彼のひとのもつ不思議な空気感を掴みきれないでいるし、悟飯が家族と同じように親愛を重ね、けれど揺るがぬひとつの”特別”として大切にするひとを、悟飯を通して知りたかった。
「子どものときに修行してくれた、って話ね。リンゴの話、私でもピッコロさんらしいなって思えて好きだな」
「そうそう、とくにあの頃は鬼気迫って厳しくて、最初はすごく怖かったな」
口の端で笑った息吹にだろうか、ふと、蝶が音もなく悟飯の指先を離れた。一度高く舞って、生い茂る樹木の群れへと紫紺が馴染み、去る。その一連を目で追っていたビーデルは、それから隣で蝶よりも遠くを眺める悟飯の視線に手をかざした。
「悟飯くん?」
「あざが、」ぼんやりと零れた音は、不思議と水辺の流水音より遠く響く。言葉を取りこぼしてしまわぬよう、ビーデルは小さく開いた口に耳を寄せた。
「アザ?」
「うん」
────修行し始めの頃、僕はまだ戦闘に慣れていなくて……父さんが教えてくれていたのもほとんど型ぐらいだったから、実際の手合わせなんかをするには体もできあがっていなかったんだ。元から、血筋だろうけど、頑丈さは取柄に生き延びていたんだけど……本格的に修行をはじめてすぐ、ピッコロさんに正面から一撃を食らってね。
ピッコロさんて、背は大きいけど拳はお父さんと同じくらいなんだ。身長に比べると少し小さくて、腕の力がすごく一点にこもった威力があって……。だからだと思うんだけど、ぼくの胸の真ん中にすごく大きなあざができたんだ。四隅がすこし歪んだみたいな、ひし形に近い大痣が。
あれは痛かったなあ……たぶん呼吸は止まってたし、心臓も止まっちゃった! て思ったくらいだったよ。しばらくは呼吸をするだけでも胸が痛かったし、前のめりになっても後ろに反ってもひどい痛みでね。だんだん修行が続いて、体中のあちこちにすり傷とか、同じくらいあざができたりもして……少しずつ慣れてきたのか、他のきずはそこまで痛むようなことはなかった。
ずっと、色が薄くなっても、あの胸のあざだけが痛かったんだ。
蝶の去った指先で、遠くを眺めたまま悟飯がシャツ越しに胸の中央をなぞる。傍らのビーデルは、悟飯の指が触れるそこがまさしく大痣のできた場所で、悟飯の脳裏には寸分狂わずそこにあった変色の痕をたどれているのであろうことがよくわかった。
「……まだ、痛い?」
ほかに、言える言葉は思いつかなかった。見当違いな質問でも、それが今、その胸にあざをよみがえらせている悟飯にもっともふさわしい問いかけだと思ったのだ。
「痛くないよ、ぜんぜん」悟飯はにっこりと笑って、手のひらを胸にあてた。「でも、ずっと治らないんだ」
ビーデルはその肌に、その胸にあざなどないことを知っている。
だが、今、目の前の悟飯の胸には消えないあざがあることを知った。悟飯はたしかに、ビーデルの目には映らない、癒えないあざを抱えているのだ。その体がどれほどの代謝を繰り返し、ほかにどれほどひん死の重傷を負った経験があったとしても、そのあざだけが悟飯のからだに残った唯一のきずなのだ。
「人に話したのは、はじめてかも。内緒にしてね」
そう言ってはにかむ顔はどこか幼く、ビーデルの胸には言い知れぬあたたかさがこみ上げた。強者の拳が全身を打ちのめす痛みをビーデルは知っているが、彼の胸に残り続ける痛みはきっと暴力とも、武力とも違う。悟飯が痛みとして受け取ったそれを、ビーデルは両親の腕の中で、そして悟飯の腕の中で知った。
「また、教えてくれる?」
少しだけ、ほんの少しだけその衝撃が欲しいと思った。あの、今は優しく穏やかなひとがもたらす、強烈な一撃。それを知る悟飯が、少しだけ羨ましくなったから。
二人の前を、玉虫色の胴を昼の陽光にきらめかすトンボが横切りそれを目で追ってから、ビーデルは言った。「悟飯くんのなかのピッコロさんのこと。もっともっと知りたいから、また教えて」
ね、と久方ぶりに握った手を、悟飯も弾む声で頷き握り返す。
繋いだ手の傍ら、ベンチの手すりから若草色のヤモリが二人を見上げていた。
@__graydawn
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