風の音
「夜中に稽古付けてくれていうから、どないな大ネタかと思えば。」
「夜中ていうほど夜でもないでしょう。だいたい、師匠はこのところ朝寝が過ぎます。」と草原が話の腰を折った。
夜風が吹いて、風鈴がリンと鳴った。
お前の年なら、『愛宕山』なり『はてなの茶碗』なり、そろそろ大ネタに手を掛けてええ年や。
……まあ、一遍師匠を降りた人間の言う話とちゃうな。
ケツに殻の引っ付いてる五番弟子を発奮させるためならともかく、草原にはもうええやろ。
ここ三年のブランクがどんだけ大きいか、緑ちゃんと小さい子どもを食わせるために働いてた草原が分かってへんはずもない。
「しかし師匠、そろそろ風鈴なんか仕舞ってええのと違いますか?」
「……せやから、その前に縁側でこないして飲んでるんやないか。」
お前も飲んでまえ、と草原の茶碗を酒で満たしてから手元の茶碗に口を付けた。
志保がこういうときに、はい師匠、と出してくれていたいつものおちょこも徳利の横にあったが、わざわざ洗うのが面倒で、今日は湯呑でそのまま飲むことにしたのだった。
短い稽古の間に冷やされた酒の、ピリッとした辛さが身体に沁みる。
テレビでは明るい電球とかパルックとか、日曜の夕方になればCMでは大々的に宣伝しているが、酒盛りはちょっと薄暗いくらいが風情がある。
師匠、三杯目をどうぞ、と徳利を傾けられて、また湯呑で受けた。
草原の手元にあるのも俺の手元にあるのと同じどこにでもある紺色の湯呑。
はてなの茶碗なら『あの茶金はん』に二両で買われるような何の変哲もない代物で、それでも美味くなるわけでもない酒が妙に美味く感じられた。
久しぶりに飲みませんか、と草原が持って来たのは、志保が生きていた頃に良く飲んでいた灘の酒だった。
今では流通が良くなったせいか、新地の飲み屋に行けば、見たこともないラベルの酒がいくつも並ぶようになったが、昔は、どんな店に行ったところで、出て来る酒はほとんど、灘辺りの酒蔵の酒と決まっていた。
立派な題字のラベルが貼ってあったところで、中身も美味いと決まっているわけでもなく、店で飲むのに、酒をくれと頼めば、甘口の日本酒が来ることも多くなった。
こんな風に、酒の味ですら流行り廃れがあるのに、落語みたいなもん、漫才に押されて廃れたところでなんもおかしくはないな。
そう思ったこともあった。
「あれ、次の寝床寄席のためのネタともちゃうやろ。」
「三年のブランクありますから、基本のところから思い出さなあかんと思いまして。今更かもしれませんが。」
それで『時うどん』かいな。
内弟子修行が滞ってる若狭に次に教わるかもしれないネタを聞かせといてやるためか、そうでなければ、いつか自分で弟子取るときのためか。
まあ、からかうのは一升瓶持って来たのに免じて止めといたろ。緑ちゃんの実家から送られて来た酒は純米吟醸とまでは書いてへんけど、それなりの値段なんやろう。ほんまに旨い。
離れの内弟子部屋からは、若狭が天災をさらう声が聞こえて来た。
お前は今日は片付けせんでもええから寝てまえと言うて内弟子部屋に下がらせたのに、まだ発奮してるらしい。
「それにしても、今日の若狭は調子が良かったですね。」
「あいつ、草々が見てへんときの方が調子ええんとちゃうか? 小草若も昔は、草々がおらへんときの方が肩の力が抜けてたやろ。」と言うと、草原も心当たりがあるのか、ああ、と頷いている。
草々は来月の落語会のためと言って、今週は一週間夜勤の工事のバイトを入れていて、帰るのは朝になる。小草若はラジオの仕事で、四草は例の中華料理屋のバイト。
「お前と差しで飲むのも久しぶりやな。」
「もう何年も、草々と小草若、四草が一緒でしたからね。」と草原が頷く。
草々や仁志がそれなりの年になるまでは、夜の仕事に連れていくのは草原が多くて、仕事が終わった後も、こないしてよくここで飲んだもんや。
「そうやな。」
「四草は、内弟子部屋出てから早々におかみさんがあないな風になってしもて、」
そない言いながら、草原が空になった徳利の中に瓶の中から酒を注いでる。
考えてみたら、燗付けるでもなしに徳利出して、そもそも使う必要なかったのとちゃうか、と思ったが、まあええか。
「……そないいうたら、アイツとは、数えるほどしか飲んだことないな。」
それが末っ子の因果なとこで、内弟子修行が終わった後でも、飲むのはほとんど乾杯の一杯だけ。俺や草原、草々と小草若が飲んでる間も、四草は、小姑みたいな兄弟子連中にやいのやいの言われながら、澄ました顔で全員のビール足りてるか見てたり、皿が減ったら店のモン呼んで追加して。くるくると独楽鼠みたいに働いていた弟弟子の姿を思い出したら、草々が自分の昔のことを棚に上げて、喜六のどんくさいとこが目に付いてしまうのも当たり前かもしれんな。
それでも、何年ぶりかの風鈴をどっかから見つけてきて、こないして縁側に掛けてみたり、喜六が喜六でないと気づかれへんかったことかて仰山ある。まあ、まだ出すだけ出してまだしもてへんけどな。
「あいつ、酒飲んでても、いつもと同じですよ。飲みはするけど、どっちか言うと、」と『時うどん』のうどんを啜る仕草をしてみせた。
仕草だけ見ても、こいつはほんまもんの芸達者や。
ほんまに、なんで本番の時だけあないして噛んでまうんやろうな。
口にはせずに筆頭弟子を見ると、草原はこちらの言いたいことが分かったような顔で、わたしもそう思います、と言わんばかりに苦笑した。
「あいつら、今は向かいの店で飲み食いすることも多くなって、若狭の手前もあるし、器用に飲みながら食うてるけど、ほんまは、若狭のお母ちゃんの前で見せる顔のが元の顔に近いですからね。」
まあ草原以外の弟子連中は、どちらかといえば酒より食い気。
うちでほんまに酒が好きなのは、この草原くらいやな。
昔は酒を呑むのも落語の勉強のためという顔をしてたが、辛い酒のすっきりした美味さを知って、一皮剥けた。
弟子はええとこも悪いとこも、みんな違うから面白い。
「草原お前、」
「……なんですか?」
「時うどんのおさらい終わったら、『はてなの茶碗』やるか?」
「……ハイ?」
いきなり何ですか、と言う顔をしている。
お前には、もういきなりとはちゃうやろ。
「いつかやりたい、て言うてたやろ。」
俺の中に、俺の師匠の『茶金はん』が残ってる間にお前に伝えとかんとあかん。
あの風鈴の音聞いてるうちに、そないな気がしたんや。
「したら、今度草々がバイトから戻って来た時に、お願いします。」
面倒見のええ一番弟子は、安い酒で高い茶ァ釣ってしもたなあ、と照れたように頭を掻いている。
「あいつらに嗅ぎ付けられる前に、とっとと飲んでまうで。」と茶碗を差し出すと、「そうですね。」と言って草原がとくとくと酒を満たした。
油屋の持って来たような安茶碗には、晴れた夜の満月が映っている。
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