屋台蕎麦の客

 今年の秋は随分忙しない。ようやく過ごしよい時季が来た矢先からあれよあれよという間に冷え込み、既に風邪も流行りかけていると聞いた。
 尤も屋台蕎麦の主としては、客足が伸びるのでむしろ助かっている。例年より売り上げがずっと良いので、いっそ毎年これぐらい寒くならないものか、などと不埒なことを考えてしまう。
 その日も暖簾を掲げるなり、待ちかねたようなおとないがあった。ひょこんと顔を出した若い男が、懐手を引き抜いて指を立てる。
「一杯頼めるか」
「はいよ」
 短く答えて、蕎麦屋は調理に取りかかる。暖簾をくぐった客の男は、肘をついて提灯の明かりを見上げていた。
 切った生の蕎麦をゆで、葱を刻む合間に、蕎麦屋はちらちらと男の風体を観察した。きちんと髷を結っているが、月代は剃っていない。侍ではないとすると、学者か町医者辺りだろうか。細い眉の下に、溌剌とした双眸が輝いている。
 引き締まった顔つきと目の光に、聡い人間だという印象を覚えた。布越しの明かりを眺めている今も、ただぼんやりしているのではなく、何かしら思考を巡らせているように見える。いついかなる時でも考えていないと気が済まない、そういう気質の人間はいるものだ。
「蕎麦ってのは良いもんだな」
 出し抜けに男が振り向き、蕎麦屋は目を瞬いた。
「はあ」
「不作の年でもよく育つ。寒い国でも不毛の地でも、蕎麦を植えてりゃなんとか食っていける。勿論雑草ほどしぶとくはねえし、米に比べたらって話だが」
「なるほど」
 当たり障りのない言葉を返しつつ、蕎麦屋は鍋から蕎麦を引き上げた。早い冬の訪れを願ってしまった身としては、少々居心地が悪い。
「あっしは蕎麦屋だからか、味のことしか頭にありやせなんだ。そんな見方をするってぇことは、旦那は学者先生なんですかい」
「それもあるが、俺ぁ北の生まれなんでな。蕎麦の二文字を見ると懐かしくなるんだ」
 目を細めた彼の前に、湯気の立ち上る椀を置く。男は嬉しそうに箸を手に取った。
「おお、美味いな。今度俺の店に来たら安くしとくぜ」
「それはありがてえこってす。しかし旦那、学者さまなんでしょう。一体何を商ってるんです」
「医者だよ」
「冗談じゃありませんぜ」
 納得はしたが、病を得るのも怪我を負うのも御免である。
「まあそう言うなって。蕎麦の育て方の本とか、気にならねえか」
「……もしかして、旦那がお書きになったんで?」
 蕎麦をすする顎がこくこくと上下した。確かに興味をそそられる。
「他にも色々あるぞ、ジャガイモとか山菜とか。本文の横に易しい振り仮名を振ったし、挿絵も付けてもらったから、農民でも読めるはずだ」
「ちょいと待ってください。あんまり難しいのは駄目ですけど、あっしは一通り字は読めます」
「失敬、農村に配る予定なもんでね」
 先程の会話を思い出した。この男は、痩せた土地でも収穫出来る作物に執心しているようだ。わざわざ本にまとめていることといい、農民を思いやった細やかな工夫といい、何処かの藩に雇われているのかもしれない。
 かちん、と気味の良い音を立てて、空っぽの椀の縁に箸が揃えられた。その横に銅銭が並べられる。
「ご馳走さん。身体に気をつけてな」
 代金を受け取った蕎麦屋は顔を上げる。始終はきはきと喋っていた男は、声音よりも優しい微笑みをたたえていた。
「旦那のやってる病院、何てお名前なんですか」
 暖簾を捲り上げかけた男が振り返る。案外垂れ目がちの大きな瞳が、悪戯っぽく輝いた。
「平河天満宮の裏手に、大観堂って蘭学塾がある。塾と一緒に『高野医院』の看板を出してるから、すぐ分かると思うぜ」

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