船を買って帆を張ろう




 久しぶりに顔を合わせたのは、いつものように甲板の上だった。その日のローは珍しく、自船に乗っておらず、ゾロの知らない若い船員の漕ぐ船に乗ってサニー号へとやってきた。古参の船員からうるさく言われているのだろう、若い男は何度も繰り返してローにいつ戻るのか、いつ迎えに来ればよいのかを尋ねていたが、ローは最後までのらくらと答えをはぐらかし、さっさと能力を使ってサニーの甲板へと移動してきてしまった。絶望的な顔で船長を見上げる若い船員を、ゾロは他人顔で見下ろす。
「答えてやれよ、かわいそうに。戻ったら怒られるのはお前じゃなくてあの若いのだぞ」
「おいゾロ屋。随分とつれねぇことを言うじゃねェか。久しぶりに会うてめェの男へかける言葉がそれか?」
 肩を落として船を漕ぎ始めた男を見送るゾロの腰に、ローの長い腕が巻き付いた。肩に羽織ったコートが海風に煽られて翻る。こういう気障な様がつくづくと絵になる男だった。それをさほど自覚なくやっているらしいのが、いかにもローらしかった。
 高いところにある太陽が海面を照し、細かな光の粒があちこちに散っていた。夏気候の海域特有の強い風が時折甲板を通り過ぎる。引き寄せてくるのに抗わずにいると、ローの肩先に頬が当たって止まった。空いた方の手で耳に下がるピアスを鳴らされる。金属が跳ねる小さな音を聞きながら海へと流していた視線をローへと向けると、ローは目線が交わる前にゾロの眉の上へと唇をつけた。ゾロは好きなようにさせてやりながら言った。
「珍しくルフィが帰ってるから会って行けよ。コックはいねぇから飯はどこかの島にでも寄らないとまともなものは食えねェが」
「なんでこのおれが好き好んで麦わら屋に会わなきゃならない」
「ここがルフィの船だからじゃねェか? お前あそこに掲げてる海賊旗が見えてないのか」
 昔チョッパーが言っていたことを思い出す。人は歳を重ねると、それまで見えていたものが見えにくくなる生き物らしい。特に近くが見えにくくなるらしいと聞いたような気がするが、もしかしたら遠くのものも見えなくなる話だったかもしれない。自分にはまだ関係がない話だと真面目に聞かなかったのが悪かった、何という現象だったか。と考えるゾロの顎を、ローは人差し指と中指の関節の先で摘んだ。そのまま唇が重ねられる。数秒、触れるだけで去っていった唇が、明瞭な言葉を吐いた。
「二十年経っても目障りな旗だ」
 ゾロはこの二十年の間、繰り返し聞いた言葉を、今日も前回聞いたときと同じ表情で聞いた。目線を少し上げて、彫りの深い目を見上げる。いつの頃からかローは、出会ったときにはいつも被っていた帽子を被ることをやめた。外科医らしく清潔を好む割に、髪には頓着しない男の髪はいつだって邪魔にならない程度の適当な長さで切られており、長くもなく短くもない毛先が四方に跳ねていた。ゾロとは違う、夜の海の色をした髪は陽に透けると青みが強くなる。直上の陽を受けた髪の先へと目を遣る。光の加減かと思ったが、違う。ゾロは指の先を伸ばし、色の違うそれを摘んだ。思うのと同時、言葉が口をついて出た。
「トラ男、白髪が生えてる」
 指摘されてもローは驚いた様子もなく、ただ「あぁ」と言った。その声の調子から、知っていたしそれが当たり前になる程度には時が過ぎたことを指摘したらしかった。だが、ローの髪にそれがあるのを初めて見たゾロは、一本の白をまじまじと見つめた。陽に透かすと見えなくなる。その熱心さにローが口の端を僅かに上げて言った。
「白い髪が珍しいか。確かにゾロ屋にはまだ生えそうにねェな」
 摘んでいた髪から手を離し、視線をローの顔へと戻す。目尻に皺を寄せたローがゾロを見ていた。こんな顔で笑う男だったろうか。ゾロは見慣れているはずの男の顔へと手を伸ばした。指の腹に髭が当たる。
「なんだ」
「いや、…お前でも歳をとるんだなと思って」
 呟くように言うと、ローは僅かに目を見張った。そして次の瞬間、短い笑い声を上げた。
「お前でもってなんだ。とるだろ、普通に。おれに白髪が生えたことがそんなに意外だったのか」
「いや、髪のことだけじゃなくてよ…」
 目尻の皺を指で撫でる。これもだ、こんなところに皺があっただろうか。毎日顔を合わせていると、日々の積み重ねによる変化には気づきにくい。だが、出会って二十年、ゾロとローは長く一緒に過ごした機会が数えるほどしかなかった。自然、小さな変化が目に止まる。
 思い返せば、ゾロとローが最も長い時間同じ空間で過ごしたのは、同盟という関係だったその時だった。二十年という長さに比せば、ほんの一瞬と言っていい。だが人の縁というものはわからない。いつも、次にいつ会えるかわからないような関係だったが、二人は確かに恋仲となり、約束らしい約束一つしない代わりに付かず離れずのまま現在に至っている。何度身体を繋げてもローはついぞ、ゾロに己の船に乗らないかとは言わなかったし、ゾロもまた己の船を降りるとは言わなかった。
 それでよかったから今日という日までそうしてきたのだったが、思いがけずふいに胸の真ん中に落ちた感情を、気づけばゾロは素直に口にしていた。
「なぁトラ男、おれと一緒になるか」
 なぁトラ男、明日は晴れるらしいぞ、と言うのと同じトーンだったなと言ったあとから思った。二十年、思ったこともなかったことを口にしたのに、その口調はあまりにも平凡だった。だが、人の岐路なんてものは得てしてこんなものなのかもしれなかった。
 ここは戦場ではなく、太陽が空の真ん中にあるだけのどこに出しても恥ずかしくない平凡な日だった。あと数分もすれば、ローが乗船したことに気づいたナミかウソップが顔を出し、ローへと声をかける。その声につられてルフィがやってきて、年甲斐もなくはしゃぎながらローへと飛びかかってくる。平凡と平凡の隙間に落ちたようなこの瞬間が、どうしてゾロの目の前に降ってきたのかわからない。だが、互いに首にかかった賞金の額も、名とともに背負った面倒も、こんな平凡さの前にはもはや瑣末なものだった。
 ローは瞬きもせずゾロの顔を見ていた。だからゾロは、いつもと変わらない調子で続けた。
「おれに白髪が生えたなら、おれはお前に最初に気づいてほしい」
 深く呼吸をして、一つしかない目を眇めた。おれがお前のそれを見逃したのは痛恨のミスだ、と思った。それが理由。ゾロにとってそれは今日という平凡な日を人生の岐路にするには、十分すぎる理由だった。


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