きみは智将の女の子

「圭はさ、デリカシーがないんだよね。今も昔もそこだけ変わらない。ほんとやんなっちゃう」
 ちょっと拗ねたような尖らせた口から手厳しい言葉を浴びせられる。それなのに、目の前のこの女の子の顔を見るとどんなことを言われても少しだけ胸の奥がくすぐったくなってじんわり熱が灯る。俺でなきゃ見逃しちゃうね、と言いたくなるほど淡いその機微は、俺のものであってそうではない。忘れていたはずの記憶に感情もちゃんと伴われていたおかげで知ってしまった気持ちだった。
 智将は、この子のことが好きだったんだ。
「まず女の子の前でパイ毛とかは絶対やっちゃだめなんだからね」
「マジ!?老若男女年齢制限なしでお楽しみいただけるお茶の間の最終兵器パイ毛が!?」
「最終兵器どころか最前線の歩兵みたいなもんだよ、位置的には」
「どういうことかわかんないけどもっと大事にしてよお……すべて平等に尊い命じゃあん……」
「ギャグをナメるなっ!」
「厳しっ!ていうか具体的にどこがダメなワケ!?」
「ぜんぶ。パイも毛も。許す余地なし」
「余地なしッ!」
 ショックのあまりガクッと項垂れたら勢い余って机に思いっきり頭突きしてしまった。ガンッ!と凄まじい音がしてすぐに額に鈍い痛みが広がる。ズキズキするものの、この手の痛みでは智将の記憶の断片は溢れてこないようだった。
 隣の席に座って体ごとを俺を向いているその子は、はるちゃんに教えてもらうまで名前も思い出せなかった。
 ただ、初めて名前を聞いた時に頭が痛くなるより先にみぞおちの奥あたりがぴりっと熱くなったり、記憶喪失になってすべて忘れてしまったことを伝えた時に彼女の丸い目が揺らいでいるのに気づいてこちらの方が少しだけ泣きたくなったりしたから、多分この子は、"俺"の特別な女の子なんだろうと気づいた。
 俺が野球をやると彼女は嬉しそうにするし、俺がパイ毛をかますと色んな意味で悲しそうな顔をする。それはすべて智将のカケラを拾い集めているように見えた。
 彼女は優しいので、極力そんな態度を出さないよう心がけているみたいだけど、どうしようもないくらい俺を見ていなかった。
 圭と呼ぶその声が時々とても心細そうだから、できるだけ優しく返事をするのに、その度に何かを諦めたように切なげに目を細めて笑ったふりをする。
 心があるとして、そこはたぶん泉のようになっていて、液体が詰まっているのだと思う。彼女が俺ではなく"俺"を求めているのが伝わるたびに、心のなかの泉がどろりと淀み、ぐじゅぐじゅと闇を煮詰めたような音を出しながら沸騰して、掻き回されて、苦しいような気持ちがいいような、形容し難い痛みを覚える。
「圭、おでこ真っ赤になってるよ」
 そう言いながら楽しそうに笑う今の彼女は確かに俺を見ていて、さっきまで荒れ狂っていた心のなかの泉があっという間に凪いだ。
 机にぶつけた俺の額を控えめになぞる指の温度にも、半袖の隙間からのぞく細い腕の先に柔らかそうな肌にも、かすかに漂う甘い香りにも気づかないふりをして全然違うところを見ていた。
「てか智将がデリカシーないって意外」
「…圭は頭でっかちだから、たまにそれ言う?ってこと平気で言っちゃうの」
「例えば?」
 額を撫でる指がとまって遠ざかっていくのがわかった。
 せっかくそっちを見ないようにしているのに、彼女はわざとらしく俺の顔を覗き込んできて笑ってるのか泣いてるのか分からない顔で言った。
「『野球ばっか見にきてないで早く彼氏作ったら』とか」
 それはひどいな、と、なんでもないように言ったせいなのか彼女は俺を覗き込むのをやめて、身体をこっちに向けるのもやめて正面に直った。
「自分がちょっとモテるからってほんとデリカシーないよね」
「確かに」
「ほんと、それ言われれるの、すごいやだったなあ」
 もうこっちを見ていない彼女の横顔を、俺は見つめることしかできない。
 視線の先なんて黒板しかないのに、しかもその黒板にはさっき落書きしたパイ毛くらいしか重要なことが書かれていのに、智将が好きだった女の子はずっと遠くの方を見るような眼差しをしている。
 ああ、胸がいてえなあと思った。俺の痛みなのか智将の痛みなのか分からない。どっちも自分の感じている痛みに違いないのに、この子に対する気持ちは少しだけ乖離しているように思える。それは多分、智将が俺に気づかせた気持ちで、俺から生まれた気持ちではないからかもしれない。それでも今痛いのは俺だけだなんて、笑うしかない。
 だから、一体どうしたら、この子はこっちを向いてくれるだろう。
「俺は…」
「?」
「恥ずかしながらあまりモテないので、そんなデリカシーないこと言いませんし…」
 ぽりぽりと痒くもなんともない額をかきながらモゴモゴ言う。きみは不思議そうに俺の目を見る。
 きみが見つめる先に"俺"がいないことを願って一生懸命に言った。だってこの時は本当に、気をつけないと口からなんか出てくるかと思ったんだよ。
「好きな子に彼氏できたら、困る…」

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