炎を見た

 私の父は旅の芸人だった。もうとんと見かけなくなった職業だ。お話の中の特別な存在になる前の、その最後の世代が父だった。
 父は何でも掌に乗せる。とても重いもの、あるいは軽くて浮かぶもの、鋭く尖ったもの、形のないもの、何でも。それが芸の内容だった。至ってシンプルだが、見せ方と乗せるものによっては大いに盛り上がる。父はその選択と演出に長けていた。
 何より盛り上がったのは火だ。観客を前に、「さあ、ご覧なさいまし」と父は言う。まるでお屋敷仕えの従僕のような丁寧な物腰で、服はシャツとゆったりしたズボンだけ、上着はない。シャツの袖を捲り上げて、掌を正面に向け、観客の間を練り歩く。そのつるりとした、傷ひとつない掌。年相応に指先は荒れて、細かい縮緬じわがよっているものの、それらしい痕はない。十分見せた後で、父は舞台の上に戻って観客に向かって立ち、燃えさかる炎を前に両腕を広げる。両手を次第に狭めていき、最後に水をすくうように、炎を持ち上げる。
 父の手が炎の中に入ると観客からは小さな悲鳴が上がる。その手が持ち上がるごとに静かになって、完全に炎から離れたその瞬間、静まり返る。そして歓声。父の両の掌の上の炎が、まるで歓声に押されるようにゆらゆらと揺れる。
 父はそれほど有名な芸人ではなかった。とにかくあちこち行ったけれど、大きなサーカスにいるわけでもなかったし、特別に華やかな芸でもない。どこにでもいるタイプの芸人で、季節ごとにやってくる。だからこそだろう、子供の頃の思い出として父のことを覚えている人は少なくなかった。
 星を受け止めてほしいとの依頼が父の元へ舞い込んで来たのは、もう父が引退して、旅をしなくなったずっと後のことだった。子供たちが独り立ちすると、父は小さな家を借りて、そこで暮らすようになった。定住の生活にも慣れたある日、父の家の戸が叩かれる。扉を開けると、きちんとした格好の人々が、これまたきちんと並んで立っていた。父は面食らった。ここに来るのはおしゃべりしに来る友人ばかりで、そんな格好で来る人はいなかったから。
「星を受け止めてほしいのです」
とその人たちは言った。博物館の研究職員と、市財管理課の課長と、天文台の観測局長だった。
 星、と言っても本当の星ではなかった。はるか昔、人々がこの星に住むことを決めた時に、地形を調べて地図を作るためにいくつも空の上に置いてきた、人工の星だ。硬い殻の中に、視覚器官と送受信器官、推進器官を備えている。視覚器官は複数あり、遠くのものや、人には見えないものを見ることができた。人工の星は、地図が作られた後も、天気や災害時の地表の変化や、祝祭の明かりに満たされた大地の映像を送るために、空の上を漂っていたが、この度寿命が来て落ちることになった。落下地点はこの町のはずれにある平原だ。それを、父に受け止めてほしいと言う。
「うーん」
と父は渋っただろう。
「それは難しいですね。重たいものは手に乗せたことがありますが、遠くから落ちてくるものは初めてです。できるかどうかもわかりません。それに、どうしてそんなことをしたいのですか?」
 彼らは、星のかけらを保存したいからだという。人工の星は、落下する時に燃えはじめ、外側の部品から順番に外れ、壊れていく。最後の部品も地表に接触した瞬間に粉々になってしまう。経年劣化に加えて、熱で脆くなるために、落下の衝撃に耐えられないのだ。その最後のかけらだけでも保存しておきたい、というのが彼らの話だった。貴重な資料であるし、今まで長い間、働いてくれたものを、その一部でもきちんと記録して残しておきたいのだと。回収のための新しい星を作る余裕も時間も、ここにはなかった。
 父は観測局長に、星が落ちる時、具体的にどんなことが起こるかを尋ねた。観測局長は、星はどれくらいの大きさか、どうやって落ちてくるか、落ちる時はどれくらいの衝撃があるのか等を説明した。
「そうですね。一度試してみて、できそうなら引き受けましょう。ああ、喜ばないで、まだやると決めたわけではないんですから」
 父はさっそく友人の一人を呼んだ。昔は遠投の選手だった。父はまず、その人にボールを投げてもらった。丸いボールは父の掌にぴったり落ちてくる。父はだんだんボールを重くした。普通なら怪我をしてしまうような重さのボールを、その人は投げ、父の掌は受け止めた。
 一方的なキャッチ・ボールの場所は、例の平原だった。父は旅をしていた頃の道具を引っ張り出して、そこに簡単な天幕を張って住んだ。友人は、こんなふうにあなたはずっと生活していたはずなのに、こうやって見るのは新鮮な気がするねと言い、父の淹れたお茶を飲んで帰った。
 次に別の友人を呼んだ。重機を扱える人だった。父はその人に頼んで、人には持てない重たいおもりを吊り下げ、掌の上に降ろしてもらった。それくらいなら朝飯前だ。いくつもの町で見せてきた芸と変わらない。次に父は、少し高いところからおもりを落としてもらった。最初はごく短い距離。ほんの指一本分とか、それくらい。だんだんと高くして、最後は重機が持ち上げられるいっぱいの高さから落とした。父の掌はそれを受け止めた。
「うーん」
 どうしよう、できそうだなあ、と、父はその時ぼやいたらしい。
「星はずっと高くから落ちてくる。それに、燃えている」
と友人が指摘すると、「それもそうだ。だけど、火は何度も手に乗せてきたから」と言う。
「火そのものと、燃えるものとは違うんじゃない?」
「そうかもしれない」
ということで、父は最後におもりに布を巻きつけて、それに火をつけた。燃えるおもりを重機が吊り下げ、落とす。おもりは線香花火の最後のしずくみたいに落下して、父の掌の上に、吸い込まれるようにおさまった。もちろん、父の掌は何ともなっていなかった。
「いつ見ても見事だね」
「なに、コツをつかめば簡単なんだ。だけど私以外、誰もコツをつかめなかった。そういうものなんだよ」
 重機の伸びる最大の高さよりも、ずっと高くから落ちるのだけは、どうしようもない。失敗するかもしれないが、その時はその時だ。父はそう言って、その日のうちに博物館に連絡をして、依頼を引き受けることを告げた。
 星が落ちるその日、平原には人が多かっただろうか、少なかっただろうか。たくさんの人が父の最後の芸を見ようと詰めかけていたようにも思うし、父の戸を叩いた人々と、友人と、その他数人だけが来ていたという気もする。どちらの場合も父は自分の仕事をした。
 一つ誤算だったのは、星の落ちる場所が思ったよりも大きくずれてしまったことだ。人工の星の送受信器官と推進器官を使って、落下地点はある程度操作ができるし、その後の計算は、市が呼んだ天文学者たちがしてくれた。けれど、どうしても誤差というものはある。それは聞かされていたけれど、誤差は事前の説明よりももっと大きかった。父は、星を追いかけてずいぶん走った。息切れがして、足がふらふらになって、それでもどうにか星に追いついて、父は手を差し伸べた。その手に燃える星が落ちてくる。光の軌跡が綺麗だった。遠くから見ても、きっと受け止められると思った。
 星が燃えながら父の手の中に落ちて、掌の上で炎を上げた時、父はその星を落としてしまった。星の火が平原の植物に燃え移り、ぱっと炎が広がった。慌てて消化器を持ってきた職員が、父を押し退けて星と草とに消炎剤を吹きかける。炎は消し止められ、星のかけらは無事に回収された。
「ほんの少し、凹んだところはあるかもしれませんが」
と、冗談を言ったのは、父だったか、他の人々だったか。ともかくも、星のかけらは、博物館で研究されていくつもの論文になり、今も展示されている。
「落とすなんて珍しい。やっぱり難しかったの、あれは?」
と後々に父の友人が尋ねた。その人は天文が好きだった。学者を志して勉強したが叶わず、教師になった人だった。
「迷ったんだよ」
と父は答える。つまり、人工の星にとって、どちらが故郷なのだろうと思ったのだそうだ。星の素材はすべて地上のものだったが、機能している時間の大半を空の上で過ごす。彼らにとってどちらが故郷なのだろう——と、ふと疑問に思って手が緩み、取り落としてしまったのだという。星のかけらは、練習に使ったおもりよりも小さく、ずっと軽かった。
「どちらにせよ、ひょっとしたら星たちにとっては余計なお世話だったのかもしれないね。もう一度空に昇ることはないし、砕けて地表に帰ることもなくなってしまったのだから」
 父がそう言うと、友人のその人は、ああ、と同情のため息をついた。
「人工の星は、落ちる何年も前にほとんど機能を停止しているんだそうだね。落ちる場所を決めるための、送受信と推進のための最低限の器官以外は、全く動いていない。何も見ていないし、聞いてもいない。それも落ち始めたら燃えてなくなってしまう。残るのは、殻と、それにこびりついた器官の燃えかすだけだって、本当かい?」
 その人は頷いた。父はそうなんだね、と言って冷めたお茶を啜った。


 さて、ここまでは私の想像だ。友人や、父の最後の仕事に関わった人々から聞いた話をもとにして、思い浮かべたことを書き出した。父はそういうたぐいのものを何も残さなかった。父の仕事や名前が載っている記事はいくつも見つかるのに、父が自分で記録したものはなかった。
 その代わりに、父は一冊の地図帳を持っていた。他の地図と同じように、人工の星から送られてきた情報を元に作られた、この地表の地図。ぼろぼろになって何度か買い替えた、最後の地図で、擦り切れて、何度も補修した跡がある。父はその地図を手放さなかった。仕事をやめた後も、その地図だけは大切に持っていた。
 ある忙しい朝、父が私を訪れた。最後の仕事の翌朝だった。扉を開けると汗にまじって薬品のような匂いがして、父が立っていた。後で知ったことだが、父は一晩かけて、歩いて来たのだった。薬品の匂いは消炎剤のせいだろう。玄関に立った父は片手を緩く握りしめていた。掌の上に何でも乗せるという芸のために、父の手は開いているのを見るばかりで、そんなふうに握りしめているのはあまり見なかったから、おやと思ったのを覚えている。
 父が訪ねてきたのは星のためだった。星を受け止めそこなった夜、父は星から飛び散った火の粉を一つ、掌に受けていた。受け止めるというより、火の粉が父の掌に飛び込んできたのだ。そしてそのまま燃え続けた。星の炎は、普通の火と違って虹色で、ゆらめく度に色がくるくると変わる。それを見せにきたのだ、と父は言う。けれども私の答えはこうだった。
「それが何になるの、お父さん」
 そして父に、暇なら朝の支度をする間子供たちを見ておいて、と言った。
 私はその時、二人の子供を育てていた。まだ小さくて手のかかる年頃だった。勤めていた職場から独立して、自分の設計事務所を持ってすぐの頃でもあった。子供も、仕事も、念願のものだったけれど、とにかく忙しくて心の余裕を無くしていた。父は私の苦境とは無縁の場所からやって来たが、だからと言ってもちろん、彼にそんなふうに言うべきではなかった。けれども私はそう言った。星の炎を見もしなかった。朝に突然訪ねてきた父が腹立たしく、意地になっていた。父が私に見せたかった、不思議で、美しいものに、私は一度も目を向けなかった。
 父の死後、彼が一人で暮らしていた家を片付けた時、私は父の地図帳をもらって帰った。縦に長い本で、いくつかのページは織り込まれており、広げると大きな地図になる。どのページにもたくさんの日付があり、書き込みがあった。父は、掌の上に何でも乗せるというあの芸を披露した町の上に日付を書き込んでいた。あまり頻繁に訪ねていっても飽きられる。といって、間が空くと忘れられてしまう。だから日付を書き込んで、舞台の終わった翌朝、その地図を眺めながら、次に訪ねる町を決めた。幼い頃、今度はこの街に行くよと、膝に私を乗せた父がその地図を開いて指差したのを覚えている。私たちが学校に行くようになると、父一人が旅をするようになって、それ以来この地図は見ていなかった。
 父の暮らしていた町のそばにある平原の、星を受け止めたその場所に、父は日付とともに特大のしるしをつけていた。もう一つ、別のしるしがあって、それは彼の子供たちの住む町につけられている。日付はない。古い地図だったから、地形や、境界線や、名前の変わっている場所もいくつかあって、父はそこに書き込みをしながら旅をしていた。書き込みがないのは、父が引退した後に変わった場所だ。私の住む町も、古い名前のままだった。
「それ、何?」
と尋ねる子供たちの前に、地図帳を広げ、一ページずつめくる。これはおじいちゃんの地図。この日付は、おじいちゃんが訪ねた日。たくさんあるね。たくさんある。おじいちゃんは世界中を旅していた。あなたたちがまだ見たこともない場所、私も見たことのない場所にも、おじいちゃんは行った。父の足跡を、私たちは星の視点からたどる。
 ページをめくり、折り込み地図を広げると、ひときわ大きなしるしをつけた平原の地図が現れる。地図にやや飽きていた子供たちは、大きい、変なの、かいじゅうだ、とひとしきり騒ぐ。これはね、と私は言う。これはね。これは、おじいちゃんが星を受け止めた場所だよ。ここに星が落ちてきたんだよ。だから大きいんだよ。星は、とっても遠くから落ちてくるから。燃えながら落ちてくるから。
 子供たちは、まじまじと地図のしるしを眺める。その瞳を私はそっと見つめる。そこに虹色のゆらめきがないかを探してしまう。父はひょっとしたら、私の子供たちにも星の炎を見せたのではないかと。私が何も見なかった間、起きたばかりの子供たちと一晩中起きていた父だけになった瞬間に。子供たちの瞳の表面は濡れて、地表の形が映っている。父は握った手を開き、この瞳は炎を見た。私はそれを信じている。

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