頸と心第2部(12)廃屋

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 結局、土井は五日ばかりの休暇を取った。
 学園長へ届けを出した時には、私用で遠出をすることだけを告げた。何をしに行くのかと問われれば説明に困っただろうが、幸い老人は書面を一瞥して「気をつけての」と言っただけだった。妙に含みのある笑い方をされた気もしたが、問い質す気にはなれなかった。

 利吉とは翌朝、学園から少し離れた街道筋で落ち合った。土井が着いた時には利吉は既に待っていて、旅装も荷もきっちり整えられていた。着替え、乾飯、火口、薬、予備の草鞋──必要なものが必要な分だけ収まり、どこに何が入っているかが本人には目を瞑っていても分かるのだろうと思わせる荷造りだ。
「……相変わらず、きちんとしてるな」
「旅支度くらい普通でしょう」
「私はもっと適当だ」
「存じています」
 さらりと言われて、土井は少しむっとした。もっとも反論はできない。自分の背負っている荷も一応は持ってきたものの、使いそうなものを片端から風呂敷へ突っ込んだだけだった。
「お兄ちゃん、その包み、途中で絶対崩れて詰め直しますよ」
「うるさいな。行くぞ」
 懐かしい呼び方を利吉はあれからそのまま使っていた。最初こそ耳に入るたびに妙な心地がしたが、二日も経てば不思議と馴染む。十二の頃に後ろをついて歩いていた少年の声とはもう違う。背丈も肩幅も、並んで歩く歩幅さえ今では自分とほとんど変わらない。それでも「お兄ちゃん」と呼ばれると、土井の中にあるものが少しだけ昔の場所へ戻る気がした。

 目的の山までは二日ほどかかる。初日は街道を北へ進み、日が暮れる頃に小さな宿場へ入った。二日目からは街道を外れ、山へ向かって細い道を辿る。天気はよく、雨季の湿りを残した山の緑が日を受けて濃く光っていた。
 利吉は、道中ほとんど何も聞かなかった。
 死んだ男の名も、どのような男だったのかも、どう死んだのかも。土井が言わないことを無理に聞き出そうとは思っていないようで、代わりに道の状態や次に水を汲める場所について話し、時折どうでもいい話を持ち出した。先月請けた仕事で依頼人の犬に追い回された話だとか、父が近頃また家に帰ることをさぼっているだとか、そんなことばかりだった。
 その気遣いが土井にはありがたくもあり、少しばかり落ち着かない。てっきりもっと聞かれるものだと思っていた。弔いましょうと言い出して、同行すると言ったくらいなのだから、道中死者について訊きたがるに違いないと。答えられるところだけは答えて、答えたくないところは煙に巻けばいいとそう身構えていたのに、思いの外利吉は何も仕掛けてこなかった。



 二日目の午後、山道は徐々に険しくなった。人の通った痕跡が薄れ、踏み固められていた土の道もやがて獣道と変わらなくなる。目的の場所へ行くのなら本来は尾根を東へ回るべきだった。土井はその道を知っている。閉じられた頁の中で幾度となく通った道だ。
 それなのに──分かれ道で足は西へ向いた。
「お兄ちゃん」
 後ろから呼ばれ、土井は立ち止まった。
「こちらなんですか?」
「……いや」
 違う。死地はこの先ではない。ここから半日ほど東へ行った山中だ。分かっている。それなのに身体は迷うことなく西の細道へ入ろうとしていた。利吉は何も言わずについてくる。
 土井は西へ伸びる草深い道を見た。胸の奥に、ひどく古い疼きがあった。あの場所に行くつもりはなかった。弔うなら死んだ場所へ行けばいい。それで済む。それだけで済む筈だった。
 土井の頭に、荷の中に入れた首巻きのことがふと浮かんだ。それを貰った朝の男の顔も。全部丸めて押し入れの奥へ突っ込み、必要になるたび引っ張り出してはまた形も整ずに押し戻すような真似を四年も続けてきた。弔うというのなら、一度くらい中身を広げてみなければならないのかもしれない。
「……少し、寄り道してもいいか」
「はい」
 利吉は理由を聞かなかった。

 西へ折れてから一刻ほど歩くと、木々の隙間に崩れた石垣が見え始めた。人の手が入らなくなって久しい畑には草が腰まで茂り、道だった場所には若木が根を張っている。傾いた家々の屋根には苔が厚く乗り、壁の落ちた家からは庭だったらしい場所へ蔓草が溢れていた。──廃村だ。
 土井の足が、ひとりでに遅くなる。知っている。この道を知っている。崩れた井戸も、半分倒れた柿の木も、その先の石段も。閉じられた頁の中で、初めてここへ来た時にも同じように朽ちていた。
 その村から少し離れた奥まった細道の先。墓地を抜けた更に先にその小屋はあった。あのころ、野良と二人で草を払い、屋根を塞いだ。使える板を他の家から運び、腐った床を剥がして張り替えた。囲炉裏に火を入れ、雨漏りのする場所には桶を置き、冬が来る前には隙間風を防ぐために壁を直した。何もなかった場所へ、一つずつ生活の痕跡を増やしていった。
 けれども、その痕跡が、どこにもない。
 土井はその小屋の前で足を止めた。屋根の片側には大きな穴が開き、そこから差し込んだ光が室内の埃を白く浮かび上がらせている。続き間の床は奥の方が腐って落ち、壁板も何枚か外れていた。戸は辛うじて片方だけ残り、敷居から外れかけたまま斜めにぶら下がっている。
 ただの廃屋だ。初めて見つけた時のままだった。
「…………」
 胸の奥が、静かに冷える。当たり前だ。この頁にはあの男はいなかったのだから。
 ここを見つけた野良はいない。黒を拾い、名前をつけ、この小屋へ連れてきた男はいない。屋根に上がって穴を塞ぐ自分の雑さに文句を言った男も、床板を張るための板を持ってきた男も、冬支度のために獣の皮を持ち帰ってきた男も。
 自分たちがここで過ごした時間は、何一つこの場所に刻まれてはいない。
 分かっていた。分かっていたはずのことだった。それなのに──壊れた屋根を見上げた瞬間、今さらのようにその事実が胸へ落ちる。
「……お兄ちゃん」
 利吉の声で、土井はようやく息をした。
「ここは何ですか」
「……」
 何と答えようかと思った。あの男と暮らした場所だと言えばいいだろうか。けれども『暮らした』という言葉さえ、この目の前の小屋にはそぐわない気がした。暮らした痕跡など一つも残っていない。否──そもそも、ここで暮らしたことなどないのだから。
「……ここにいた」
 それだけ言った。
 利吉は小屋を見た。崩れた屋根から腐った床へ目を移し、しばらく何も言わずに室内を眺めている。
「そうですか」
 やがて、小さく頷いた。
「まだ残っていてよかったです」
 土井は思わず利吉を見た。
「……これで?」
「ええ。なくなっていたら、見られなかったでしょう」
 利吉はそう言って、入口に溜まった枝葉を足で寄せた。
「ここにいたことが、お兄ちゃんの中にしか残っていないのなら……場所くらい残っていてもいいじゃないですか」
 土井は答えなかった。
 喉の奥が、少し痛かった。
 利吉はそれ以上何も言わず、小屋の中へ足を踏み入れた。腐った床を踏まぬよう柱際へ体重を寄せ、天井を見上げ、奥の間を覗き込む。
「こっちは駄目ですね。床が抜けます」
「見れば分かる」
「手前はまだ使えそうです。屋根も半分は残っていますし、雨も降りそうにない」
「……何をする気だ」
「今夜は、ここで寝ましょう」
 土井は目を瞬いた。
「本気か?」
「ここまで来て、他に寝床を探す方が面倒です。それに明日は東へ回るんでしょう? なら、下手に探すよりここから出た方が早い」
 もっともらしいことを言いながら、利吉はもう荷を下ろしている。合理的に聞こえるが、それだけではないことくらいは土井にも分かった。
「それは……」
「嫌ですか?」
 問われて、土井は小屋の中を見回した。
 閉じられた頁の中では、囲炉裏があり、敷物があった。壁際には肩籠が置かれ、冬には干した肉が吊るされていた。寒い夜には二人で狭い寝床へ入り、利吉の腕の中で眠った。今は何もない。埃と枯葉と腐った板の匂いだけだ。今にも朽ちそうな家は次の大雪で屋根が全部落ちても不思議ではない。壁も床も腐り、まともに使えるのは手前の一間くらいしかない。
 けれど──残っている。
 山火事にも遭っていない。誰かに壊されてもいない。二人が暮らした姿ではないとしても、あの日あの時、黒と野良が見つけた場所そのものはまだここにある。
 土井は少しだけ目を細めて、小さく言った。
「……一晩だけだぞ」
「ええ」
 利吉が笑った。



 二人で使うのは、傷みの少ない手前の一間だけにした。床に積もった枯葉を掃き出し、落ちた壁板を端へ寄せる。利吉が持ってきた縄で外れかけた戸を仮に括り、土井は続き間の使える床板を剥いで穴の開いた床板と取り替えた。小屋自体を直す気はなかった。今夜、風を避けて眠れるだけでいい。
 土井は途中で、ふと手を止めた。
 以前──似たことをした。
 あの時もこうして、使える場所と使えない場所を分け、二人で手分けしてこの小屋を整えた。野良が屋根を見ている間に、黒は床へ転がっていたものを外へ放り出した。最初の日は一間しか使えず、それでも囲炉裏へ火が入っただけで随分ましになった。
 土井は思わず利吉の方を見た。今目の前で箒代わりの枝を使って埃を掃いている利吉の動きは、記憶の中の男とは違っている。当然だ。違う人間なのだから。
 その違いを、今は不思議と苦しいとは思わなかった。



 夜が深くなる前に、利吉は囲炉裏に火を入れた。朽ちかけた家とは言え獣除けもなしに山中で眠るわけにはいかない。もっとも長く放置された囲炉裏には湿った土と枯葉が溜まり、そのまま薪を焚けば床下へ火が回りかねなかった。利吉は村の中を一度見て回り、屋根の残っている別の家から古い灰を掻き集めてきた。それを囲炉裏の底へ厚く敷き、細い薪から火を起こし、熾ったところで少しずつ太い枝を足していく。
 やがて炎が落ち着くと、利吉は燃え残った薪を火箸で崩した。赤く熾った部分へ灰を薄く被せ、火を殺さぬよう何度か掻き混ぜる。明け方まで持たせるために炭を作っているらしい。炎が上がりすぎれば古い梁が危ないし、完全に消せば獣除けにならない。その加減を見ながら、利吉は囲炉裏の前に胡坐をかいていた。
 土井は横になったまま、その横顔を見ていた。
 火が動くたび、頬から鼻梁へ明かりが滑る。伏せた目の形、額へ落ちる髪、火箸を持つ指の長さ。十六の身体はまだ細い。上背もあと少し足りず、肩もあの男ほど厚くない。それでもあと二、三年もすればきっと追いつく。こうして火の前に座る後ろ姿まで、いずれ。
 閉じられた頁の中でも、夜半に目を覚ますと利吉が囲炉裏の前にいることがあった。黒が寒がらぬよう薪を足している時もあれば、ただ火を眺めながら刃を研いでいる時もあった。こちらが起きたと気づけば振り返り、何でもない顔で早く寝ろと言った。
 今、目の前にいる利吉が火箸を返す。ぱちり、と小さく炭が爆ぜた。
「……利吉くん」
「はい」
 振り返らないまま返事があった。土井はそれでも少し躊躇した。言うつもりはなかったことを言おうとしている。これだけは言わないつもりだった。似ていると認めたことはある。それ以上は必要ないと思っていた。何も知らないこの子に、死んだ男との似姿を背負わせるのは卑怯だとも思っていた。
 それなのに──今夜ここまで来て、この家を見て、火の前にいる横顔を眺めていると、言っておかなければならないような気がした。
「……君は」
 言葉が一度、喉につかえた。
「……あいつに、瓜二つなんだ」
 利吉の手が止まった。
 火箸の先で、赤い炭がひとつ崩れる。
「……顔が、ですか」
「顔も。声も。手も。立ち姿も」
 そこまで言って、土井は自分で嫌になるほど細かく覚えていたことに気づいた。
「あいつは、もう少し背が高かった。肩も広かったな。君もあと何年かしたら、あれくらいになるんだろう。……たぶん、今よりずっと似る」
 利吉はしばらく何も言わなかった。火箸で炭を寄せ、灰を薄く掛け直す。土井はその背を見ながら、余計なことを言ったかと思い始めた。これほど露骨に死んだ想い人と同じ顔だと言われて、気分のいい人間もいないだろう。
 やがて利吉がこちらを見た。
「それは──」
 口元が少し上がった。
「付け込み甲斐がありますね」
「……君なあ」
「だって、そうでしょう。顔を見るだけで恋しがってくださるなら、最初から随分有利です」
 そう言って利吉は笑う。土井はその顔を見て、ふと目を細めた。
 あいつは──こんなふうには笑わなかった。
 野良の笑い方はもっと皮肉げで、どこか相手を試すところがあった。嬉しい時ほど口元だけで笑い、機嫌が良ければ嫌味が増えた。あれはきっと虚勢の裏返しだったのだろう。こんなふうに、自分の未熟さまで込みで面白がるような明るい笑い方はしなかった。同じ顔なのに。
「……そこは似てないな」
「何がです?」
「笑い方」
 利吉は一瞬きょとんとして、それからまた笑った。
「それならよかったです」
「よかったのか」
「全部同じでは困りますから」
 その言い方が妙にあっさりとしていて、土井は返す言葉を失った。利吉はもう火に向き直っている。灰の中に炭を埋め、熾火を一箇所に寄せている。今夜ここで聞いたことを必要以上に重く捉えないつもりなのだろう。
 土井は天井を見上げた。屋根の穴から星が見える。
「……ここもな」
 ぽつりと声が出た。
「最初は、今とほとんど同じだった」
 利吉の手が止まる気配がした。土井は続けた。
「屋根に穴が開いて、奥の床は腐っていた。まともに寝られるのはこの一間くらいで。あいつがここを見つけて、しばらく使うと言い出した」
「お二人で直したんですか」
「まあな。もっとも、昼間は大抵あいつが狩りに出ていたから、家の方は私がやった」
 そう思い出しただけで、少し笑いが込み上げた。
「私の修補が雑だと、よく呆れられたよ。雨が入らなければいいだろうと板を適当に打ちつけたら、翌日全部やり直されたこともある。雨が入らないだけじゃ何故いかんのか、未だに分からん」
「……想像できます」
「何がだ」
「お兄ちゃんの修補が雑なのが」
「そこか」
 利吉が肩を揺らした。炭がまた一つ小さく鳴る。
「服もな。洗えとうるさかった」
「それは私も言っていますが」
「あいつの方がひどかったぞ。散々渋ったのに衣を剥かれる勢いで」
「正しい対処だと思います」
「君は本当に……」
 言いかけて、土井は口を閉じた。さっきの『君』に、自然に二人の姿を重ねていたことに気づいたからだ。利吉は分かっているのかいないのか、何も言わずに火箸を灰へ突き立て、熾火の具合を確かめている。
「……狩りへ出ると、毎度何か持って帰ってきた」
 土井は言葉を続けた。もう少しだけ話してもいい気がした。
「兎の皮だの、蜂蜜だの。葛を編んだ籠を作ってきたこともあった。自分で寄越してくるくせに、余ったからとか、捨てるよりましだからとか、いちいち可愛げのないことを言うんだ」
「……お兄ちゃんは、嬉しかったんですか」
「嬉しかったよ」
 思ったより、すんなり声が出た。
「とても──嬉しかった」
 口に出してしまえば、それは存外簡単な言葉だった。
 あの頃は言えなかった。貰うたび礼儀のようにありがとうと言うばかりで、そのくせ使いながら心の内ではひどく喜んでいた。黒のために獲ったのだろうと、作ったのだろうと、自分でも分かっているだろうにそれを指摘すれば利吉がむくれるのがおかしくて黙っていた。
「何か持って帰ってくるたび、またかと思って……でも、今日は何を持ってくるんだろうとこの家で待っていた」
 家、と土井は言った。そう、ここは家だった。黒と野良の家。二人で暮らした家。火の向こうで、利吉の横顔が静かに聞いている。
「帰りが遅い日は、心配した。外で音がすると、帰ってきたのかと思って。……あいつが戸を開けて入ってくると、それだけでほっとした」
 話しながら、少しだけ胸が痛んだ。
 目の前には、その男と同じ顔をした青年がいる。自分に片恋をして、どうにかこちらを振り向かせようとしている相手だ。その前で昔の男の話をするなど、考えてみれば随分無神経なことをしている。
 悪いだろうか、と、土井は一瞬思った。けれども次の瞬間には、構うものかとも思った。見ない振りをしていたものを引きずり出したのはこの子だ。弔おうと言ったのも、この場所までついてきたのも。そう思って話を続けた。
「……冬になる前には、鹿の皮を持ってきた。敷いて寝ろと素っ気なく寄越したわりに、毛並みのいい鹿を選んで綺麗になめしてあった。兎の毛で籠手も作ってきた。あれは今も持ってる」
「今もですか」
「ああ」
「四年前のものを、お兄ちゃんが?」
「悪いか」
「いいえ」
 利吉は火箸を灰の中へ差し込み、少しだけ炭を寄せた。赤い芯が覗いて、すぐに灰の下へ隠れる。
「……ほかにも、何か?」
「そうだな。約束というほどではないが……いつか、両親のところへ連れて行くと言っていた」
 利吉の手が止まった。
「それは──」
「何だ?」
「いえ。なんだか……」
 珍しく言葉を濁す。土井が待っていると、利吉は火へ目を落としたまま、少し居心地が悪そうに続けた。
「嫁取りのような話だな、と」
 土井は一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「……そう聞こえるか」
「聞こえますよ。好きな相手を親元へ連れて行くのでしょう」
「まあ……」
 否定しようとして、やめた。言われてみればそうかもしれなかった。春になったら山田の家へ行こうと利吉に言われた時、自分もどこか浮ついた気分になったことを覚えている。あの男の生まれ育った家を見て、父母に会って、あいつの子供の頃の話でも聞けたらと。そんな先のことを考えられるようになった自分が、ひどく不思議だった。
「……私も少し、そういう気分だったよ」
 利吉がゆっくり顔を上げた。
 火の明かりの中で、何とも言えない顔をしている。面白くないのだろう。それでも聞きたくないとは言わずに、少し視線を落として囲炉裏の火を眺めた。
「……大事にしていたんですね」
 利吉の呟きに、土井は少し考えてから頷いた。
「ああ。……大事だった」
 そう、大事だった。あの男のことが。あの男と過ごす時間が。あの男に貰ったすべてのものが。たったそれだけのことだったのに。
「大事にされてもいたな」
 そのことも、今なら認められる。利吉が狩りのたびに何かを持ち帰ってきたことも、服を洗えとうるさく言ってきたことも、雑な修補を呆れながら直したことも、いつか両親のところへ連れて行くと言ったことも──あの頃はひとつひとつを噛み締めるようなことはなかったが、どれもあの男なりのやり方で、ふっとどこかへ行ってしまいそうな黒を自分の暮らしの内側に置こうとしていたのだろう。
「……ずいぶん、好かれていたんですね」
「そうらしいな」
「他人事みたいに言いますね」
「当時は分からなかったんだよ」
 そう答えてから、土井はふと利吉を見た。囲炉裏の火を絶やさぬよう、薪を時折くべては灰を寄せている横顔。今夜ここへ来るために旅支度を整え、道中の食い物も薬も抜かりなく用意していた。思えばこの子も、随分あれこれと自分のところへ持ってきている。銃器油だの団子だの、歌を添えた文だの。藤の花弁一枚までも拾ってこちらの掌に載せてきた。あの手この手の贈り物で気を引こうとするところはやはり利吉なのだ。やり方は違っても、どちらも自分のところへ何かを運んでくるのは変わらない。
 今日だってそうだ。死人が邪魔だから弔うなどと生意気なことを言っていたが、こんな山奥まで何日もかけて付き合っている時点で誰のために来たのかなど考えるまでもない。過去の男に嫉妬しながら、その男の弔いをしようと言い出し、こうして思い出の家で火まで守ってくれている。
(……大事にされてるな、私は)
 思いがけず浮かんだ言葉に、土井は少しだけ目を伏せた。
 同じ顔で、似たように贈り物を寄越し、こちらの生き方に勝手に手を伸ばしてくる。けれど野良なら、死んだ恋敵を弔いに行こうなどとはきっと言わなかっただろう。もっと強引に奪い、忘れられぬなら忘れられぬまま抱いてしまえとでも思ったかもしれない。そういう身勝手さがあの男にはあった。
 この利吉は違う。優しい場所を失わないまま、己の幼さを責めることなく育った子だ。この利吉は傷を見つければ癒そうとして働きかけるし、急がず退かず、こちらが自分から近づくのを待っている。余裕という意味では野良より余程あるのかもしれない。手に入れられない自分を許すことができるのだ。
 土井はその横顔をしばらく眺め、それからほんの少しだけ身体をずらした。利吉との間にあった隙間が狭まる。あの頃もそうだった。火の前にいる男の背が近くにあると、黒は理由もなくそちらへ寄った。寒いからだとか火の方が暖かいからだとか、もっともらしい理由をつけながら、本当はただ近くにいたかった。
 今も──それと少し似ていた。
 利吉は気づいたらしい。火箸を動かす手がほんの一瞬だけ止まった。それでもここぞとばかりに距離を詰めてはこなかった。ただ何も言わず、また灰を均している。その慎ましさまで、やはり野良とは違う。土井は口元をわずかに緩めた。
 重なるところも、重ならないところも、そのどちらもがひどく愛おしかった。

 囲炉裏の火は、灰の下で静かに息をし続けている。燃え上がることもなく、消えることもなく、利吉が時折火箸を入れるたびに赤い芯だけを覗かせる。
 土井はその小さな光を眺めながら、それからもぽつりぽつりと話し続けた。
 野良のことを。
 この家で暮らしたことを。
 今まで誰にも教えなかったものを、一つずつ取り出して、形を確かめるように。

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