逃れられぬ追想
精神の入れ替えはシャンブルズの応用だ。初めて出来た時はこんな事も出来るのかと、悪魔の実の能力には些か驚き、恐怖すら覚えたものだが、今では便利に活用している。能力が精神ではなく肉体に宿るらしい事を知ってからは、自分には使わず主に錯乱目的で敵に使う事が多いが、たまに騒動を起こした仲間に罰として使用する事もあった。
パンクハザードで麦わら屋の一味に使ったのも、錯乱と、彼等の本来持つ力を十分に発揮させない為であり、決して、無意味な行動では無い。だというのに当時の様子を面白がった鼻屋が、やってみてくれなんて言い出したのには呆れてしまった。入れ替えたまま元に戻さない事もおれには出来るんだぞと、言っても「そんな事しねぇだろ、お前」なんて言いやがる。確かにワノ国へ向かう最中で、戦力を落とすような事はしないがだからといって、遊びでわざわざ能力を使ってやる必要だってない。
「なのに!やらねぇとか言いつつなんでした?!」
「一回やれば満足するだろ、餓鬼は」
「だからってなんでおれとロビンなんだよ?!」
「餓鬼を否定してくれゾロー、でもおれとしてはナイス、もう一回見てぇだけで当事者は嫌だからな」
「このやろっ……!」
しつこいと言う程、鼻屋は強請った訳では無い。だが、見たいなー、してほしいなー、という視線が始終まとわりつかれては流石に辟易としてしまう。だから、最初は苛立ち混じりに鼻屋と、その辺を泳いでいる海水魚と入れ替えてやろうかとも思ったが、たまたまやって来たゾロ屋とニコ屋に目を向けてしまい、鼻屋の言いなりになるのも癪であったのでつい、その二人の精神を入れ替えてしまったのだ。ざまぁねぇな鼻屋、と思ったのは束の間、おれはコイツの自己回避願望の高さには気づいていなかったらしい。ほんの少しだけ残念な顔をしつつ、ほっとした様子であった鼻屋の姿には、おれの方が苛立ってしまった。
しかしまぁ、と苛立ちをため息と共に吐き出しつつも、おれは今やニコ屋なゾロ屋と、ゾロ屋なニコ屋を眺める。失敗したなと思った。
「ふふ、男の人の体って、こんな感じなのね。それともゾロだからかしら、力が漲る感じだわ」
ニコ屋の過去なんぞどうでもいいが、適応能力がかなり高められるような環境で育ったに違いない。でなければ突然精神を入れ替えられたというのに平然としていられるはずがないのだ。大体は、混乱する。
「あ、やっぱりこの目は……ゾロ、ちゃんとチョッパーにこの目のこと話した?」
「言ってる。つか、お前喋るな、おれの声でその口調やめろ、本気でやめてくれ」
「いやよ、わたしだってそんな粗野な話し方しないもの」
ゾロ屋の声で、ニコ屋が言う。声はゾロ屋のものなのに、口調は一切似せる気がない上に、仕草も彼女本来のものであるから、正直に言おう、かなりキツイ。
足元はお淑やかに閉じられ、僅かに膝が曲がる。腕を組んでいるが片手は頬に当てられて、嫋やかな仕草は女性そのもの。ゆるりと目が細められて、弧を描く口元はいつものゾロ屋が見せる悪ガキのようなものとは真逆に品があったが、兎にも角にも、キツイ。
体は男だけど心は女である、という人種が居ることは知っているが、そういう存在は普段から体にもその概念が染み出ているものだからあまり違和感は抱かないのだが、ゾロ屋は男の中の男と言っても過言ではないほどに男らしいので、突然女らしい仕草をし始めたらやはり、目のやり場に困る。この場合の困るは気まずいとかいたたまれないとかではなく、見ていたら目が潰れるからだ。悪い意味で。
自分でしておきながら失敗でしかないと後悔が波のように押し寄せる。早く元に戻してしまおうと思いながらも、ニコ屋なゾロ屋も見てしまうのは、興味本位で仕方ないことだろう。しかも、訳の分からない格好をしていれば尚のことだ。
「なにしてんだ、ゾロ屋」
「ああ?!」
ニコ屋の声でがなると、中々に迫力がある。周りで面白がっていたクルーがびくりとした。
「しょうがねぇだろ?!」
「……目を瞑る理由と、両腕を真横に伸ばす理由の答えが、しょうがない、か」
「そうだろ?!」
ゾロ屋は、両腕をこれでもかという程に真横に伸ばしていた。閉じた目はきつく、眉間にはあと数分もすれば跡が残ってしまうだろうほど深い谷が作られている。まるで磔の聖女が最後に呪いでもかけそうな形相だ。
「あれだろ、ゾロ」
ひとしきり面白がっていた鼻屋が物知り顔でうんうんと頷く。
「女の体に触れたら、とか、見たら、とか考えてんだろ。お前変に律儀だもんな」
「ちがっ……!あぁくそっ!みなまで言うな!」
ああ、なるほどと得心がいく。この男、確かに義理堅いところがあるのは短い付き合いの中でも垣間見える性格で理解していた。しかし、仲間内でもこうまで対応が違うのかという驚きは多少なりとも湧いたのも事実だった。
パンクハザードでは、黒足屋とナミ屋を入れ替え、その後すぐの行動はあまり興味も無く別行動をしていた為見ることも無かったが、元に戻す時の黒足屋と言えば随分と気に入った様子であった。後から鼻屋が「大変だったんだぜ、笑えたけど」という言葉と共にどこまでが本当なのか分からない話を聞かされたが、確か、紳士的ではなかったと思う。
しかしこの剣士、どうやらそのコックとは違って随分と女の体には苦手意識を持っているようだ。いや、コイツの反応の方が正しいのだろうかと思ったのだが、そういえば白猟屋なんかも、女海兵と入れ替えてやったがなんの迷いもなしに前を開けっぴろげにしていたと思い出す。となればやはり、ゾロ屋が、過剰なだけだろう。
決して触れない。決して見ない。そんな確固たる決意を、震える皮膚が示している。力の入りすぎだ。
「いやぁ、ゾロ君はなんとも真面目な男なんだろうなぁ……くくっ……!」
「サンジを信頼していない訳では無いけれど、正直彼じゃなくて良かったと思うくらいには、いい子よね、ゾロ」
「テメェ等うるせぇぞ!つかあのグル眉と並べんじゃねぇよ!」
「あ、ゾロ、そのセリフもう一回。トーンダイヤルで録音してサンジが戻ってきたら聞かせてやりてぇ。アイツショック死するぜ」
「知るか!!」
やいのやいのと騒ぐのは若さ故か、なんて対して歳も変わらないはずの彼らを見ながら思っていれば目を閉じたままのゾロ屋が痺れを切らして声を荒らげる。
「おい、おい!トラ男!」
「ん?あ?」
「戻せ!」
ぎゅぅとこれでもかという程に眉間に力を入れたまま顔だけをおれへと向ける。鼻屋もひとしきり面白がって満足したらしいし、確かにこれ以上恐ろしい顔をしたニコ屋を見るのも、お淑やかな仕草をするゾロ屋を見ているのも複雑な気持ちになるだけでしかない。言いなりになるのも、勝手な奴らに憤りが湧くのも事実ではあるが、無駄に続ける必要も無いからとあっさりおれはニコ屋とゾロ屋を元に戻してやった。
一瞬だけの能力の展開、どくんっと心臓が跳ねた感覚を覚えただろう二人はきょとりとして、そして元に戻っているらしいことを確認すると、それぞれらしい反応を見せる。
力一杯腕を伸ばされていたから筋肉が緊張してしまっていたのだろう。そんな体に戻されたニコ屋は腕を擦りながら「少し痛いわ」と不満も露わにしていた。そしてゾロ屋は、閉じられていた脚を開いて組まれていた腕を解いて手をぎゅっと閉じては開いてを繰り返している。
「おれの体だな……」
「戻したからな」
「更に別のやつと入れ替えしていたら本気でぶん殴ってたぞ、おれは」
「んな無駄な事はしねぇよ」
「二度とすんな」
言い放つ男の声は、戯れに苦言を呈するには鋭利過ぎるほどに感じて思わず顔を凝視してしまう。睨み返される瞳は言葉同様に鋭く刃のようであり、一言二言言葉を返す事も身じろぐ事も躊躇させる緊張感をもたらした。
あまりにもゾロ屋が怒りを表すからだろう、事の発端である鼻屋が、おれが悪かったからと、しどろもどろに言葉を震わせて伝えていたが、男はなんの言葉を返すことも無く身を翻してその場から立ち去って行ってしまう。憤りは隠されずに足早に立ち去るその足音が聞こえなくなった頃、知らず知らず息を詰めていたらしくおれはそっと息を吐き出す。
ニコ屋が、ニコ屋の体でニコ屋らしく、ことりと首を傾げた。様子が変だ、と。
精神を入れ替えられたのだから、様子がおかしいと言うよりは怒りを露わにする、苛立ちを浮かべる、というのは当然の反応だろう。ニコ屋こそおかしな事を言うものだと思った。むしろお前が平然としすぎているだろうとも。だが、確かに、感情的すぎるとは感じたが、餓鬼なだけだろうと、その時はそう思い、その場からおれも立ち去った。
だが、その後少ししておれもゾロ屋の様子がどうにも「おかしい」事に気づくこととなった。
なにが、という訳では無い程に囁かで、毛先に何かが触れたかもしれないと感じる程度の違和感だ。気にする程でもなく、ともすれば違和感であると理解するより先に、直ぐに余所事に気を取られて忘れてしまう程度の、なんでもない事だった。
だがその違和感も積み重ねれば気になる。ゾロ屋が今までには見せなかった行動をしていると気づくには随分と時間がかかってしまったが、気づいてしまえば首を傾げざるを得ないものだった。
例えばニコ屋がただ通路を歩いている時、ゾロ屋は反対側から歩いて来て、すれ違って立ち去るはずだっただろうに、何故か一言二言話しては共に同じ道を歩き始めるだとか、段差のあるところではニコ屋の足元を注視しているだとか。後は、おれのクルーであるイッカクだ。イッカクは、ハッキリと言ってしまえば同盟には反対の意志を示している立場にある。その為か、同盟関係である現状に置いていえばあまり褒められたことでは無いが、麦わらの一味に対しては少々棘のある物言いや態度をしめしている。しかしゾロ屋は全くそんな事を気にする様子もなく、たまにイッカクの事を見ては、重い荷物を持っていそうならば手を貸したり、簡単な手伝いなんぞをするようになった。
自ら人と関わり合うような人間では、なかったとおれは認識している。それなのに仲間であるニコ屋ならばともかくも、イッカクにまで気を使うというのは随分と不思議な事であると、首を傾げてしまった。イッカク自身も気付く事であるのは当然であり、ある時「アイツ、取り入ろうとしてるとか、じゃないですよね」なんて恐る恐る聞いてくるほどだ。
咎める程に積極的であからさまな訳では無い。しつこい程でもない。極々自然に、何気なく行うものであるから特に苦言を呈する事も出来ない。そもそもゾロ屋がしているのは些細な手伝いであるのだから咎めるだのなんだの、出来るはずもなかった。
その内イッカクも気にならなくなり、なんならゾロ屋を都合よく使い始めてしまったのだからとうとう何も言えなくなってしまった。
気になるようになって、眺めていれば、手を貸すのが大体はニコ屋やイッカクである。女性へは意外にも紳士的なんだなと鼻白んでしまうが、元からそうだっただろうかと言う疑問が湧いてきたのは違和感や疑問が、ただの日常になり始めた頃だ。
ワノ国も近くなり始めた頃、必要な物資や情報を得る為に島へと降り立つ事となった。最後の島だ、ここを出たら後はワノ国へと一直線。もう立ち寄る事は無いと船員や侍共、麦わらの一味に伝えてタラップを島へと渡した。少しだけ肌寒く感じるのはこの島が冬島寄りの秋島であるからだろう。堪えるほどでは無いがあまり外に長居はしたくない気候であった。それでも誰もが特に気にもせずそれぞれ目的の為にタラップを伝って島へと降り立っていく。全員が降りるのを見届けてからおれも降りるつもりで流れていく頭を見ていた時だった。
ニコ屋がタラップの段差で少し、躓いた。あっ、と思ったのは反射のようなもので、それから少しだけ驚く。
「気ぃ付けろっ」
「ごめんなさい。ありがとう、ゾロ」
今ではもう「いつも通り」としか言えなくなった光景。ニコ屋の傍に居たゾロが、その細い腰に腕を回して抱き寄せて転びそうな所を助けていた。それだけの話だが、それだけだと済ますには、ゾロ屋の顔色が随分と悪い。
「ゾロ、寒い?」
「あ?」
「震えてるわ」
抱き寄せて、ニコ屋がちゃんと両の足でタラップを踏みしめたのを確認したゾロ屋は、一足先に地面へと降り立って片手をニコ屋へと差し出していた。まるで貴族の娘に手を貸す紳士かのように。その手が震えていると、手を借りながら降りたニコ屋が言ったのだ。
青白い顔色に、震える手。体調が悪いのかと思いもするその様子に、違うと、おれは頭の隅で否定する。
「あー、ちょっとな……情けねぇな、こんくれぇで」
酷く面倒くさそうにそう返して、ニコ屋から手を離したゾロ屋はその手で頭を掻いた。その為に表情は見えなくなってしまったが、直感的にそれは誤魔化す為の仕草であると、感じた。
寒いから震えているのでは無いと。何かもっと別の要因があるのだろう、と。
なにが震える原因となっているのだろうか、気になり見つめていたのが悪いのだろう。視線に気付いたゾロ屋が振り返り訝しむような視線を投げて寄越してきた。なにか、と言いたげな眼差しに、なにか、という言葉が見つからないおれは首を横に振る。ゾロ屋は更に首を傾げていたが鼻屋に声をかけられるとあっさりと共に立ち去っていってしまった。ただ違和感と、疑問だけを残して。
ワノ国まで近い。だから、体調が悪いなら、なにか気がかりがあるのなら、取り除いておかねば支障が出るかもしれない。
そんな言い訳にもならない理由を付けておれはゾロ屋を探した。と言ってもあいつが行きそうな場所は大体検討が着く。仲間の誰かに連れてきてもらったのだろう、案の定あの男は酒場でカウンターに座り酒を傾けていた。他に仲間は見当たらず、ひとりでいる所を見ると他の奴らは各々目的の場所へと向かったのだろう。都合がいいと、コクリコクリと酒を飲むゾロ屋の隣へと腰掛けた。
「おー、トラ男。お前、用事は?」
「すぐ済むようなものだ。少し飲んでからでも構いやしねぇ」
「んじゃ、一緒に飲もうぜ」
寒いからか酒が美味い。なんて、一体なんの理屈なのかと呆れてしまう事を言いながら酒を追加で注文する男。その顔色は平素のものであり、グラスを持つ手も震えてはいない。
目の前に置かれた酒を口へと運びながら、チラリと見た限りではいつも通りのゾロ屋である。酒で湿らせて滑りの良くした唇を開き、一呼吸だけ置いておれは話を切り出した。
「……ニコ屋は」
「ロビン?」
「一緒じゃねぇのか」
「ああ?今はフランキーと居るだろうよ、本屋だか、街を歩いて聞き耳を立てるだとか、なんかどっかの諜報部員みてぇなこと言ってたが、なんでてめぇが気にする」
「してねぇ。むしろ、このところニコ屋を気にしてたのはお前だろう」
恐らくゾロ屋は、自覚している。
ピクリとグラスを持つ手が震え、それから一気に酒を呷って流し込みまた酒を注文した。すぐに来た酒も飲んで、また注文。まるで、無理やり流し込むような姿には呆気にとられ、呆然と見てしまう。酒を飲む間のゾロ屋は一言も言葉を返さずに、ただ沈黙の中にグラスの中で転がる氷の音と、賑やかな店内の声や音だけが響いた。
また、酒を流し込み飲み干して注文。やってきた酒を飲もうとした手を思わず掴んで止めた。
「おいっ、んな飲み方してんじゃねぇよ、体に悪い」
「うるせぇな」
低くざらついた声は初めて聞く。不愉快で不機嫌で、感情の制御を心得ていたはずの男から聞こえるはずの無い声だ。つまりは、あまりにも感情的な声。
「お前……」
「別に、気にしちゃいねぇよ、別に、普通に、してたろ」
「……」
これは、あまり、宜しくない。
「普通だ。普通。気にしてねぇ」
あまり宜しくない、酔い方をしている。
ゾロ屋が類まれなる酒豪である事はもう、知っている。酩酊状態になってもおかしくない程に飲もうがあっけからんとしている姿はパンクハザードからドレスローザ、ゾウ、そして船内でも目撃しては呆れてものも言えないと何度も思ったことだ。だから、コイツは酒に滅法強いのだと、そう思っていた。だと言うのに今隣で酒を飲む男は、恐らく酒に踊らされている。それも、それはあまりにも酷い酔い方で、だ。
「ゾロ屋……お前、様子がおかしいぞ」
「どこがだよ、ええ?そう言えるほどにおれの事を知っていたか、驚きだなこりゃ」
敵意もないのに、毒のある言葉を吐くほど愚かな男では無い。自制心の崩壊。随分と、精神が不安定である証拠だ。
そうだ、と納得する。飲酒は時に精神状態によりその酔い方にも影響が現れることがある。ストレス発散で酒を飲むようなタイプは、実際は酒を飲んでも気が晴れないことが多い。楽しんで飲む方がよっぽどスッキリとするくらいだ。だから今のゾロ屋は、ストレスを抱えていると言ってもいい。いつもよりも無理な飲み方をして、アルコールで頭の回転を鈍くさせているその原因。それはニコ屋だろう。
正確には、あの時からだ。ニコ屋と精神を入れ替えた時からだ。
「……知っているのは、極僅かだ」
ふんっと、鼻を鳴らして男は酒を口に運ぶ。変わらないペースはやはり無理なもので、味なんぞ最早どうでもいいのだろう。
そしてまた、注文をした。店員が迷惑そうにしているのも気にもせずに酒へと手を伸ばす。
「だがそんな飲み方はして来なかっただろう」
「いつも通りだ、いつも通り」
「ゾロ屋」
卑怯な言葉になるだろうが、一度手を止めてもらう為には仕方ない。
グッと息を飲んで、酒で再び唇を湿らせ、口を開く。
「何かを抱え込んだままで、カイドウと戦うのか。随分、自分の力を過信しているな」
「ァア?」
「酒に逃げるようではこの先が思いやられると言っている」
言い終わるか終わらないか。そのタイミングで男はテーブルに叩きつけるようにしてグラスを置いた。傍に居た客や、店員が再び迷惑そうな顔をしていたがそれもすぐに喧騒の中へと消える。ギロリと睨みつけてくる男は、そもそもそんな視線も気にしてはいないだろう。
「誰が、逃げているだと?」
「テメェだ海賊狩り」
テーブルに置かれたグラスを見て、それから男を見る。
「おれが、お前とニコ屋を入れ替えてから、少し変だ……原因がおれなら、訳を聞く義務と責任がある」
「……」
ゾロ屋は、自覚している。自分の行動にも、その理由にも。
気まずそうに視線を一度斜め下へと向けてから、酒を口に運ぶ素振りをして、おれの発言を気にしたのか結局はそのグラスに口をつけることは無かった。
「……お前は、原因じゃない」
おれの問題だ。
ため息というには微かな吐息。それと共に吐き出された言葉には毒は無く、かと言ってこの男らしい声という訳では無い。か細い声は、この男のどこにそんな儚さがあったのかと驚かされる程だ。強く逞しく、一人で生きて行ってしまいそうな男であるとばかり思っていたのに。
か細い声にはその肩に手を触れさせたくなる弱さを感じた。その衝動のままに行動をしてしまえば、男の矜恃を傷付けるだけでしかないだろうが、そう、見えてしまった。あの男が、だ。海賊狩り、魔獣、恐ろしい異名を体現するが如く体も精神力も群を抜いて強い男が、今この瞬間は儚く見える。
そうなるほどの何かがこの男にあるという事か、そして、おれは原因では無いと言うが間違いなく、この姿を引き摺りだしてしまったのは、おれだ。
「おれの、おれの問題だ。落とし込んで、抱えて、生きていけると、思っていた」
「ゾロ屋……」
「見くびってるつもりはねぇ、軽く見積るつもりもねぇんだ。ロビンは強い……強い、女だ」
それでもと言うゾロ屋の手は、僅かに震える。なにかに怯えるように。
「ッ……」
ポツリと呟かれたニコ屋では無い女の名前。ゾロ屋がおれは原因ではないと言うのならば、その理由はその女だろう。
強い女であると言いつつも、なにかを感じたのかもしれない。何かを思い出してしまったのかもしれない。何かを思ったのかもしれない。それが何かはわからない、おれはこの男の事を極僅かにしか知らないのだから。
ニコ屋の体になってしまって、女の体に入り込んでしまって何を思ったのか、分からないがそれはおれが安易に触れてはいけない領域なのだろう。
俯き酒を睨む男の、その顔を見ながらそう思うしか出来なかった。
powered by 小説執筆ツール「arei」