水まんじゅう


外のセミはミーンミーンと鳴いていて、この夏の暑さが永遠に続くような気がしていた。
回る扇風機は温いばかりの空気をかき回すだけで、ほとんど役に立ってはいない。
昨日の夜遅くまで酒を飲んでいた師匠が、二日酔いの顔で、オレちょっと二度寝するわと言うて部屋に引っ込んでしまってからはずっと音沙汰がない。
内弟子修行を開始してから段々と分かって来たのだが、師匠はおかみさんが朝から出掛けてしまうと決まっている今日のような日は、明らかにすべてを手抜きする日と決めて掛かっているようだった。
ご飯が出来ましたと知らせると、返事がいびきで返って来る。
昼の素麵を食べてる間も、起きて来る気配がない。
前日、飲み過ぎて帰って来た時から既に予感していたが、今日の予定が夕飯の買い物までぽっかりと空いてしまったことはこれで明白だった。
後は稽古場で一人稽古のおさらいをするか、あるいは、夜に稽古を付けて貰う予定にして、それまでは僕も寝てしまうか。
読みさしの本もあるにしても、今続きを読んだところで頭に入って来るとは思えなかった。かつて勤めていた商社にはもう未練はないが、一般職の女たちがクーラー病になりそうだとぼやくほどに冷房が入っていたところだけは悪くはなかった。
そんなことをつらつらと考えていると、ただいまあ、と玄関からおかみさんの声が聞こえて来た。


朝に水を入れて掃除した玄関は、今の時間はすっかり乾いている。
「おかえりなさい。早かったですね。」と声を掛けると、おかみさんが顔を上げてそうなんよ、と言った。
普段は見ないカーディガンとスカートのよそ行きを着ているその姿は、普段と同じように髪を纏めてはいるが、まるで違う雰囲気だ。
「みんなで中之島公園でも散歩して、それから解散しよか、て流れで、こらタイミングええわ、と思って一人だけ早引けさしてもろたんよ。いつもの草履と違うのを履いてたから、もう足が痛くて痛くて。去年まではこんなことなかったような気がするのやけど。」
気の置けない人たちと食事をしてくると聞いていた。昨日の時点では、帰りは夕方になるという話だったが、早まったのはそういう訳か。
玄関のところで延ばした足を労わるように擦っている。
ストッキングを履いて、化繊のスカートをはいたままでこんな暑いところにいるよりは、さっさと部屋着に着替えた方が涼しいに決まっているが、そうは出来ないくらいに疲れているらしい。
手を貸しましょうか、と言うと、「ごめんなあ、シノブ。お願いするわ。」と言われたので杖の代わりに体重を預けて貰った。
普段は薄化粧に見えるが、今日は気合が違っているのか、眉毛が普段より太くなっている。
「小さい頃から帯に着物やったのもあるけど、いつもの和服の方がまだ楽やと思うことがあるなんてなあ。パンプス止めて、草履で行ったら、なんぼなんでも足元だけ浮いてまうし。」
立ち上がったおかみさんはそんな風に言って笑っている。
「出掛ける時も、いつもの和服でいいのと違いますか?」
見慣れた和装のよそ行きの方が、色は地味でも逆に華やいで見える。
「午後から雨になるて言うてたからなあ。裾に泥跳ね付いたら大変や。こないして、途中で切り上げるつもりやったらそないしてた方が良かったかもね。」
「雨ですか?」
「今は晴れてるけど、外行ったら分かるわ。西の方から空が暗ぁなって来てる。」
そういえば、今朝はおかみさんのお出かけと師匠の朝寝もあって、いつもの時間にテレビを付けてなかったから天気予報も見てなかった。
「洗濯物、早めに取り込んでおきます。」
「それがええわ。私も手伝うし。そんで今、師匠は、どうしてはる?」
「まだ寝てますね。」と僕が言って襖の奥を指さすと、おかみさんは、やっぱり、という顔になった。
「冷やした麦茶入れますね。飲んで一服してから着替えてください。」
「そんなん自分でやるからええよ。」
「僕が暇なんです。」
ええ、何よそれ、と笑ったおかみさんが、真面目な顔になった。
「そういえば、シノブ、あんた今日は普段着のままやね。」
僕が昼になっても浴衣に着替えてないことに気付いて、おかみさんはそう言った。
「何しろ、おかみさんが出掛けた後からずっと寝てますから。」と言って師匠の部屋を指さした。
「しようのない大石内蔵助やねえ。お稽古出来へんやないの。」
「この暑い時期に大石内蔵助ですか? 今は内蔵助よりお岩さんの時期やと思いますけど。」
そもそも、赤穂浪士の討ち入りは歌舞伎や浄瑠璃の演目だ。
「確かにシノブの言う通りやわ。まあ落語で忠臣蔵て言うのも、ないわけと違うけど、古典と違うからあんまり聞かんもんねえ。」
台所に行って冷蔵庫から麦茶を取り出していると、おかみさんがそんな風に返事をした。
「なんやお昼に、友達のひとりが去年の十二月の顔見世興行のチケット取れへんかった、て話をしてたとこで、それが頭のどっかに残ってたみたい気ぃがするわ。」
顔見世……。
「歌舞伎ですか?」
商社にいた頃は、取引先から、上司宛に渡すようにと、何枚か桟敷席と言われる場所のチケットを預かったことがあった。
「そう。初日は電話で予約できるみたいやけど、どの席がええか選べへんからて、用事のついでに会場まで買いに行ったら、こんな席で見るくらいなら今年はええわ、てなったんやて。今時、旅行会社やらインターネットやらにようけ席取られてるみたい。」
世間では袖の下に使われてるくらいですから、と言おうとしたけれど止めておいた。
どうぞ、と麦茶を出したら、「はい、これ。お皿と楊枝もお願い。」と言われて小さな紙袋を渡された。折り返したところに、いつもの和菓子屋のシールが貼ってある。
「師匠は後で起きた時にあげたらええと思うわ。」
中には、保冷剤と、小さな水まんじゅうが三つ入っていた。
二度寝の師匠を起こして不機嫌になられるより、先に食べてしまったと言って拗ねられる方が対応がラクらしいな、とおかみさんの経験則を頭に入れながら、水まんじゅう二つを小さな皿の上にそれぞれ乗せてフォークを出した。
「さっきの話、ほんまに行きたいなら、今年は発売日に予約するか、諦めて当日券にしてもええんと違いますか? 平日ならいい席残ってそうですけど。」
「平日は残業があるから、そうもいかんのやて。」
へえ、と思った。おかみさんのような年の女で、退社もせずに勤めを続けている人がいるというのは珍しいことだった。寿退社とはものはいいようで、勤めていると結婚すると人事に言った途端に、辞めさせるような空気が周りに漂って来るというのは、大学時代に付き合っていた年上の女から聞いていた。
「おかみさんのお友達って、キャリアウーマンなんですか?」
「本人はOLて呼んで欲しいて言うてるけどね。」
相手は親しい人なのだろう。
その言い方に、ふっと笑いがこみあげて来た。
水まんじゅうを食べながら、テレビを付けようかどうしようかと思っていたら「なあシノブ、今日はひとりでもお稽古したらどう?」と先に言われてしまった。
「おかみさんに下座お願いするような話、僕はまだ覚えていませんから。」
「言うわねえ。まあシノブは、仕草も堂に入ってるし。ちゃんと部屋に戻ってもお稽古してるんやなあ、てふたりで感心してるんよ。」
「師匠もですか?」
「そらもう、そうよ。オレの弟子志望にしては、出来のええのが来たなあ、て喜んでるし。」
師匠からそんな風に褒められたことなど、一度もない。
おかみさんは水まんじゅうをひとくち食べて、美味しい、という顔になったので、僕も口を付けた。中にこし餡が入っていて、いつものように冷やっこいけど、味が分からない。
「出来のええの、て。師匠には草々兄さんがいるやないですか。」
ボンクラそうな兄弟子たち三人の中で、それでも落語では敵わないと思わせられる男の名前を挙げた。家事を終えたら稽古を見て貰える日が増えて来たが、師匠が手放しで褒めるとしたら、あの二番弟子の他にはありえないことらしい、とは段々分かって来た。
「草々は、……色々あってねえ、師匠が弟子になってくれ、て言うて頼んで弟子になってもろた子なんよ。」
「師匠から?」
「そば付きの落語会で、」
「そばつき、て何ですか?」
初めて聞くが、業界用語だろうか。
「そばはそば。お蕎麦の蕎麦よ。要は食事付きの落語会やけど、うどん付の落語会てあんまり聞かないわね」と話をしながらも、合間に水まんじゅうがおかみさんの口の中に入っていく。お昼にあまり食べられなかったのかもしれない。
「お蕎麦の後で飲むことはあるけど、うどんの後にはあんまり飲んだりはせんから、そういうことかも知れへんけど。」
なるほど。
「それでね、学生服の子どもやった草々に何度か待ち伏せされてて、すっかり弟子志願やと思って断ろうと思った時に、それが師匠の勘違いやて分かってね。落語させてみたら上手で、物覚えも良い子やったから、コイツは弟子になるつもりあらへんのか、と気付いた途端に、そのまま別れてしまうのが惜しくなったんやて。それでなあ、」とそこまで言って、チラッと二人で使ってる部屋に目をやった。
(起きてきませんね、師匠……。)
(そうやねえ。この話したら、流石にツッコミ入れてくれると思ったんやけど……。)
「なあシノブ、あの冷蔵庫にしまってしもた、もう一個あるやろ。あれわたしが食べてええかなあ。」
「……それでいいと思います。」
僕はその場で立ち上がって台所に行き、冷蔵庫からさっきの小さな袋を取り出して座敷に戻っていく。和菓子屋のプラスチック容器から、小さな平たい形の和菓子屋の楊枝を使って、今食べているおかみさんのお皿に水まんじゅうを移す。
「証拠隠滅なら任せてください。」
「流石やね、算段の平兵衛に憧れてる男は違うわ。」
「ありがとうございます。」と言って頷く。
「これ食べたら、後で渋いお茶が怖くなるかも知れへんなあ。お願いね、シノブ。」
そう言って、おかみさんはまんじゅうの山を目の前にした男のように、楽しそうに微笑んでいる。

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