書きかけ(アムシャ)

「おはよう、アムロ。早いな」
「あ、あぁ……そうかな。おはよう……」
 朝。
 夢の中で、不可抗力で、それでいて滾るような殺意を向けた相手が、目の前でにこやかに挨拶をしている。
(生きている……)
 ホッとした。
 清廉な碧い眼が、昨晩の殺意を見抜いているような気さえする。それでもいいと思った。生きてさえいればあとはどうだってなる。

 ああ……殺さなくてよかった。

 まさか自分が現実と夢を混同するような人間だとは思っていないが、それでも恐かった。
 シャアが動いて、話して、微笑んでいるのが今のアムロには何よりの救いだった。
(……今さらこの人がいない生活をするのは、想像すらできないな)
 7年とは、考えるよりずっと長い期間だ。
「シャア……手、出して」
「え?手?」 
「右でも左でもいい」
「構わないが……変わった要求をする」
 笑って差し出された左の手のひらを、両の手で強く握る。肌を伝わる、分厚くて温かい……生きている人間の皮膚、巡る血、若干高い体温、その全てが嬉しい。
「熱いな……ハハハ」
「これでも平熱だがね」
 しばらく握ったまま、沈黙が続いた。親指の付け根から手首を辿り、脈拍を確かめたりもした。

 そうして気が付いたときには、白い手首に走る青い血管を見つめていた。いつの間にか目が吸い寄せられていたのだ。
(動いているこれを今止められたら、どんなだろう。それで俺の人生はケリをつけられたと言えるのだろうか)
 親指の下で確かに脈が打っている。
 今、アムロの目の前で、シャアの体から血が吹き出るイメージが脳裏をよぎった。白々した肌と赤い血のコントラストはきっと、以前シャアが食べさせてくれた“アンニンドウフ”を連想させるのだろう。
 ──僕はこんなにシャアと静かに暮らしていたいのに、同時に同じくらい強く殺したいと思っている……?
 排除したいとか、知らずに秘めている加害欲が発展した末だとか、そういった願望が由来したものでないのは何となくわかっている。持て余している気もしないし、むしろあるべきものがあるところに収まっているような気さえある。
 起きたとき、鼓動がひどくうるさかった。生きているあなたを見たとき、僕は心底安心して腰が抜けそうなほどだった。
 それなら、この欲求はなんなのだろう……。


 シャアは、手を握ったまますっかり黙り込んでしまったアムロが心配になった。
 昨日、足を少し伸ばした先にある場所で古本市場を開催すると張り紙を見たので、今日は2人でそこに行く予定を立てている。
 昨晩に『明日は早いのだからな。さっさと寝たまえ』とせっついたとはいえ、市場自体は昼前から始まって日が落ちるよりやや早く終わるので時間的余裕はある。アムロは昼過ぎに起きてくることもままあるので、それを見越した忠告をすることはたまにあった。
(血圧が低くて、ぼんやりしているのかもしれない。そういえば夜に、私の部屋に来ていたな。不眠症のたぐいなのだろうか……)
 気をどこかにやっているようなアムロの目を見て、シャアはそう思った。
 深夜、アムロが寝ているシャアの部屋にやってきたことはよく覚えている。この長い同居生活で初めてあったことだからだ。
 目が覚めたあと声をかけるより早くアムロが出て行ってしまったので、結局声はかけずじまいであったし、表情も暗がりに邪魔されてよくわからなかった。
 そう手繰るのに苦労しない記憶を思い返しながらシャアは、そろそろアムロに朝食を食べさせなければならないことにふと思い至った。視界の端にラップフィルムを被せた皿が映り、佇む姿に呼びかける。
「……アムロ?」
「…………」
「アムロ!」
「……あ……シャ……シャア?」
 ハッとアムロの瞳の焦点が戻ってくる。
 恐る恐るといった様子でシャアの顔を上目遣いに見て、手元を見て、焦ったように手首を離した。
「へ、変なことして、悪かったよ……うん、体温も普通だし、元気で何よりさ」
 取り繕ったふうでも、実年齢より低く見積もられがちな顔がはにかんでいるのはいたいけに見える。シャアも釣られて微笑んだ。
「健康診断か。気にかけてくれるのは嬉しいがね」
「まあ、ちょっとね……」
 
「……しかし、私は君の体のほうが気になるな。最近不眠気味だったりしないかい?」
 シャアは、アムロの奇行は昨夜よりも前から始まっていたものなのかもしれないと考え始めていた。いつもは寝入っていたから気が付いていなかっただけであって、本当は、以前より睡眠の質に問題を抱えていたのかもしれない。
 しかし、言葉で答えられるより先にアムロの顔から笑顔がなくなり、大きい目が見開かれる。これはシャアにとっては予想外の反応だった。
「え……?ど、どうして?」
「なぜって……」
 シャアはその表情を見て、理由を言っていいのかわからなくなった。まるで露呈しないと信じていた悪事を咎められたときのような子供の顔をするのに、声には殺人容疑をかけられている大人のような焦りが見えたためだ。
(私が再三、夜ふかしはいけないと言っているのがやっと響いてきたのか?)
 まさかそんなはずはない。アムロはこれで頑ななところがあるので、いくら同居人に指摘されたとはいえ簡単に生活ルーティンを変えたりはしないだろう。
 ともあれ、アムロにとっては触れられたくないことのようだ、とシャアは悟った。それと同時に、やはり触れられたくなくとも、健康面に支障が出そうならばその頑固さもときには無視しなければならない、とも思った。
「……昨夜、私の部屋に来ただろう?君は覚えてないようだが、いや……だからこそ心配だ」
 
 アムロの体が後ずさった。

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