コーヒー牛乳



英語の小テストが満点だった。
教員が風邪を引いて副教科の授業が自習になった。
購買でカレーパンが買えた。
和久井譲介、十六歳。
人生で立て続けに良いことがあると、妙な胸騒ぎを覚える子どもだった。
あさひ学園で暮らしていた時も、こういう日は大抵何かがあった。思えば、カレーの火の通りが甘くて食あたりが出てトイレが渋滞になったのも、学校から戻った途端に寝小便をした幼児の布団の取り込みを手伝わされたことも、仲の良かった子が父親の実家に引き取られていったのも、こんな日だった。
今日の運は使い果たした。
そう思ってぐずぐずと近くのコンビニで時間を潰して、ドクターTETSUと暮らす家に戻ると、玄関には出張に出ているはずの家主のブーツがあった。
悪い予感は当たるのかもしれない。今日こそ、この家から出て行けと追い出されるのだろうか。まあ流石に昨日の今日というようなスピードであさひ学園に出戻ることはないだろうとは思うけれど、のっぴきならぬ事情であの人が明日から緊急入院することになっただとか、報酬の振込み用口座――などというものを、過去のいつかの時点で親に貰った名を捨てたはずの人が持っているかどうかも怪しいが――がハッキングされて文無しになったと言われても、譲介は驚かないつもりだった。
人生は複雑な織物のようで、どんな色の糸が来ても毎日織り続けるしかない。
あの施設を出ていった、もう顔も忘れた誰かが言った言葉は確かにその通りで、譲介はだから、ドクターTETSUが人生にもたらした新しい糸を掴んでこうしてここにいる。
ふう、と息を吐いてリビングに足を踏み入れる。
「ただいま帰りました。」と言うと、いつものようにリビングのソファの背もたれに身体を預けて座っていたTETSUは、こちらを向いた。
「帰ったか。」という彼の声に「はい。」と譲介は頷く。
恐らくシャワーを浴びた後なのだろう、前髪はすっかりいつものように乾いてはいるが、TETSUは首回りにタオルを巻いている。それ以上は何も言われなかったので、譲介はほっとした。
胸を撫でおろす自分と、きっと外食はないな、と頭の片隅でこれまでの短い彼との暮らしの中のいつものルーティンを考える自分がいる。
キッチンスペースの棚にはレンジで温めるだけのパックの白米とカレーはあるが、何か彼のために別のものを作った方がいいだろう。
あとは、そう。この生活感のない部屋では、家族ではないこの人と一緒に夕食を食べる心構えというものが譲介には必要だった。
食事を終えれば、薬剤の点滴。点滴をしながら、彼に勉強の進み具合を報告する。
そうした、この奇妙な共同生活の生活におけるいくつかの決まり事を終えれば、その後は、自由時間だ。
食事を終えるまでは、今日の満点だった小テストは彼に見せずにおいても構わないだろうか。
そんなことを考えながら、リュックを下ろして制服のジャケットを脱いだ。
手を洗って着替えをして、それから勉強となると中途半端になる。
先に夕飯だな、と寝るまでの流れを考えながら部屋に戻しておくつもりでリュックを持ち上げると、「部屋から着替えを持って来い。」とTETSUが言った。
「……え?」
血の気が引いた。
譲介は驚き、リュックから手を放して足の甲に落としてしまった。どさ、と音がする。
「……痛っ、つ。」
落ち着け。まだ荷物をまとめろ、とは言われていない。
「何ぁにしてんだ?」
「いえ、あの、」
譲介は顔を上げて、TETSUに向かってゆっくりと微笑みかける。「どういうことか説明していただけますか?」
「どういうことっつって言われてもな、風呂の湯が出ねえ。」
「ああ、ボイラー……じゃねえな、この部屋は全部ガスの給湯だ。断水じゃねえから、飲み水に困ることはねぇが、業者が来るのは明日の朝だ。」
「給湯器?」
「そういうこった。今日は勉強は止めとけ。」と言って、譲介の身元引受人は大きく伸びをした。
「風呂場に行って、必要なもんは取って来い、石鹸とタオル。垢すりが必要なら出先で買やぁいい。」
石鹸とタオル、という明快なヒントを得た譲介は、TETSUのいうところの『着替え』が、譲介がここに持ち込んだ荷物の大半である衣類を指しているわけではないらしいということに気付いて胸を撫でおろす。
「あの、今日これからだと点滴は?」
「どうにかなる。今の時間から移動すりゃ、まあ戻って来るのが、いいとこ十時だな。」
「何のことですか?」と譲介が言うと、TETSUは、答えは分かっているはずだろう、と言わんばかりの口元に笑みを浮かべた。
「鈍いヤツだな、おめぇは。」とTETSUは言って、立ち上がった。
「石鹸とタオルと着替えを持って行く場所なんざ一つしかねぇだろうが。」
銭湯だよ銭湯、と。男は鼻歌でも歌いそうな声で言った。


譲介がリュックに明日使う教科書を一通り詰めてから、いつものパーカーと綿パンに着替え、下着や靴下といった『荷物をまとめて』から戻って来ると、TETSUは白いコートを羽織り、手術室の鍵を掛けているところだった。
「まぁたそんなくたびれたパーカーなんか着てんのか。他に何かねぇのか?」
ちなみに、その『くたびれたパーカー』というのは、着丈が足りなくなって来た昔の服を捨てようとしない譲介に、TETSUが適当に買ってきてくれたうちの一枚で、そもそもまだくたびれてもいない。
赤、ネイビー、薄緑。
ネイビーの方が、食事時にカレーが跳ねても目立たないのは分かっているけれど、譲介は薄緑を選んだ。
「これが楽なので。」と譲介は微笑み、ついでに洗面所から適当に取って来た彼のトランクスと石鹸、タオル三本とを入れた袋を、どうぞ、と彼に差し出す。
準備がいい、と褒められはしないだろうと思っていたが、TETSUは妙な顔をした。
まさかこの人、僕には着替えを持ってこいとか言って置いて、自分は下着をそのまま履いてくるつもりだったんじゃないだろうな。
それが絶対にないとは言い切れないのが、この人との年代差の怖いところだ。
何しろ、風呂上がりの気分によっては、どこでそんな歌を覚えて来たのかというような演歌調の鼻歌を歌っているくらいだ。
長崎、横浜、神戸。旅烏のように街の名の付いた歌をうたう。若い頃にアメリカからヨーロッパ、世界各地を回っていたと言うならば、普通は、洒落た歌のひとつの持ち合わせくらいあってもいいのではないだろうか。ボサノバとか。
まあ、そんな話をしたところで譲介自身がそうした音楽のジャンルに造詣がないことがバレるだけだろう。こんなくだらないことをつらつら考えても仕方ない。所謂ジェネレーションギャップというやつだ。あるいは、趣味の問題。
「リビングの電気、消していきますか?」と譲介が尋ねると、「そのままでいいだろ。」と返事が返って来る。
そういえば、夕食を食べるのに近間に外出するときなどは、こんな風に鍵を掛けることもなかった。そういえば、さっきは十時、と言っていたが、つまり早くて夜十時の帰宅ということなのだろうか。
「……もしかして、遠出になります?」
譲介は、スマートフォンでメールを入れている様子のTETSUに探りを入れる。
「遠出というには大袈裟じゃねえか。だが、まあ、……そうだな。この辺の銭湯じゃ、いくら何でも人が多すぎる。おめぇのここんとこの傷も、こいつも、好きに人目に晒すには目立ちすぎんだろ。」
TETSUはそう言って譲介の心臓のある辺りをトントンと指さした後、自分の横腹の、ポートの埋まった部分を撫でた。
夏場にはかれこれ何度か見たこともあるが、ドクターTETSUは、五十代と言う年齢にしては、人の羨む引き締まった体つきをしている。ただ無機質の物体が埋まったその部分だけが、不格好に膨れているのだった。
その凹凸は外からは見えづらいが、町の住人が集う銭湯では、人が多ければ多いほど目を引くだろう。
何かを言うべきかと譲介が考えていると、こちらの心配をよそに、「まァ楽しみにしてろ、秘湯のかけ流しってやつだ。」と言って、TETSUは譲介の前髪をかき回してニヤッと笑う。
それってただの温泉じゃないですか、と言うツッコミを譲介は飲み込んで、じゃあ行きましょうか、と言った。


長いドライブにはならなかった。
ドクターTETSUが言うところの「かけ流し」のある銭湯は、環状線を走った先の、とある丘の上にあった。
譲介が、同居を始めるなり持たされたスマートフォンで連れて来られた場所の近くを探すと、湯治のための宿泊所を併設した露天風呂があり、外来の客には銭湯と同等の値段で良い泉質の温泉を提供している、とその「ホテル」のホームページに書かれていた。
湯治の宿泊所というには確かにやや近代化しすぎているコンクリート造りの建物の写真も貼ってある。
ハマーも悠々停められる広々とした駐車場を見て、狭い駐車場で車の後ろを擦ることの多かったこれまでの車移動を思い出すと、ああなるほど、と思う。それにしても。
「ここが『銭湯』……ですか?」という譲介の言葉に、TETSUは「似たようなもんだ、」と笑い「思春期のマセガキに気を遣ってやったんじゃねえか。」と言って、荷物を抱えた譲介の額を指で弾いた。
駐車場から石畳を歩くと、玄関が見えて来た。
正面の自動ドアの真横には、歓迎、なんとか御一行様と書かれたスペースがあり、個人名が二組。真田の名前はない。
玄関を入るとまず、奥行きのある広いロビーと、すぐ横のフロントが目に入る。職員不在のフロントで、譲介がパンフレットやコイントレーの置かれた台にあるベルを鳴らそうとする前に、お待ちしておりました、とスーツを着た支配人めいた年頃の男が部屋の奥から出て来た。
「風呂に入りに来た。」というTETSUの横で、譲介はその年配の従業員にぺこりと頭を下げた。
「オーナーから伺っております。どうぞ。」と男が微笑む。
お子様ですか、の言葉も、含みのある愛想笑いもない。彼に付いて知っている人間なのだろう、という気がする。
「ホテルの所有者と知り合いなんですか。」と小声でTETSUに聞いた。
「……手術したのは、先代だ。跡を継いだガキはその頃他所に行ってたから、オレは面識もねぇよ。」とTETSUは答える。
行くぞ、と一言。
勝手知ったる人の家と言う調子で、大浴場はこちらと書かれた標識も見ずに、奥へ奥へと歩いて行くTETSUの背中に譲介は付いていった。
カラオケが歌えるスナック、と書かれた静かで暗いブース、自販機のある明るい一角、小さな卓球台と椅子が並んだスペース。
今では前時代の遺物になってしまったような光景を譲介は通り過ぎる。
経営が傾きかけている、というのではないだろうけれど、平日の夕食時とあってか廊下にも人がいない。フロント近くに設けられた土産物の販売をする辺りも、レジにすら人がいなくて、閑散としていた。
「年度末や桜の時期に来りゃ、それなりに人が入ってるんだがな、今の時期はこんなもんだ。」と彼は独り言のように呟く。
「広いですね。」
「昼間来りゃ分かるが、建物より外の方が広い。」
お前がもっと小さけりゃ、外のアスレチック場で暗くなるまで遊ばせてやるところだ、とTETSUは笑っている。
譲介は、もっと小さな頃の自分が引き取られていたらどうだっただろう、と無益な想像を働かせてから、そうであればこの人は僕を選ぶことはなかっただろう、という結論に達してその考えを頭から消すことにした。
とうとう着いた大浴場は、男湯と女湯に別れていた。
……大浴場か。
イモ洗い式の銭湯ならともかく、人のいない風呂でこの人とほぼふたりで?
何を話すというのか、この人の前で裸になるのか。
ここに至って、頭を占めた考えに、譲介は目が白黒するような思いだった。
靴脱ぎでさっさとブーツを脱いで、TETSUは中に入って行く。譲介も、スニーカーを脱いで脱衣所のスペースに入った。
「あの、」
やっぱりフロントで待っています、という一言を切り出す前に、TETSUはいつものTシャツを脱ぎ、ズボンをパンツごと下ろして靴下を脱いだ。丸裸になるまでに三秒と掛からない。尻を丸出しにして脱いだものを丸め、「先行くぞ、見ねえでおいてやるからさっさと来い。」と譲介の目の前で股間にある一物をぶらつかせながら、タオルを肩に掛けて中に入って行った。
「は、い。」
思わずまじまじと見てしまった背中も尻も、隆起した胸やへこんだ腹と似たようなもので、とても胃がんを患っているとは思えない様子だ。
引き戸を開けて中に入って行くTETSUの様子に、譲介は顔に手を当ててはあ、と息を吐いた。
――そういえば、こういう人だった。
デリカシーがあるようでないようで……初対面の子どもに死に水を取ってやるなど臆面もなく言えるような男にそんなものを期待しても無駄ということにやっと思い至った。譲介は逃げ場がないなと思いながら、脱ぐものを脱いで腰にタオルを巻いた。
湯船に浸かるときには取るしかない。我ながら往生際が悪いとは思うし、こんなもので守れるものはないのだけれど。
気が付けば、他にも浴衣が置いてある籠があって、先客が全くいないではない様だった。
これで、中に入ればふたりきりという気まずいロケーションは回避できたと言っていい。
譲介は大きく息を吐いて、タオルと石鹸を手に浴場の扉を開けた。


ゴウンゴウン、とうなるマッサージ機に身体を横たえて目を瞑っているドクターTETSUを見て、譲介は大きなため息を吐いた。
泡風呂にあれだけ長く浸かっていたら、そりゃあのぼせますよ、と口にしたいが難しい。
髪はすっかり乾いて、やはりいつもの通りになっているが、湯上りらしく少しへたってもいた。
こんな山まで譲介を連れて来たくせに、この人と来たら、手前のシャワーブースでさっさと洗髪して身体も洗ってしまい、またぶらぶらとさせながら腰から下に五秒ほど浸かって、ジェットバスと書かれた長い浴槽に身体を沈めたが最後、あーーーーーーというおっさんくさいため息を吐いてそのまま泡風呂の主になってしまった。大きな風呂なら思う様に脚を伸ばせるのに、少し窮屈なのか足先を組んで湯から出している様子は、コマーシャルの撮影でもしているのかと思うような様子で、酷く様になっていたけれど。ここに酒がありゃあな、と普段一滴も飲まないくせにそんなことを言って、譲介の決まり悪さを吹き飛ばしてしまった。
熱い湯に浸かって血圧が上下するのは身体に良くないとは分かっているくせに、年甲斐もなくはしゃいで。
マッサージ機の前のローテーブルにあるコーヒー牛乳の空き瓶とチョコモナカジャンボのパッケージを見て、ないな、と思った。
つまりは、高校生の保護者の適性としての「ないな」である。初めて出会ったとき以来、暴力を振るわれたことも、脅されたこともない。
けれど、ただ、「ないな」と思ってしまった。
この人って、割としょうがない人だな、と言う益体もない感想が頭の中を右から左に流れて行ったが、今は口に出さないで置こうと考える理性くらいはある。
「おめぇにも何か好きなもん買ってやろうか?」
ちらりとこちらを見上げて来る保護者は、まるで喫煙が見つかった高校生のような顔をしていて。
それより食事がいいです、と譲介は笑った。

powered by 小説執筆ツール「notes」

674 回読まれています