【名夏】ヤモプリ(ヤモリ🦎の王子様)


 そのヤモリは机の上をゆっくりと這っていた。
 本来ヤモリは素早くて、じっくり見ることすら叶わないような生き物だと思っていたが何故かそのヤモリは近づいても手を添えても、なかなか逃げずにそこに居てくれた。
「おれに用事か? なんて……」
 自分でも、そんなわけないとわかっていながらも言った言葉だった。なのにそのヤモリは、まるで肯定するようにその細い尾をふりふりと揺らして見せた。

 週明けに提出予定の課題をこなそうと思って机に向かった、その開いたノートの上をゆっくりと黒い影が滑る。
 小さくて細くて何かの影なのかと思ったがそれにしてははっきりとしており、自分の視覚的には立体に見える……その黒が本当にそこにいる生き物だということによく見直してやっと気が付いた。
 人差指の長さくらいの大きさで全身は暗い色、小刻みに動きはするがそれは逃げるためではなくてまるでこちらに問いかけるように向かって来て、視線が噛み合う。まるで本当に、意思を持ってこちらに向かって来ていると錯覚してしまうほどだった。
 広げたノートの上に移動して、まるでこちらを見据えている。
「……逃げなくていいのか?」
 思わず微笑みかけてしまう。
 このヤモリをすぐ本物のそれだと思わなかったのも、これを可愛いと思ってしまうのも明らかにあの人のせいだろう。だからそれもあって笑ってしまった。
 あまりにも意思疎通がとれそうなほどにこちらを見ていて、そこから逃げようともしないのでもしかすると妖の何かなのかと思ったが一向に話しかけてはこない。ここでまた吹き出してしまった。
 本来、ヤモリは喋らない。
「ごめん、話しかけてくれるのかと思って待っていたんだ」
 そうヤモリに声を掛けて、ノートから下りるように指で優しく突く。
 戸惑っているような動きをして見せたがすぐそこから下りてくれて、そのままどこかへ行ってしまうのかと思ったがノートの横からこちらを尚も見上げており逃げない。
「ヤモリは話すわけないのにな。麻痺してるのかも」
 これは独り言だった。
 分かっている、ヤモリに話しかけるのはおかしいことを。だが普段猫に話しかけているせいもあってか違和感があまりなかった。
「お前みたいな痣を、持っている友人がいるんだ。だからかお前のことが可愛く見えるよ」
 だからこうしてたくさん話しかけたいし、無理に追い払う気にもならなかった。

 ペンを握っても文字を書いても、そのヤモリは場所を移らない。
 あまりにも動かないので一瞬、生きているのか不安になり視線だけをノートから外してそっちを見たりしてみたが、そいつの視線はおれの書く文字に向かっており時折眼球がちり、と動いたり尻尾がふり、と動くしその腹が少し速いリズムで呼吸して膨らむのも見えた。おとなしいだけでちゃんと生きているようだ。
 まるで順番を待っているかのような。そんなわけないのに。
「おれに用事があって来たのかな。でも意思疎通が図れなくて。ごめん」
 一言断ってから頭を切り替えて自分の課題と向き合うことにした。

 しばらくペンを走らせて、そう長くはかからず課題が終わった。一時だが集中していてヤモリのことを忘れていたようだった。
 そいつはノートから降りて少し離れてはいるがそこにまだ張り付いてくれており逃げてはいなかった。
 課題が終わり伸びをしていると近づいてきて頭を上げている。やっぱり、まるでおれが終わるのを待っていたかのようだ。その態度が構ってもらいたい犬のようにも思えて健気にすら見えてくる。
「……可愛いな」
 指先をそっと向けるとそこに鼻先をちょんと触れる。可愛らしい。あまりにも望んだ反応が返ってくるので言葉が通じているような気すらしてきていた。
 ノートやペンを片付けていると机の上の立て掛けた本の横に身体を丸めるようにしてそのヤモリが小さくなり、それはどう見ても逃げる姿勢ではない。
「もしかして、ここで一晩越す気か。うちには猫がいるけど大丈夫かなあ」
 これを聞いて、もし理解できるなら逃げて欲しかったがそんなのヤモリに通用するはずがない。通用していても、怖いが。
 そうこうしている内に窓が勢いよく開け放たれる。
「帰ったぞ~」
「静かに帰って来い先生」
「む」
 小言を言ったおれに反論をするのかと思ったが、その視線は明らかにおれではないところに向いていた。
 気が付くと手の甲をぺたぺたと小さくて痒いような感触が這って、すぐ腕、肩と昇ってくる。目で追う。
 あのヤモリだった。
「なんだ夏目、そのヤモリは」
「食べるなよ先生」
「まるで名取の小僧みたいな」
 酔っぱらっているのだろうか先生は酒の匂いをチラつかせ千鳥足で自分の寝床に吸い込まれていく。
 名取さんの痣とは違って実態のある生物だから肌を滑っていくその感触を直に感じられており、そのヤモリは自分の肩の上でおれと同じように先生を見下ろしているらしかった。
 ところで、先生が「名取みたい」と言ったのは、ヤモリを肌に乗せているおれの姿のことだったのだろうか。それともこのヤモリ自体が、名取さんみたいだと言ったのだろうか。
 もやもやした気持ちを抱えながら夜を越すこととなった。
 
 次の日、なんとなく不安が拭えず名取さんに電話をかける。数回かけるか出ず。
 しばらくして柊がふらりと家に現れ言い放った。
 名取さんが。帰ってこないらしい。
 


 日中、やって来た柊の話によると名取さんが居なくなってから概ね一日。
「たかが一日だろ」
 座布団の上で座り直しながら先生が呆れたように言ったが、使役している妖すら行方を知らずましてや一日経っても消息がつかめないというのは何かが起きている可能性をおれでも考える。
 表の仕事でもたった一日といえど連絡がとれないことに心配したマネージャーが家の扉を無理に開けて入って来たそうだ。
 家にもいないことを確認されだが、今のところ連絡がつかなくなって一日目だから様子見にしようと話し合っているところを柊たちが見ていたらしくそれも教えてくれた。これでもし明日も明後日も連絡が付かない場合おそらく警察に連絡する、という話だったそうだ。
「最後に名取さんを見たのは?」
「私だ」
 笹子が前に出てくる。
 式として祓い屋の仕事にいつも通り同行していたはずだったが忽然と姿を消したという。
「そんなに危ない相手だったのか」
「いや、そういう気配はなかったはずだ」
 命を狙ってくるような禍々しい妖がいるとしたら気配が残るだろうと先生が横から言ったが、笹子達によるとそういう気配は残っておらずそんな中で名取さんはただ姿を消したという。
「神隠し、か」
「そんなことあるのか?」
「ふん。妖だって、本来は居ないものとされているだろうが」
「……」
 その通りだ。だから気まぐれな神様がいて名取さんを連れ去って、または消してしまうことも、あるのかもしれない。
 消える?
 ここでやっと事の重大さに気が付く。名取さんが「隠れている」のではなく「居なくなってしまった」のだとしたら。
 それはもう会えないということに直結しており、突然の友人との別れを想像させた。いなくなったら、だなんてそんなことをまだ考えたこともなくてやっと大きな衝撃を喰らう。
 視界が揺れて気持ち悪くなり視線を落とす、その落とした先の畳の上に黒い影が浮いて見えた。
「ヤモリ」
「え?」
 その言葉に反応したのは柊だった。ヤモリなんて、彼らの主を表す言葉のようなものの気がしなくもない。
 そういえば。
 このヤモリも昨日からいるな。
 普通のヤモリにしては警戒心が薄くこちらの言葉を理解しているかのような動きをして見せ、去っていかない。ここに居る。
 そいつは畳の上からこちらを見上げて、じっと見つめてくる。まるで心配しているようなそんな仕草な気すらした。
「……、まさかな」
 分かっている。そんなわけないって。
 ただ、そいつがこちらを見てくる理由を無視したくもなかった。
「名取さんの居場所知ってるか?」
 その問いかけに、なんとなく頷いているようにも見えてしまって、笑うしかない。
 ヤモリに話しかけるおれを見て誰もつっこんではこなかったが、呆れているに違いない。顔を上げる。
 気を取り直し先生に「探しに行こう」と伝えたが断られてしまった。
「今日の晩も帰ってこなかったら動こう」
 まだ一日。大人が一日姿を消すことくらい、もしかしたら何らかの理由であるのかもしれないから。何かを内緒でこなしたいこともあるのかもしれないだろと先生は付け足した。
 心配は大きいが、大人になるとそういうこともあるのかもしれないと思い焦る気持ちをぐっと抑えて今は待つこととなった。
 ヤモリが。少し落ち着きなく頭を動かしており、あちこちを見回しているような気がする。
「なんでもありませんように」
 これは独り言だったが、視線の先にヤモリがいてまるでそれに言っているような格好になってしまった。
 ヤモリはやっぱり、まるで返事をするように尾をふりふりと振っていた。



 名取さんの式達はここでの報告が済むと足早に帰っていった。
 というのも居なくなった現場のあたりをもう一度見に行ったり家で待っていたりと主のためにしたいことがあるからだと言ってすぐに姿を消してしまった。
「あいつもお前も、本当に話題に事欠かんな」
 先生は呆れているような口調だったが、いつもならごろごろとしている、時間加えていい天気なのにその場ですぐにでも立ちあがれそうな格好でおりそれでいて窓の外に視線が投げていてこの会話が終わったらすぐにでも探しに行きそうだな雰囲気だった。心配しているんだと分かる。
「でも、待つんだろ」
「痕跡をわざと断っている可能性もある。一日くらいなら、奴も年頃でそういうこともあるかもしれんからな」
「年頃……、大人とか、関係あるのか?」
「まだこどものお前にはわからんだろう」
 そうか。名取さんにも何か内緒にしたいことがあるのかも、しれない。
 先生の言う通りでそうだったら少しは待つこともしなければと自制する。
 名取さんにも考えがあるかもしれないし、たった一日姿が見えないだけで探し回るなんて事を荒げすぎなのか。いや、でももし本当に事件にでも巻き込まれていたら、と不安にもなる。
 そんなおれの肩に先生がどっしりと乗った。
「近頃この辺りでそんなに禍々しい奴は見ておらん。おそらくそこまで大変なことにはなっていないと踏んでいるから私もあの式達もそこまで大騒ぎはしていないのだ」
 だから落ち着け、という意味だろう。
「案外近くにいるかもしれんしな」
 そう言いながら膝に下りる。
 先生は何を根拠に言っているんだろう。だが不思議と先生の言うことはその通りな気もしてくるから不思議だ。
 先生の狭い額を見下ろして撫でて居ると首から顔にかけてぺたぺたとくすぐったい感触が這ってきて思わず平手打ちしそうになる。
 びくついた身体に先生も驚いて顔を上げていた。
「な、なんだ」
「いや何かが顔を……」
「ああお前か」
「?」
 鼻の頭を通って横に過っていく。先生がお前、と言った正体が間もなく肩口に見えた。
「まだ一日くらいしか一緒に居ないのにずっと前から一緒に居るような気すらしてくるな」
 顔を這った感触にはびっくりしたがそこにいることにはあまり驚かない。名取さんで見慣れているからだろうか。
「……何を笑っているんだ」
 訝し気な顔で先生がこちらを見ている。おれの顔を見て言った。
「だって、名取さんとお揃いみたいじゃないか」
 先生からため息が聞こえる。
「それでそんなに嬉しそうなのか」
 名取さんが居なくなって一大事だというのに、ふと名取さんの片鱗を見つけて笑ってしまったりして、気持ちが沈んだり浮上したりと忙しい。
 だって自信を持って名取さんと同じと言えるところなんて、妖が見えること以外に今まで持ち得ていないような気がするのだ。
 クラスメイトが言っていた、友人や恋人などの親しい人と同じものをもちたい身につけたいなどという気持ちが少し分かったような気がした。

 そんな中、階段下から塔子さんに呼ばれる。
 親戚から届いた梨の入った段ボール箱を運んでほしいとのことで言われるままにそれをこなし部屋に戻って来ると、先生もあのヤモリも居なくなっていた。
 焦って窓を開けて外を見たり襖を開けて中を探ったりしているとその背に声がかかる。
「何してるんだ」
「先生……」
 振り返ってそこに居た姿にホッとして、またすぐ心がざわつく。先生は居た。でもヤモリがいない。
 いや、本来ヤモリはずっと居るものじゃない。寧ろ珍しかったのだ、一晩越しても一緒にいるなんて。ましてや人の身体を好むように這って歩いたりして。考えれば考えるほど普通ではないと理解させられていく。
 居ないのが普通のはずだが、ほんの少しの時間のを不自然にもぴったりと一緒に居たヤモリ。居なくなったと分かると寂しさと不安を感じられた。
「ヤモリがいないんだ」
 焦りながらもその不安を伝えるとあっさりと解消されてしまう。
「いるぞそこに」
「どこ」
 そこ、と言った先生の目はおれを捉えている。少し下の胸あたり。
 その目線の先を同じように見てみるとシャツの胸ポケットからする、と黒い影が顔を出した。
「そんなところに居たのか」
 安堵。
「勝手に、居なくなっちゃだめだぞ」
 物申してから去る様に、とヤモリに言うのは勿論おかしいことだが。
 この短い時間でも共にすると情が湧いてしまったのか、少し見えないだけでとても不安になったし、できればまだ一緒に居て欲しいと思っていた。
 きっとこれが名取さんの痣に似ているから。名取さんが消えた今だからか余計にも、思い入れてしまうのかもしれない。
 胸ポケットにいるヤモリに手を添えて、手の平に出てくるように促す。
 目が合った気がするが、すぐに逸らされてしまった。
「なんか既視感あるなあ」
「何がだ」
「なんかこの、目が合うと視線を逸らされる感じ……?」
「フン」
 先生は何かを分かっていてそう言ったのか、それとも呆れて言ったのかはおれにはわからなかったがこのヤモリと居るとやたらと既視感を感じるのは何なのだろうと疑問に思い始めていた。



 そのまま何も起きずに夜になってしまった。
 夕ご飯をいつもより少し急いて食べて風呂に入る。名取さんの式達がいつ部屋へ報告に来てもいい様にとばたばたしつつ部屋に戻った。
「なんだお前、だらしのない」
 先生がくれる視線の先にいるこちらの姿を見て声をあげる。
 頭も乾かさずにタオルを肩にかけたまま上がってきており服もつっかけるようにして羽織ってきただけで前のボタンもちゃんと閉めていなかった。
 先生とヤモリがさっきよりなんとなく距離が近いような、そんな距離感でいつもの座布団の上に一緒に居た。
「そんな格好でいると腹を壊すぞ」
「そんなに寒くないだろ」
 そう言って露出した腹を視線でさしてくる。そんなことない、「寒くないよな?」と同意を得ようとヤモリになんとなく話しかけて見てしまったがこっちを向いていた頭をフイを逸らされてしまった。……まあ、ヤモリに話しかけても返事はないわけだが。
 そんな頭を逸らしたヤモリを先生がじっとりと見降ろしておりそちらがなにかひっかかるが、何かあるなら言ってくるだろうと思い放っておく。

 これで一日。
 名取さんの式達からも報告はないし、きっと現状が変わっていないのだろう。
 そうなるとここで寝ていていいのかといよいよ不安になる。自分がこうしている間に何か起きてるんじゃないか。何かできることがあるのでは。
「先生、柊たちは来てないんだよな」
「来てないが、寝ても大丈夫そうだぞ」
「……?」
 含みのある言い方だったし、やけに昼よりもヤモリを見ている気がするが気のせいだろうか。
 風呂に入っている間に何かあったのか、その前後で距離感が違うように思うのは考えすぎなのか。今なんて、先生の背の、毛の上をヤモリがわたわたしながら歩きにくいだろうにその間を這っていっている。仲良くなっている気がするのだ。
「一日以上経っているしそろそろ探しに行きたいんだけど」
「明日の昼でもいいだろう。どうせお前がこんな暗い中探したって見つからないと思うぞ。光っているわけじゃあるまいし」
 それはその通りだが。
 友人の危機かもしれないのに寝ているなんて、と思うがでも先生が落ち着いているのも何か理由があるのかもとも思う。
「先生、もしかして何かわかったのか」
「……聡いな。まあ奴が無事なのは大体わかった。焦らなくても良さそうだともな。やれ、面白いから寝ろ」
「面白くない」
 答えを濁すところが気に入らないし何かを楽しんでいるのも分かる。
 先生が言っていた「大人になると隠してでもやりたいこと」をしているということなのか。だからおれには言えないが先生は所在を知っているとか。思い当たらないが先生の様子を見るに慌てることはないと分かる。
「……名取さんは無事なんだよな?」
「そのようだぞ」
 だから寝ろ、とまた布団に促される。
 先生が言うのだから大丈夫なのだとぐるぐるしていた不安が落ちていった感覚がした。
 何が起きているのかは明かしてくれず気になるが彼が無事なのが確実ならそれでいい。
「頭を乾かしたら寝るよ」
「あとちゃんと服を着ろ、目のやり場に困っている」
「なんでだ」
 一緒に風呂も入っているような仲なのに何を今さら言っているのだろうと思いながらパジャマの前をきちんと閉じる。
 先生の耳の間、額の上にヤモリが乗っていて随分仲良くなったなぁ、と思った。




 布団に入るといつもより近く、かけ布団の上だが腹寄りに、先生の重さを感じた。
 枕元には例のヤモリがちろちろと走り回っている。
「身の置き場がないのか? 一緒に枕で寝たらどうかな」
 言いながら枕の一部を明け渡してやるとのろのろと近寄って来る。やっぱり言葉が通じていると思う。
 意思疎通が出来ることに加えて名取さんのものとお揃いのそれみたいなせいで可愛らしく思え、笑みが零れてしまった。
 ヤモリがすぐそこで細い目をぐる、とこちらに向ける。「どうしたの」とでも言いたそうだ。
「昼にも言ったろ、嬉しいんだよ。お揃いみたいで。ああいうかっこい……いや、友人とお揃いのものを欲しいだなんて恥ずかしくて言えないだろ。だからそれが手に入ったみたいで嬉しいんだ」
「かっこいいか?」
 一瞬ヤモリが答えたのかと思ったが、先生の声だと一拍おいて理解する。
 顔は見えない先生が腹のあたりでもみもみと布団を捏ねている振動を感じる。
「うん。胡散臭さ……たまになにかを被ってるように思うときもあるけどそれでも、最近はかっこよく見えるよ」
 答えると先生の動きが止まる。
 想像できる、「ウワ……」みたいな顔をしているんだろう。先生は名取さんを褒めると変な顔をすることが多い気はしていた。気のせいではないと思うが。
 想像していた通りその後ため息と呆れたような声が返って来る。
「最初はあんなに毛嫌いしておったくせに、なんなんだ」
「さっきは濁しちゃったけど、やっぱり今はかっこいいと思うよ。名取さんが特別な人に、なったからかな」
「……」
「……先生? 聞いてるか?」
 また。今日何回目のため息だろうか。先生はどうしてか呆れているみたいだ。
 寝ていて返事がないのかと思ったがそうではないらしい。
「惚気なんて犬も食わん」
「猫だろ」
「猫じゃない」
「惚気てない」
 冗談言ってないで早く寝ろ、と先生に言われて冗談を言っていたのは先生だろと言い返したかったがそうするとまたいつまでも終わらない気がして口を閉じた。
 枕の上、ヤモリの頭は向こうを向いている気がする。そいつは瞼のすぐ前で尾を振っているらしいことがはたはたと小さな振動で伝わって来た。暗がりの中でもしっかり分かった。

 朝、明るさで目を醒ます。
 先生は布団の上に居たはずだったが畳の上の、何もない不自然な場所で転がっていた。
 いびきも聞こえてくるのでどうやらその、変に伸びた格好のまま寝ているらしかった。
「先生?」
 返事はない。
 規則的なリズムで呼吸音が聞こえるので寝ているのは確実だった。
 そういえばヤモリは。どこにいるんだろうと目をあちこちに向ける。
 ……名前を呼んで探してやろうと思ったが名前なんて、そういえば聞いていないし付けていないために呼ぶに呼べないことにやっと気がつく。
「名前つけてやるんだった……」
 次にこういうことがあったら名前を優先してつけようと思いながらも見回す。
 部屋中に視線を撒いたが見つからない。
「おい、どこにいるんだ」
 先生を起こさないようにと思いながら声は抑えめで呼ぶ。勿論返事はない。名前って大事だなとまたこんなところで考えさせられる。
 見つかったらすぐ名前をあげよう。あのヤモリにつける名前。どうしてやろうか。
 でもヤモリに名前を付けるなんて変か。名取さんですらあのヤモリにはきっと名前を付けていないと思う。まああれは痣だからつけないのは当然だとも思うが。
 実体のあるあのヤモリには名前をつけてやりたいなと考えながら視線をなんとなく先生の方に向けると、先生の腹の下で黒い影がはたはたと小刻みに動いている。
 あれって、ヤモリの。
「尻尾!」
 気が付いて急いで先生を退ける。
 どっちりしたその身体をどかすと先生の腕と腹の間あたりで潰されていたヤモリが出てきた。
「お前、ほんと、大丈夫か!?」
 咄嗟に掌に乗せ、その身体をよく見ようと顔を近づける。
 元々なのか、危機迫っていたからなのか小さな腹がすごい速さでふこふこ膨らんだり縮んだりを繰り返しており呼吸が急いているのが分かる。
「なんであんなところにいたんだ」
 先生の腹の下だなんて危ないところに、と思って尋ねてしまったがヤモリがあんなところに自分から入るとは思えない。
 先生の格好や場所が不自然なことからも考えられるのは、先生が寝惚けてこのヤモリを捕まえようとじゃれてそのまま寝てしまったとか……じゃないかと思う。本当の答えは先生が起きてからでないと分からない。
「お前が無事でよかった、か」
 色々思うところはあるが結局これに尽きる。
 まったく心配の絶えないヤモリ……、……。このセリフはとても聞き馴染みがあるなと思ったりした。
 先生もおれに対してこんな風に思っているのだろうか。如何せん小さくて、でも自分が全てを世話してしまったらそいつの思いは無視してしまうようで出来ない。
 大事にしてやりたいがその加減が分からないような、それを探している内にいつの間にか離れがたくなるほど情が湧いている、みたいな。
 距離の取り方が難しいななどと考えていると、ヤモリが乗っているこちらの手の指に尾を絡ませている。こちらをじっと見ていた。
「ああ、ごめん、ちょっと考え事をしていて」
 もしかすると名取さんもそうなのだろうか。
 おれとの距離間をこうやって考えて確かめたりしているのだろうか。
 先生も名取さんも、おれが今ヤモリに対して思っていることも、同じなのかもしれない。
「可愛がるだけじゃだめだもんな」
 きっとなんの脈絡もなく突然にそんなことを言われたら誰だって困るだろうに、そいつはまるで頷くように頭を下げたのを見た。

「……お前、本当は妖なんじゃないか?」
 やっぱり、あまりにも、話が通じすぎている。
 自分の思い込みもあるかもしれないがそれにしても、こんなに人に懐くなんて変だ。先生も何か知っているようだったし。
 先生が追っ払わないところを見るにこのヤモリは悪い奴ではないのだろう。もしかすると一時的に力不足になってしまった妖で、元の姿に戻れないとか話が出来ないとかそういうのじゃないかなどの仮説がふと思い浮かぶ。
「お前のためにおれ、何かでき、あ、ちょっと待って」
 ここで、盛大にくしゃみ。
 両手には件のヤモリを乗せて話していたため口元を押さえることが出来ずなるべく口は閉じていたが思いっきり息を吹きかけてしまった。
「ご、ごめ、くしゃみ止められなく」
 くしゃみの反動で目を閉じ、すぐ開けたそこに、ヤモリがいない。
 でもその手の平の先に。人が居る。
「な」
 身体が固まる。
「……やあ」
 見慣れたその人。
 こんなところに居るはずのない。
「な……」
 大声を出しそうになったところでいつの間にか起きたらしい先生が横から挟まった。
「なんだチッスじゃないのか」
「なんだって?」
 目の前に突然現れた名取さんを無視して先生に突っ込まざるを得ない単語が聞こえて返してしまう。
 何がなんだか。
 でも確かにそこに、名取さんがいるのは間違いないと思いそこに向かって手を伸ばす。
「名取さん」
「おはよう夏目」
「おはようじゃなくて……」
 伸ばした手の平に合わせるように名取さんが手を合わせてくる。ハイタッチみたいな形になって、暢気そうなその態度に急に苛立ちが湧いて合わせたそのを叩き落としてやった。
「違います!」
「ハイタッチじゃなかったね」
「なんでここに……、いや、ヤモリ……ああ。あのヤモリが。もしかして」
 約二日、おれを困らせた張本人が何もなかったようににこにこしている。
 よかった。生きていてよかった。ここに居てくれてよかった。
 だけど今更ながら色々なことが繋がって嬉しいやらこの暢気な態度に苛立つやらなんだか余計なことを昨晩言ったような気もしたりして、なにより恥ずかしさが一番大きく存在を示してきている。その結果が大事なその友人の手をはたき落とす結果になって出た。
 色々なことが繋がった先の答えは。
「ヤモリが名取さんだったんですね」
 少しぼさついた髪をかき上げて、名取さんは久しぶりの自分の身体で両腕を天井に向け伸ばしておりゆっくり息を吐いていく。
 こちらの疑問に対する答えが返ってくると思ったのに、その人は笑って今一番気にしていた言葉を返事として返してきた。
「夏目、私のことそんなに好きだったんだね」
「あ、ああ」
 そうだ。
 それが一番問題だった。
 たくさん心配したしもっと他に話したいことが沢山あるはずなのに、そんなことより昨晩ヤモリにだったらこっそり話してしまっても良いかなと気を緩ませて流したそのことを思い出す。
「ちが……あれはヤモリだったから……!」
「出来れば面と向かって言って欲しかったな」
 うまい誤魔化しが全く思い浮かばなかった。
「あああ」
「夏目にとっての『特別な人』にしてくれてありがとう、私も……」
「忘れて!!」
 名取さんに向かって拳を向けてしまってその後は覚えていない。拳を向けているときのこともあまり覚えていないが、名取さんが嬉しそうに笑っているのはずっと見えていた。


「まあ、こういうのは妖の仕業だろ」
「そうだね」
 当たり前、みたいな雰囲気で先生と名取さんが話をしている。
 こんな朝方に、突然名取さんが部屋に現れたことを塔子さんに知られては絶対ならない。ばれないように声を小さくし、昨晩の発言についての恥ずかしさもあっておれはというとなんとなく身体も小さく畳んで体育座りをしながら壁に寄りかかって話を聞いていた。
 先生は、胡坐をかいている名取さんの膝の上に乗ってまるでくつろいでそこにいた。
「詳細はその妖にしかわからないだろうけど、どうやら別の生き物に変えてしまうような術だったみたいで」
 名取さんはおれが落ち着くよりも早く、先に謝罪を述べていた。謝罪は勿論自分が姿を消してしまい心配、迷惑をかけてすみませんというものだったが気が動転していてあまり聞こえていなかった。
 こちらがあわあわしている間に先生と名取さんが話始まっていて、深呼吸してからやっとそこに混じっていく。
「名取さんが戻れたのはどうしてなんですか?」
「それはまあ……」
「くしゃみだな」「くしゃみだと思うよ」
 先生と名取さんの言葉はほぼ同時で重なっていたが綺麗に重なっていて聞き直さなくても分かった。
「くしゃみ?」 
「正確に言うと、力が強いお前の体液だろう」
「たいえき……」
 そう言われると生々しく感じるが、友人帳の名前を返すときにも紙を口に咥えたりして唾液を要するわけだからあながちふざけているわけでもないと思う。
 名取さんも頷いており二人は同じ意見らしかった。
「でもまさか夏目のくしゃみの飛沫で戻るとは思わなかったな」
 ここで、ヤモリだった彼に眼前でくしゃみを披露したことも思い出した。つくづく昨日から羞恥を晒している気がする。
「夏目がくしゃみをかけてくれたおかげで戻れたんだ」
「ご、ごめんなさい汚いのかけてしまって!」
「気にしてないよ。むしろ助かったんだし」
 名取さんは嘘が混じる様子もなく笑ってくれていてそれを下から見上げるように先生がじっとりと見つめている。
 そういえば。
「……先生は知ってたのか」
 ヤモリとの距離がだんだんと近しくなっていったことや、昨晩「急いで探さなくてもいい」などと助言をくれたこともあり、それらはあのヤモリが名取さんだと気が付いていたからではと思い当たったのだ。
「なんとなく気づいてはいた」
「なんですぐ教えてくれなかったんだ」
 推測でも教えてくれていたらこんなに悩まなかったのに。
 もし教えてくれていたら元に戻る方法をすぐ、一緒に考えてあげられたかもしれないのにと悔しい気持ちが上がってきたところをまたしても先生に刺される。
「だって面白いだろう? 一生揶揄ってやるつもりだったのに」
「先生……」
「だから黙っていたのに、こんなつまらん結果に。こういうときは『真実の愛のなんちゃら』で戻るのがセオリーだろうが」
「なっ」
 だから。
 先生はさっき、「チッス」がなんとかかんとかと意味の分からないことを言ったのか。
 名取さんも隣でまた頷いておりこれはさすがに二人でふざけていると思った。
「まあ、夏目にとって私が特別な人、ってことがわかったからいいんだ」
「違います!」
「違うの」
「違くないです……」
 恥ずかしくてはっきり答えきれず尻すぼみの声。
 結局のところ、「真実の愛」とかなんとかそういうファンタジー的なものではなくておれの唾液、妖力が必要だったということらしい。だから、くしゃみによるおれの唾液で術にかかっていた名取さんは解術された。そこで終わらず、面白がってそのことをネタに二人がからかってきているというわけだが。
 昨晩ヤモリに話してしまったこともあってもうすべてを隠したりなかったことにすることは出来ずからかわれることには観念するしかない。
 自分がおそらく耳まで赤くなっているだろうことが熱さから伝わってきていた。
 そんなおれを尻目に先生は事も無げに名取さんの膝から下りて窓の方へ向かっていく、その姿を目で追う。
「惚気は猫でも食わんぞ」
「惚気てない!」
 もっちりした身体でひょいと外に出ると見慣れた妖の姿へ。くい、と顎をあげて「乗れ」と言われているようだ。
「夏目もゆでだこになりそうだし、お前の式も徒労となり哀れだからさっさと帰れ」
「送ってくれるのかい」
「玄関から裸足で出て行く気ならそうしろ」
「優しいね、ありがとう」
 素直に「送っていく」と伝えたら良いのに、先生は何かが恥ずかしいのかそうは言わなかった。
 おれも一緒についていくべきなのか迷って、立ちあがった名取さんについていくように立ちあがり背についていくと突然に振り返ってきて至近距離で目が合う。 
 あまりにもその仕草がそれのようで、口が当たるところまでを一瞬で想像してしまった。
 名取さんの口は頬に当たった。
 すぐ離れていく。
「もし、妖力でしか元に戻れないんだとしたら、猫ちゃんの力だけで戻れたと思わない?」
 咄嗟にその触れた頬を手で押さえて一歩下がる。
「『特別な人』だから戻れたのかなあ」
 気が付くと腰を押さえられておりこれ以上後ろに下がれないようにされていて逃げ道を絶たれていた。気付いた時には既に遅し。
「今度はちゃんとヤモリじゃない時に言ってね」
 この声と顔と雰囲気にどれだけの人が、やられたんだろう。
「他所でやれ」
 近づいた顔が離れていく。
 先生のおかげで逃げられたと安心したりもしたし、少し勿体なかったなとも同時に思ってしまっていた。
 先生の背に乗る名取さんを見送りながら、子どもの頃に絵本で見たお姫様の話をふと思い出す。

 『真実の愛』、……キスで元に戻れるカエルの王子様。
 カエルじゃなくてヤモリだったな、と思って笑ってしまった。
 ヤモリだしくしゃみだし、色々違っていたが他のところは合っていたのかもしれない。

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