一蓮托生
何事もない一日の終わりだった。なんとなくラウンジに居合わせた仲間たちと連れ立って、窓の外に広がる静かな宇宙を横目に、星は真っ直ぐ伸びる星穹列車の廊下を進む。
天井を泳ぐライトの鯨たちを追いかけながら、それぞれの部屋の前で足を止めては旅の仲間たちと「おやすみ」を言い合ってまた歩き出す。
車両の端に辿り着く頃にはいつも一人だ。他の面々よりも列車に乗ったのが遅い星の自室は、皆の部屋がある客車とは別にあるのだ。
なんの変哲もなく過ぎゆく一日一日のその最後に、星は一人、客車と客車を隔てる大きなドアの前に立つ。そうして誰もいないその車両へ踏み入れるとき、彼女の脳裏に時折過ぎることがあった。
***
「この列車って、緊急用の脱出ポッドとかあったりするの?」
星がパムにそんなことを聞いたのは、ひどく唐突なタイミングだった。いつも頭の片隅になんとなくあって表面化していなかったものをふと思い出し、そこにちょうどパムが居たので試しに聞いてみたという具合だ。
脈略なしにそんな質問を投げられたパムは「急にどうしたんじゃ」と小首を傾げてみせる。
「そんなもの、星穹列車には必要ない。この列車にはいろんな備えがあるからな。ほら、最近は優秀な護衛もいるじゃろう!」
誇らしげに胸を張ったパムがちらと視線を動かすその先には、珍しくラウンジに居合わせた丹恒の姿がある。
当の本人はといえば手元の本から顔を上げようとすらしない。声が届かないような距離でもないはずだけれど、恐らくはこの会話に加わる意義はないと判断したのだろう。彼のいつも通りの無愛想を特に気にすることもなく、星はさらに口を開く。
「じゃあ丹恒にも、姫子たちにも手に負えないことが起きたら?」
妙に食い下がる星に、列車の車掌の顔が訝しげなそれに変わっていく。「なんじゃ星、さっきから縁起でもないことばかり」
「もしそんなことが起きたら、……考えたくもないが、この列車は幸い客車が何台かあるからな。最悪の場合は一つの客車に問題を移して切り離すことになるじゃろう」
「——あ。そっか、なるほど」
まあ普通にそうなるか、とでも言わんばかりのあっさりした相槌だった。
結局質問の意図すら説明しないまま「その手があった」とやけに納得げに手を打った星に、オマエが変なことを言い出すのはいつものことじゃが、とパムは釘を刺す。
「言っておくが、そんな事態は起きないに越したことはないぞ」
「わかってるよパム。聞いてみただけ」
まだ起きてもいないことを延々と心配するような性分ではないけれど、星にも星なりにバット一本速戦即決で振り切ることの難しい考え事がある。
けれど、ひとまずは結論が出た。少なくともこの列車には乗員の手に負えなくなった問題への一定の対応手段とその設備がある。それも拍子抜けするほど簡単で、星にとっては胸を撫で下ろすほど最善の方法で。
気は済んだかとでも言いたげなパムの目配せに、彼女は幾分すっきりした顔で頷いた。
***
「星。またなにか厄介ごとを抱えているんじゃないだろうな」
そう言って丹恒が短く星を呼び止めたのは、パムがそろそろ食事の支度をするといってラウンジを後にし、友人からのチャットを皮切りに依頼だゲームだとなし崩し的にスマホをいじっていた星がいい加減部屋に戻ろうとラウンジのアームチェアから立ち上がった時だった。
ぐるりと視線を動かせば向かいのソファ席から立ち上がる丹恒と目が合う。話すつもりになったのか、彼はそのまま彼女の元へやってくる。
「またって言われるほどなんかしたっけ?」
「常日頃お前が面倒ごとの渦中にいるのは周知の事実だ。先ほどパムと脱出ポッドがどうのという話をしていなかったか」
内緒話ではなかったし、大方聞こえているのだろうとも思っていた。でも丹恒が漏れ聞こえてきただけの話について、こんな風に率直に確認を取りに来るのが少し意外だ。
星は一瞬目を丸くして首を横に振る。「そんな、丹恒が難しい顔するようなことじゃないよ」
「私の体内に星核があるのは丹恒も知ってるでしょ。だから気になって聞いてみただけ」
「……どういう意味だ」
「え? どういう意味って言われても」丹恒の問いに少し不思議そうな顔をした星は、それから自身の左胸にそっと手を置く。
その手の下、彼女の心臓に眠るのは万界の癌と呼び慣らされる厄災の火種だ。星の長くはないこれまでの開拓の旅のなかで、それがいくつもの世界を汚染する様と人々の生活に及ぼした破滅的な影響を彼女も既に見聞きしている。
「そのままの意味。もしこれが暴走したら、誰かがどうにかしなくちゃいけない。そうでしょ?」
「……」
「大丈夫だよ。ちゃんと自分でどうにかするし、皆にもなるべく迷惑をかけないようにはするつもり。もちろん列車の護衛役にもね」
緊急用の脱出ポッドなんてものを話題に持ち出したから、きっと護衛役本人も気になったのだろう。どのみち星はこの件について丹恒に隠し立てをする気はなかった。それどころか彼にはなるべく早いうちに相談しようと思っていたくらいだ。
「でもそのためには、どうにかしてここを離れる方法がいる。ずっと思ってたことだけど、さっきはたまたまそれを思い出したから聞いてみた」
淡々と星は言った。誰にも相談されないまま為されてしまったその決心に何の疑問も抱いてない、そうすることが最適解だと心から認めている顔だった。
「それで、パムの答えはあんたも聞いたでしょ。星穹列車はいざとなったら客車を丸ごと切り離せるんだって。私の部屋は皆と別の車両にあるし、丁度よかった」
そう続けてわずかに細められた星の金の瞳には、どこか安堵さえが滲んでいる。それに気づいてかすかに息を呑んだのは丹恒のほうだ。
星の、黙っていると精巧な人形のように整った顔立ちのなか、どちらかといえば乏しい表情が動くこと。それが意味することは一つだ。
表情を硬くする丹恒をよそに、星はくだらない雑談やまともではないジョークを口にするときと同じ、淡白な口調で言葉を続ける。
「というわけで、いざとなったら私ごと全部切り離してね。それで跳躍さえできれば、列車は裂界の侵食を避けて活路を開けるはず。撃雲を使うまでもない、丹恒もそれなら安心でしょ」
「……星。それは趣味の悪い冗談か何かか? 俺は今のお前の発言の一体どこに安心すればいいのか皆目理解できないし、」
丹恒の口をついてでたのは、それまでとは打って変わった厳しい声色だった。星が丹恒の苦々しい表情に気がついたのは、彼のその声色に驚いて顔をあげた時だ。
「——理解したくもないんだが」
低く威圧を含んだ、それは断固とした拒絶だった。
すぐそこで腕を組んで佇む丹恒は深く眉間に皺を寄せ、いつもよりずっと険しい顔で星を見ている。
「どういう意味? 真面目に考えて真面目に言ってる、さすがにこんなことで冗談は言わない」
「そうだろうな。冗談ではない上に、そんな話を勝手に決めて一方的に聞かされる人の気も知らない。お前はそういう奴だ。始末の悪いことこの上ない」
あまりに容赦のない言い草にそれは丹恒だってあんまり人のこと言えないじゃんと一瞬むっと唇を引き結んだ星の視線を、ひどく底冷えする丹恒の目が跳ね返す。
やがて自身のうちに何かを堪えるように組んだ腕の力を強めて彼は続けた。「……お前がそういうつもりなら」
「俺は明日にでもそちらの車両に部屋をもらう。あとで姫子さんに頼んでおく」
「…………えっと?」予想だにしない言葉だった。もっと理詰めの反論を食らうのだと身構えていた星は、虚を突かれたような顔で丹恒を見る。互いの間に一瞬沈黙が降りる。
「なんでそうなるの?」
「なんでもなにもない、それが必要だと判断したからだ」
「丹恒にはアーカイブがあるじゃん。あんなに快適な部屋がもうあるんだから、姫子に頼むのはもっといい布団とか枕にしたら」
「話を逸らすな。俺がここで何を言ってもどうせお前は考えを変えないし、決めたことは意地でも実行しようとするだろう。ならばこちらはこちらで相応の策を講じると言っただけだ」
「さっきの私の話聞いてた? あの車両に丹恒の部屋ができちゃったら、私の列車切り離し計画が」
「——まだわからないのか、星」
隠しきれない苛立ちと、そして心なしか呆れの混ざった声だ。丹恒はなおも言い募る星を遮るように口を開く。
星はいつもそうだった。気がつけばいつだって人の輪の中心にいて、いつもいつでも誰かのために走り回っているくせに、本当に肝心なときに限って、彼女はいつもふらりと消えるように一人になる。それは例えば死に場所を求めて家を出る猫のように、星自身が望もうと望まざると、まるで胸に宿す壊滅の意志にそうあることを強いられているかのように。
「俺はお前のその勝手な計画とやらに手を貸すつもりは毛頭ない。万が一、いつかこの列車が車両ごとお前を隔離しなければならない事態に陥ったとしても、——その時は俺がお前の傍に残る」
もう今更の話だった。丹恒はいつも、そんな彼女の背を目で追って、勢いに押し切られるようにしてその隣に立ち、今はもう自身の意思でその立ち位置を守ってきた。既にその場所を他の誰かに譲る気がないくらいには、彼女に心を寄せてきた。
「気持ちは嬉しいけど、星核が引き起こす問題がどんなものかは丹恒のほうが知ってるはずだよ。私と一緒に残ってもいい結果には多分ならない。私はあんたにそんなこと望んでない」
いよいよ困惑したように眉を下げて星は言う。そんな彼女の内心だって、彼は汲んでやれないわけではないのだ。
乗車までの経緯や境遇が違っても、考えることはそう変わらない。互いにきっとこの星穹列車で何にも代えられない居場所と一生ものの宝物を得た。その前提に立った上で、世界ごと全てを破滅に追い込む、この宇宙で最も危険な爆弾が自分の体に封印されているとしたら。
星の心配していることを、丹恒だって痛いほどに理解できてしまえる、だからこそ。「もういいだろう、星」
「互いに譲歩する気がない以上、この話をこれ以上いくら議論したところで無意味だ。俺の考えは変わらない。俺に言わせれば、結末など重要ではないからな」
小さく息をついて丹恒は続けた。
星の認識は正確で、その推測も冷淡なまでに合理的だ。星核のもたらす危機や困難をそう簡単にどうにかできたなら、アキヴィリの敷いた銀軌は今も途切れることなく世界と世界を繋いでいただろう。「もしいつか、本当に星核が目覚めてお前を侵食しはじめたら」
「……実際のところはお前の言う通り、俺がいてもいなくても結果はそう変わらないのが現実だろう」
言葉を切った丹恒が、そこでふと星から視線を外す。
本当は認めたくない何かから目を逸らすように束の間伏せられたその双眸は、それでもやがて星を捉え直すように再び真っ直ぐに彼女を見据える。「——だがそうだとしても」
「俺はその結末にお前を一人にしたくない。それが列車の仲間を守るためであっても、お前一人だけにそんな選択を背負わせたりはしない。前にも言ったが、もとよりお前はもう俺の一部なんだ」
わかったか。目を丸くして黙り込んだ星の瞳を真っ直ぐに射抜く青緑色の瞳が、有無を言わさぬ圧を持つ。
そうして丹恒は話は済んだと言わんばかりに「今後この手の妙な考え事は必ず俺に言え」と言い残し、星がうんともすんとも言わないうちに客室車両へ歩き出す。
「————待って丹恒、さっきの話やっぱなし! あと部屋はもらわなくていい!」
半ば呆けたように立ち尽くしていた星がそんな風に声をあげながら彼の背中を追ったのは、丹恒がラウンジのある展望車と隣の客車を繋ぐドアを開けようとしたときだ。
「星、まだ言うのか? その話はもう済んだ」
足を止めてすぐ、走り寄るまま背中に飛びついた星にがっちり拘束されながら、丹恒が溜息をつくようにして言う。
「済んでない。丹恒の言い分はよーくわかった、けど部屋はもらわなくていい。もらうまでもない。丹恒がいないんじゃアーカイブに行く気にもならない」
「反論になっていない。駄々を捏ねて無理を通す気ならその手には乗らない、駄目なものは駄目だ」
「違うってば、話を聞いて。ほんとに考えを変えた」
「……」
胡乱な目が星を見る。
こういう時はこれっぽっちも信用されない星は、それでもお構いなしに丹恒の背に張り付いて言った。
「もしこれはまずいなって感じたり、ほんとに困ったことになったら、助けてって丹恒に言いにいく。それで自分の部屋じゃなくてアーカイブに立て篭もることにする」
「……」
「さっきの話は、そうするのを許してくれるってことだよね? ……違う?」
ラウンジは再びしんと静まり返った。丹恒は何も言わない。
黙殺は彼の必殺技だ。何か間違えただろうかと星の表情が少し焦りはじめて、「違うなら違うってはっきり言って」と彼女は背後からぐいぐいと身を乗り出し、どうにかして彼の顔を覗き込もうとする。
友人と依頼人の区別はしても、特別とそれ以外の区別が丹恒ほど厳密ではない星は、たまにこの親密な距離にふらりと入り込み易々とこういうことをしてみせる。その距離を何も言わずに許容したまま、やがて丹恒は溜息をついた。「……最後のは既に何度かやっているだろう」
「そうだっけ?」
「そうだ。……そしてそれでいい。そうしてくれれば俺も一緒に立ち向かってやれる」
「でも、一応聞くけど、丹恒は本当にそれでいいの」
珍しく躊躇うような声色で星は念を押す。
「……だって、そうしたらやっぱりあんたを一番巻き込むことになる」
けれど丹恒はそれこそ今更だろうと肩を竦めた。相変わらず背中に引っ付く星を好きにさせたまま、半ば彼女を引き摺るように彼は客車のドアをくぐり抜ける。
「構わない。お前に巻き込まれるのには慣れている」
「……わかった。丹恒が一緒なら心強いや」
「ねえ」彼の肩にまわしていた腕を一度だけぎゅっと強めて、星はその耳元に、いま最も大切な秘密を打ち明けるようにそっと囁く。
「——ありがとう、丹恒」
もしいつか過ぎゆく列車での一日一日のその最後が、星が最も恐れるかたちで訪れたとしても、その時もきっとこうして一緒にドアをくぐるのだろう。その胸に眠る星核が彼女にどんな結末を定めようとも、その運命が抗えないものであったとしても、そこに辿り着くまでのすべての道のりで、星の隣には丹恒がいる。
「ああ」
ふ、と息をつく音がして、腕を回すと存外体格を感じる肩口が静かに揺れる。
「何があっても俺がいる。だから安心しろ」
丹恒はようやくかすかに笑ったようだった。
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