写真立て


さて、今夜はこのくらいにしようか、と言って、朝倉先生は大きく伸びをしてネクタイを緩めている。
譲介はとっくにジャケットも脱いでしまって、普段着のパーカーの上に白衣を羽織っている。
二徹の二日目とくれば、少しくらい身だしなみがどうにかなっていてもいいものだと思うけれど、朝倉先生は追い詰められた状況になっても普段と変わらないように見える。本人はスーパードクターではないと言ってはいるけれど、タフさではK先生と肩を並べられるように思う。
時計を見ると午前一時を回っている。
本来なら家に戻って寝ている時間だ。
寝酒でもどうだい、と言って朝倉先生はいつものようにキャビネットの隙間の隠し場所から茶色のボトルを取り出した。僕が父から受けた薫陶は酒の飲み方くらいだという彼は、時々実家に帰った折に眠っていた洋酒を持ちだして、こうして譲介に振舞ってくれる。
譲介はこれから、昼に予約をしておいた仮眠室でシャワーを浴びて寝る予定だった。
鍵はもうポケットにあるけれど、今夜もまた、不思議な味の酒を飲みながら、きっとこの部屋のソファで寝ることになるのだろう。彼に勧められた酒の中には、正露丸のような味のするウイスキーもあって、互いに顔を知っている人間の中で、誰にこの酒を飲ませたいかと披露し合って、笑いながら飲んだこともあった。
――分別くささを捨てて、脳細胞が三つしかないような人間になることも出来る。酒の良いところはそれだよ。
酒に呑まれて自分を見失う経験なんて、一度もしたことがなさそうな顔をして、彼はそんな風に言うのが好きだった。飲酒の機会があれば、人に勧められた量を飲み、介抱をする。医者としての仕事の一環くらいに思っていた譲介は、一か月に一度程度のこうした機会を、今では少し楽しみにしていた。



譲介は、デスクに腰かけ、淡い色の酒が入ったグラスを傾けながら、手にした資料を眺めた。
この手の中にあるのは、彼の命のかけらだった。
世間では、所謂臨床試験データと言われるもの。
将来的にはクラウドに上げてパブリックドメイン化を図るため、今週末の発表に合わせて、個人データを含んだ文書――いわゆる社外秘データ――とは分けて製作することになった。譲介は、あの人の個人データを含む資料をおいそれと人に任せるつもりはなかったので、慣れない作業を、仕事の合間になんとかやりくりして、それでも足りなかったので、こうして朝倉先生に頭を下げて貴重な空き時間にマンツーマンで見て貰うことになった。
考えてみれば、渡米後の大学時代も、レポートの課題は譲介にとっては酷く難物で、結局、一足先に帝都大を卒業した一也に膝を折って、書き方のいろはを色々助言してもらったことを思い出した。
実践あるのみの手術とは違い、頭で考えたことを文章にするのは不得手な分野だった。あれだけ長い間ノートを書き綴っておいて今更書くのが苦手だなんて、と一也には笑われたけど、行った施術を観察して絵を交えて書き記すことと、普段から考えていることを文章化をすることは似て非なる作業だ。
時間は瞬く間に過ぎて行った。
「まだ気になることがあったかい?」
問題点を共有しておくなら今のうちだ、と言いながら、朝倉先生は酒の入ったグラスを傾ける。
「いえ。」と譲介は首を振る。
「ただ、患者としての『あの人』が、この紙束論文の中ではデータのひとつに過ぎず、そして、こうして僕が書くことで彼も、もしかしたら僕もいなくなった後にも残っていくのかと思うと、なんだか不思議な気持ちです。」
「学術誌やデータの中に、いつかは埋もれていく論文かもしれない。それでも?」
「はい。」と譲介が頷くと、そうか、と彼は言った。
「分かってるとは思うから今夜はこれで最後にするけど、譲介君、サーバーに完成原稿のバックアップを移しておいたかい?」
「ええ。それはバッチリです。」と譲介は答える。
高校時代に一度、滅多なことでは慌てないK先生が、プリントアウトせずに論文を溜め込んでいたパソコンの電源が入らなくなったといって画面を叩いていた背中を思い出すと、譲介は今でも笑ってしまいそうになる。
「じゃあ、明日パソコンの電源が入らなくなっても大丈夫か。」と朝倉先生も笑っている。
「それは困りますね。」
「僕もだ。ちなみに、復旧するときに他聞をはばかるようなデータは入ってないだろうね? あの写真を撮った時のデータとか?」
朝倉先生の示すほのめかしに、譲介は言葉に詰まった。
寝起きの時間に、スマートフォンで撮影したあの写真データは、家のパソコンに移され、プリントアウトした後はゴミ箱からも削除した、はずだ。
「あの写真、どこかに流出したとなったら、大事だよ。ご本人にも知れるだろうし。まあ僕は、このくらい飲まない限りは口にしないけどね。」
譲介は、酒という潤滑剤によって師匠の口から出て来たからかいの言葉に目を瞠った。
そんな譲介を見て、大きな黒い革張りの椅子に腰かけたままの朝倉先生は、ハハハ、冗談だよ、と笑っている。焦茶色のラベルを張られたウイスキーの瓶は、今の時点で半分空いている。
譲介はちびちびと舐める程度なので、朝倉先生の胃の中に消えて行った分がほとんどだ。
「――不肖の部下の命を惜しんでいただけるなら、あの人には内密にしておいていただけるとありがたいですね。」と譲介は言った。
「そうだね。口止め料として、食堂で明日のランチをおごってもらおうか。」
いや、もう今日だったね、と言って、朝倉先生は茶目っ気な顔で言った。
譲介は「ドリンク付きのパスタランチで構いませんか?」とお伺いを立てると、朝倉先生はやけにあっさり話に応じて「おまけにクリームブリュレも付けてくれるなら交渉成立だ。」と笑っている。
今ふたりの間で問題になっているのは、譲介が結婚式の時に買った、二つ目の写真立て――来年の記念日に新しく取った写真を入れようと意気込んで引き出しの中に大事に仕舞いつけておいた分だ――にフライングで入れてしまった写真のことだ。
彼と並んで撮った、式での写真立ての横に、暫くの間だけ、と思って並べてある、あの写真。
うつ伏せた背中の下半分はシーツに包まっていて、肩の肌色が見えている。静かに眠っている寝顔は静かだ。
神聖な職場に飾る写真ではないな、と分かっているのだけれど、あんまり会えない日が続いたので魔が差したというか……。あの人本人はほとんど譲介の部屋には来ないし、来客が来た時にはその時でさっと伏せておくようにはしていたのだけれど、朝倉先生ときたら。
狭くはないあの部屋を一目で見渡し、ダブルオーエージェントもかくやという観察眼で目敏くデスクの上の新しい写真立てを見つけ、譲介の秘密は白日の下にさらされてしまったというわけだ。
そのうち、同じような流れであの人本人が見つけてしまう可能性はあるだろう。
確かに命が危ない気もするけれど、そもそも同じ職場に通っていて、こうして大好きな人に会えない日があることの方が、譲介にとっては深刻なストレスなのだ。
「まあ、あの人に言わせたら、僕の命はあと七つくらいはあるらしいので。きっと大丈夫です。」と譲介が笑うと「あの人の長生きには、君の存在が不可欠だ。」と言って、朝倉先生は真摯な面持ちでグラスを持ち上げる。
譲介が背筋を伸ばすと「君の七つの命と、素敵なパートナーのひとつきりの命に。」と朝倉先生は言った。
譲介は、穏やかな顔をした師のグラスに、自分のグラスを合わせる。
硝子が触れあう音は、静かな夜を震わせる。
それは、新しい試合の開始を告げるゴングの音のようにも聞こえた。

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