玉兎が見ていた



 
 先にシャワーを浴びたゾロが宿屋の布団に寝転がっていると、戻ってきたローがベッドの端に腰を下ろした。体重を受けてゆらりと揺れるそれは、空に浮かぶ島で転がった雲に似ている。ローに宿を取らせると、いつもこういう柔らかなベッドの宿になる。柔らかなものは優しいものと近似だった。それはゾロにとって不要なものだったが、ローにとっては重要なようだった。
「ゾロ屋、マットの上で寝ろ。そこで寝ると布団が潰れる」
 上から降ってきた声に薄く目を開く。片目だけの視界に下着だけを着けたローの臀部が見えた。そこから続く長い脚はマットの向こう側に落ちていて見えない。ゾロは指を伸ばしてローの背に触れた。くの字に曲げた指の背で筋肉をたどる。
「お前、時間はいいのか」
「夜明け前には出るから、あと二時間ぐらい」
「おれの方が後だな」
「ナミ屋にドヤされるのも面倒だ、迷わず帰れよ」
「迷うもんかよ」
「だといいが」
 指の先に触れた肌の上には、ところどころに歴戦による凹凸があった。背中に住むふざけた顔と目が合う。陰気な男の背には似合いのツラだった。ゾロがそうして触るのをローは咎めることなく好きにさせた。つい数十分前まで、ゾロの皮膚を好きなように舐めたり噛んだりしていたのはローの方なので、ゾロの方だって同じだけ好きにする権利はあった。腹の方まで指を回そうとしたが届かず、やめた。ばたりと布団の上に腕が落ちる。重い筋肉が布団に埋まる。壁掛け時計がカチコチと秒針を刻んでいた。細い窓の外は暗い。ローがあくびをしている。天井を眺めていた目を閉じた。遠くの方で波の音がする。サニー号にはここからまっすぐ、海岸線を左に見ながら進めば着く。
「ゾロ屋。寝たのか」
「寝てる」
「起きてるじゃねェか」
「なんだよ」
「お前、何か欲しいものはねェか」
 思いがけない質問に、あ? と言って片目を開けた。流した視線の先、天井から吊るされた明かりを背負ったローが、半顔を振り返らせてゾロを見下ろしていた。問われた意味が一瞬分からず、なにが、と言いかけて思い出した。数ヶ月後に迫った自分の誕生日の話のことだろう。何かと理由をつけては騒ぎたがる自船の長ならいざ知らず、ローの口から出てくるとは思っていなかった。いや、そもそもの問題として、
「なんで今年に限って聞きやがる」
「気が向いた」
 返った言葉に嘘はなさそうだった。計算高いように見えて、案外この男は無計画なことを言ったりやったりする。他船ながらクルーの苦労が偲ばれるというものだった。とはいえ、思いつきの提案に乗ってやる謂れもない。しょうもねぇ、と内心で呟いて目を閉じ直す。降った声は速かった。
「おい、ちゃんと考えてんのか?」
「いらん。欲しいものがあるなら奪うのが海賊ってもんだ、敵船の船長から貰うようなものじゃねェ」
「誕生日だぞ」
「じゃあ聞くが、てめぇ、おれから何か貰いたいものがあるのか」
「特には思いつかねぇな」
 絶句した。馬鹿馬鹿しいとはこのことだった。そっくりそのまま返してやる、と言い返す気も起きない。もうこの話は終いだ。緩んだ空気の中、意趣返しにゾロは言ってやった。
「そんなに言うなら、お前の目を貰ってやってもいいぜ」
 己の失ったものを数えるほど感傷的なタチじゃない。だが常から、ローの二つ揃えの金色の目玉は悪くないと思っていた。それをくれると言うなら貰ってやる。断られる前提で口にした思いつきだったが、黙してゾロを見つめるローの顔つきは予想に反していた。長い沈黙のあと、僅かも笑いを滲ませない声音が言った。
「……一分」
 ゾロは訝しげに眉を寄せた。一分がなんだ、と低く聞いたゾロへと、ローが繰り返した。
「一分だ」
「……お前、本気か?」
 ゾロは片腕をついて半身を起こした。どうやって、と呟くように問うと、近くにいたら寄ってやる、とローは事も無げに言った。そんなことが簡単にできる海じゃないことぐらい、物知らずのゾロでも知っていた。陸の宿で聞いた思いつきに果たしてそんな価値があるのか。そう思ったが、ローがすると言うならばもうゾロに言うことは何もなかった。
 起こした身体をベッドに戻すと、ローが隣に転がってきた。伸びてきた腕がゾロの頭を抱き込んで、顔の向きを変えられた。閉じた瞼の上にローの唇が押しつけられる。もうやらねぇぞと言うと、おれももうやってやらねぇよ、とローが静かに笑う。
「日付が変わったら甲板に出て月を見上げてみろ」
「…雨だったら?」
「雲を割ってやるよ」
 尊大な口調でローが言った。クソ、と内心で吐き捨てる。例え軽口だったとしても、バカなことを言うんじゃなかった、と苦虫を噛み潰したような気分で思ったがもう遅い。約束なんてものは未来が確約された者にしか許されないはずなのに、柔らかいばかりを与えようとしてくる男の手管にかかってこのザマだ。
 ローの手のひらがゾロの背中の形を確かめるようにゆっくりと撫でる。敵船の長の手のひらにしては温かすぎた。





 約束の日の夜、日付が変わる前に甲板に出た。ゾロは酒瓶を一本掴み、凪の海を眺める。片目で見る世界は狭いようで広い。漆黒の海にぽかりと浮かんだ月は、上の方が少しだけ闇に融けて透けていた。どこかの島で買った安酒に口をつける。湿気た海風が頬を撫でる。南寄りの微風。今この瞬間の景色だけをみれば、ここが新世界だとは思えないほど静かな海だった。
 長く開いていなかった左の瞼を持ち上げる。顎を上げ、闇に浮かぶ月を、色の違う二つの目玉を使って彼方に捉えた。一分。一秒後に何が起こるかわからない新世界にあって、その時間は永遠に等しい。ゾロはローからもらった時間を堪能した。一度の瞬きもせず、ただ眺めた。波の音が絶え間なく聞こえるだけの、何も起きない夜だった。遠く遠くで、鯨が鳴いた気がした。

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