誰がための氷菓
氷を発明した人は偉大だ。ただそう思うばかりの夏がアストルティアにやってきた。
窓を開け放つにしても外気は真夏の吐息を帯びており、冷房で部屋を冷やす時期にはまだ早すぎる、とガスパールは初夏の節電と闘っていた。
まだ午前中だが日が高くなるにつれビストロ・ガスパールの外壁が熱を帯び、室内にまで熱さを伝え始める中、ガスパールの頬に一筋の汗が流れた。
「だめだ、イラーナさん。僕はもうだめだ」
「そんなことないわよ、ほら」
ビスガスの受付嬢、イラーナはソファの上でうだっている彼に、よく冷えた麦茶を差し出す。
待ってましたと思いつつ、自分から動かなかったガスパールは間髪入れずに起き上がり、その一杯を飲み干した。また注いで欲しいという視線を交え、イラーナへ空のコップを差し出すが、彼女は呆れたように肩を竦める。
「自分で涼のある食事、作ればいいんじゃないかしら」
「え~、やっぱりそうなる?」
とりあえず麦茶を注ぎ足してくれるが、甘やかす方ではないイラーナは駄々をこねるガスパールを横目に、定位置へ戻ってしまった。
本当に作って涼め、というわけではないと思うが、その提案はガスパールの調理魂をくすぐった。
「涼のある食事……お菓子ならアレしかないじゃないか」
冷蔵庫の中に昨日作って寝かせていたタルト生地があったことを思い出す。ガスパールは冷蔵庫の戸をおもむろに開けると、しっとりしたタルト生地を取り出した。
目線の高さにまで上げ、念入りにチェックした後、ガスパールは一つ頷いた。残りの生地とはいっても、彼が作ったものだから満足の行く仕上がりなのだろう。
先にオーブンの予熱を設定しておきつつ、タルト型を作業台に取り出す。生地を丁寧に角まで敷き込んでいく。小さなタルト型に次々と仕込めば、4つのタルト生地が出来上がった。
形を整えれば、小ぶりなフォークを取り出して底に穴模様をつけていく。オーブンシートを慣れた手つきでタルト上に敷けば、あとは焼くだけだ。
まだアイスも作っていないため、ひとまず冷蔵庫へとタルトを戻せば、ガスパールは額に滲む汗を拭った。
「ふう……」
束の間の休息。ガスパールは暑さで蒸れた帽子を外し、ひと時の休息を味わう。小窓からそよぐ風は、彼をねぎらうように心地よい。
声をかけるタイミングを見計らっていたのか、受付台近くで執務をしていたイラーナが今日の予定を言い始めた。
「本日夜のご予約は、2名様が一組だけね」
「え、そんなに少ないの?」
「最近はお客様が多くても作り手が足らず、枠を少なくしたことをお忘れですか?」
「あー、う~ん、つい昔の感覚が残ってしまっているね」
予約の帳簿をパタンと閉じたイラーナは、少しだけため息を吐く。
「お客さま一人一人を大切にしていきましょう」
「はーい」
適当な返事こそするものの、店のことを不器用ながらも考えているガスパール。その良き理解者であるイラーナもまた、不器用な部分あれど同じ気持ちで店を良くしようと考えている。
彼女は再び庶務へと戻るが、記帳しつつガスパールの所作を見ていたのか問いかけてくる。
「今日のコースのデザートはそのタルトでご案内して良いのね?」
「え、これ? これは僕用」
ガスパールが悪意無く自分用だと答えれば、イラーナのペンの動きが止まり、表情は険しくなる。
「あっ、あ~……生地多く作ってるからな~……今日のお客様用にも作ろうかな~……」
「……それが良いと思うわ。時間的にも」
良くない回答だったかと察したのか、ガスパールが目を泳がせつつ代案を出したところで、彼女の機嫌が悪くなることは防がれたようだった。
いくら慣れたこととは言え、肝が冷えるような涼は取りたくないとガスパールは胸を撫でおろす。
「じゃあ、庭に生えているだろうミントを、適当に摘んできてくれるかい?」
「生えてるんじゃなく植えてるの。……まぁ、タヤーカが適任でしょう。声をかけてくるわ」
タヤーカは庭先でお客様を迎える看板娘で、庭のお手入れも彼女が行っている。イラーナはビスガスの入り口へと足を向け、前庭へと姿を消した。
さて、と気を取り直したガスパールもキッチンへ向う。
タルトの主役であるアイスに取り掛かるため、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
適量をミルク鍋へと注ぎ、火にかける。ほんのり香る優しい甘みが、ビスガスの整えられたキッチンを漂い始める。沸騰までの限られた時間で、ガスパールは手際よくボウルなどを用意すれば、卵を割り入れ、砂糖を追加し、泡だて器でリズムよく混ぜ始める。
秒を刻むより早く、だが統制の取れたリズムで混ぜられる卵は、より白く色を変えた。もったりと泡だて器に絡むようになるころには、ミルク鍋がシュンシュンと音を立てていた。
ミルク鍋の火を止め、別のボウルを作業台に置いていると、ビスガスの扉の開く音が響いた。
ガスパールが目を遣ると、小さな籠に青々しいミントを少量摘んだタヤーカがこちらを見ていた。
「オーナー! このくらいでいいですか?」
溌剌とした彼女は、店の空気をがらりと変える。駆け足でキッチンまで運び、ガスパールに見せれば、向日葵のように笑った。
「うんうん、綺麗だし、まぁいいんじゃない?」
「わーい! じゃあ私の分まで作っておいてくださいね~!」
「ええ~! あっ、ちょっと……ったく」
夏の突風のような彼女は、ガスパールの言葉を聞かず庭へと戻っていった。入れ違いになったのか、再び室内に戻ってきたイラーナもやれやれ、といった風に肩をすくめる。
牛乳もこれ以上煮立てるわけにはいかない。誰が食いっぱぐれるかは後で決めるとして、ガスパールは温めたミルク鍋の中に軽く水洗いしたミントを入れてかき混ぜた。ミントが熱を帯び、その爽やかな香りがガスパールの鼻孔をくすぐる。粗熱が取れれば、ガスパールはミントミルクを冷蔵庫で冷やしにかかった。
キッチンに残るミントの香りを楽しむ間も束の間、用意していたボウルに生クリームを注ぐ。簡単に洗った泡だて器を構えれば、ガスパールは先ほどと同じリズムで泡を立て始めた。今度はボウルいっぱいに膨れ上がるように泡が立ち、そのきめ細かさにツンとツノが立つようだった。
泡が消えないよう、ごくじょうソルトをひとつまみ振り入れると、クリームはマーブルを描くように空色へと変化する。その変化に確信を得るかのように、ガスパールもまた、満足気な笑みを浮かべる。
イラーナは思う。この手際の良さがどうして他で発揮されないのか、と。
そんな彼女の思いがガスパールに届くはずもない。だがその不器用な真摯さによって生み出される繊細な料理が、客の心を掴んで離さないことも、彼女は知っていた。
イラーナの視線に気づかず、ガスパールは手際よく事を進めていく。もう十分に冷えていたのか、ミント入りのミルクを取り出し、卵が入っているボウルに注ぎ入れた。
注ぎ切ったあと、ミントの葉を取り出して軽く絞る。爽やかな香りがより一層キッチンに漂った。
最後の仕上げと言わんばかりに、ガスパールは少し腕を捲くった後、卵、砂糖、作っていたメレンゲを一気に加え、混ぜ合わせる。
「よし、完成だ」
ボウルの縁に泡だて器を二回ほど叩き、クリームを落とせばガスパールは満足げに答えた。
美しい空の色をした、まだ冷えていないアイス。それだけでも爽やかなミントの香りが、夏のけだるさを風のように吹き飛ばしてくれそうだ。
「お疲れ様、シェフ」
特段手伝う気もないイラーナだが、ねぎらいの言葉はかけるようで。ガスパールも成果物を冷凍庫に入れれば、天に腕を突き出すように伸びをした。
「あ~疲れた疲れた、氷嚢でも作って抱いて寝ようかなぁ」
「何言ってるの、今晩のメインの仕込みがまだでしょう?」
「ぐぇ……」
思わず舌がでるほど嫌がるガスパールを横目に、イラーナはパラパラと帳簿をめくる。
その口元が少しばかり微笑んでいることに、気だるげな店主は気付かずに渋々キッチンへ戻るのだった。
* * *
「よーし閉店閉店!」
流石にお客を入れるとなれば、部屋の冷房をつけたらしく、昼間とは打って変わって元気に動いているガスパール。庭での庶務やお見送りを終えたタヤーカも、テーブルを拭いている。
「今日も満足げに帰っていただいたようでよかったです!」
「そりゃそうだろう、うんうん」
人手が足りないゆえに、山盛りになっている皿をちょこちょこ洗いつつ、今日の事を振り返ってはお客の笑みを思い出し、自らも満足げに笑んでいる。
「特にデザートのアイスタルトは、凝っていて、爽やかで、夏を味わったわ~……って仰っていましたね」
「そりゃあ、アレ、最初は自分用に作ってたしな」
「ちょ……お客様用にもちゃんとしたもの出してくださいね!?」
「ちゃんとしてるけどさ! 普通は庭のミントとかじゃないから! そういうこと!」
元気に騒ぐ店主と看板娘に、やれやれと息を吐くイラーナ。花の手入れをしつつ、彼らの諍いを止めるように提案を持ちかけた。
「早く店仕舞いが出来た人から、残りのアイスタルトを食べるというのはどうかしら」
大きな声ではなかったはずなのだが、その言葉を聞いた二人は顕著に反応を示し、腕を倍の速度で動かし始めた。減らず口はそのままなのだが。
「大体なんだよこの皿の量! 今日そんなに来てないだろ!」
「先輩が計画したコースでしょ!」
「えーい知るか知るか!」
「あー! 後で汚れてるの見たら返却しますからね!」
「そんなことより僕のタルトだ! 絶対僕が食う!」
突いたのは自分だが、このままでは室温が上がってしまうな……と、イラーナは二人に気づかれないように、窓を開けて回った。
しばらくすると各々の庶務が終わってきたのか、威勢の良い声は息切れにすり替わってきたのだが、先に元気な声を出したのはタヤーカだった。
「やったー! おわったー!」
「ええ! ずるいぞ!」
「ふっふ~、オーナーお先に~!」
客用ナフキンを綺麗に畳んだイラーナは、ステップを踏むように冷蔵庫へと向かい、すでに盛り付けられていたアイスタルトを手に取った。
あれからタルト生地は香ばしく焼かれ、その上に冷えたアイスを丸く載せつつ、氷のけっしょうを大小あしらった、ビストロ・ガスパールのアイスタルト。
デリシャスオイルを混ぜた各種のソースが皿の上に描かれ、コースのデザートとして申し分ない美しさを体現している。
「じゃ、お疲れ様で~す!」
ガスパールも驚くほどの手際で持ち帰る支度をしたタヤーカは、満面の笑みで手を振り、ビスガスを後にした。
まだガスパールの横には、小盛りほどに減ったものの洗えていない皿が見える。
「さぁ、がんばってね」
イラーナは目も合わせずに、今日の会計を上げながらガスパールを急かした。
ガスパールが自分の担当分を終えたころには、日はすっかり落ち、心地よい夜風が辺りを吹いていた。面倒な庶務を終えたが、楽しみにしていたであろうアイスタルトをいそいそと取り出し、客用のテーブルに腰掛ける。
「我ながらうまくいったんだよな、このタルト」
目線の高さまで皿を持ち上げ、隅々まで確認し自分の腕を褒めだすシェフを一瞥しつつ、イラーナは帰り支度を始めた。
「あれイラーナさん、もう終わってたの?」
「ええ、タヤーカよりかは、先に」
「えっ、」
思わず顔を上げるガスパール。タヤーカより早く終わっていたのなら、ガスパールを待っていたということか、と思案する。どんな気まぐれかはわからない。だが、そんなことを口に出すような野暮なことは言えず、ガスパールはイラーナを見つめるだけで、ありがとうの一言さえ言えないままだった。
「じゃあ、私はこれで。あまり遅くならないように」
イラーナがビスガスの扉に手をかけるとき、ガスパールは思わず声をあげていた。
「だ、ったらこれはイラーナさんの分だよ!」
その素っ頓狂な、あまりに幼稚な表明に、イラーナは振り返って肩を落とした。
「私の分はいらない、そういうことよ。シェフ」
「いや、でも勝負は勝負だから」
「だから……」
「これはイラーナさんのタルト! 僕はルールだけは守る男なんだよ」
一回言えば撤回できない、の間違いではないか?とイラーナは首をかしげるが、ガスパールは自分の対面座席へとタルトを移動させ、そのイスを指さして強調する。
こうなると梃子でも動かないことは、長年の付き合いから知っている。イラーナは本日何度目かのため息を吐いたが、その表情は優しいものだった。
「しょうがないわね」
「皿洗いだと、まだその皿が残ってるってことにしよう」
「そう」
「味の感想だけ聞かせて? どう?」
「ええ、おいしいアイスタルトね」
「まだ食べてないじゃん!」
運営方針はシェフの気まぐれ。お客は大事、自分も大事。そんなガスパールがこうして店をやっていけるのは、欠かせない仲間がいるからこそ。
自分のために作ったアイスタルトを食すことは叶わなかったが、これはこれでいいか、と目の前でアイスタルトを切り分けて食べるイラーナをぼんやり見つめ、明日も暑いんだろうな、とガスパールは天を仰いだ。
ビストロ・ガスパールの明かりは夏の夜空の下、ほんのりと灯っている。
誰がための氷菓 おわり
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