砂場


夜中に落ちるには、湿り気を、水を、 深く。
だがここはひとつ間違えてしまえば死んでしまうくらいには乾燥していたから、もしかしたらずぶ濡れになるくらいがちょうど良かったのかもしれない。ガレージという、人間が座るにも眠るにも向いていない場所でひとり座り込んでいる回遊魚というには少し、上品がすぎる、鰭を持つ生き物が正確に引き当てた。足音も気配も消した覚えはたしかになかったが、ーー「オーム。」
 真っ直ぐに上がった腕は壁際の丸い射撃の的を狙っている。距離もあり、そして決して軽くは無い衝撃をまるでなかったかのようにまんなかにはすでにいくつかの穴が空いていた。空きすぎて、可部の色がわかる程度には。パン、軽い発砲音だった。あえて狙って真ん中を外した穴の数をかぞえながら、アーサーは「真夜中だぞ。」 どうでもいい言葉を、どうでもいい弾丸として添えて差し出す。真夜中という意味合いを、海の生き物が本当の意味で理解することはないだろうことも、アーサーにはわかっている。海の中の生き物は、長時間睡眠を摂取しない。初めの頃、八時間は寝るアーサーのことを死んだかと思って口元に手のひらを当てては呼吸を恐る恐る確認し、ドクターシンへアーサーが起きないと緊急連絡をしていたことがあるくらいだ。オームは決してこの乾いた家で寝ようとはしなかった。眠れないし、眠る必要が無いのだと読み上げるように乾いた声で。なんで、という言葉に視線だけを流して、なんでも。可愛くない返事はいつものことだった。いいから、寝ないと思考が働かないだろ。寝ろ、そんないくつかの応酬が続いたあと、オームは唐突に「ーー砂場の地で、眠ることは死だった。」という一言を発した。いいたくなかったことを引き出して、自己満足を得る。お前の特別良くないところだとネレウスは言った。つまりその瞬間にアーサーが考えたことは己の死である。じゃあ寝なくてもいいが、すきにしろ。本当ならば、オームはこの家にいることももしかしたら窮屈に感じていることもアーサーはわかっていたが、だからといって何も教えないうちから野放しにもできない。オームへ与えた空間にはいつも、どこか孤独が浮遊する。
 装填していた銃器から放った弾はほとんど迷わず目的の的へと命中する。穴だらけになったそれを見つめて、「明日新しい的買ってきてやる。」 暇つぶしと、夜を超えるなにかが孤独を玉座にしている男には必要だった。アーサーも出来たら金色の回遊魚を早く海に戻してしまいたい。どうも苦しくて仕方がないのだ。オームを見ていると、はるか遠くアトランティスを胸に抱く。
 ーー息苦しい、という感覚を思い出す。
 オームが銃器をおろし、装填し直して、そして利き手を変えるそれだけの一連の動作を目で追う。追って、
「なんかおまえの…見た事あるんだよな、やり方。」
 海が瞬くから、波ができる。自然の流れはここにある。オームが双眸をぱたりぱたりと瞬くのなら、それは海だった。波が立つような。潮騒を耳に聞く。うすい唇が小さく開いて、何かを囁くように動く。そして再び伏せた双眸が今度は小さな波も生み出さずに戻る。たったこれだけの仕草に、アーサーは別段オームに対して忠誠を誓った騎士でもなんでもなかったが、泣かないで欲しいと願わずにはいられない。結局どこまで突き放しても、可愛い唯一の弟というところから逃れることなどできないのだと思い知られている。
「どこだっけか……、今の持ち変えるやり方……、ああ、わかった。」「ネレウスのおっさんだ。」 
 アーサーは思ったことをそのまま口に出すくせがあったが、腹には何も抱えていない。だからこそひとに信用される。何時でも人の真ん中にいる人間は、信用を勝ち取りやすい人間と決まっているのだ。オームは一度小指を銃器に置く。安定した場所を探すように。
「この前見たおっさんもそうやってたんだ。安定するのか?」
「……海の中は、離してしまえば潮もあるから、バランスが取りづらくなる。」
 だから、とオームは慣れた手つきで什器を撫でる。
「離さないようーー恋人のように、とよくあの方は仰っていた。」
 事実、ネレウスにとって銃器は恋人であり隣人だ。オームは無口ながらも、言葉を選んでそういった。
 「恋多き人ってやつだったんだろうな、おっさん。」 
 さあ、差し戻したオームの声は単調だった。録音の音声のように。オームは大抵の場合、ひどく無機質な機械に成り下がることがあった。それがどんな時なのか、アーサーは知っている。
「私はあの方のことを何も知らない。だが、あの方が扱う武術も、銃器も、私は知っている。」
「なるほど、じゃあネレウスはお前にとって師か。」
 小さい頃からお前に教えてたのはあのおっさんってことか。道理で銃器も扱い慣れているはずだとアーサーがひとりで頷いた。オームとともに陸上で共闘したあの日の銃器の扱いは初心者のものではない。二丁拳銃を扱えるやり方を、アーサーは少なくとも海の中で見たことがないので。海の中で必ずしも重要とされはしないが、扱えて損はない程度のものを指のように扱い、足先を使う武術を組合わせるオームの身体のやわらかさは、幼少から叩き込まれない限り習得することはない。動きに違和感がないということはそういうことだ。
「バルコは海の中の泳ぎ方とか、どうしたら早く泳げるとか呼吸の切り替え方とかおれに叩き込んでた。」
 お前は息を吸うようにできていたことだけれど。アーサーはこの空間に備え付けた冷蔵庫にアルコールが入っていないことを唐突に思い出していた。たしかに最初は入れたそれがいつの間にか無くなっていることを。
 「……ネレウスは……あの方は……、」
 師と呼ぶには。オームの声が揺れている。「私には何もなかった。思い返してみれば。」本当に何も無かった。だからきっと、可哀想だと思ったのかもしれない、とオームが囁いた。私があまりに何も持っていないから。腕をあげる。的へと狙って、引き金を引く。
「そうか?あのおっさん、可哀想だからとか考える感情あるか?」 
 オームが派手に的を外した。
 じろりと視線が向くので、アーサーはいやだってあの人感情あるか?誰かを可哀想とか思う感情が?自分の孫ですら殺そうとするのに? オームはその問いに関して少し難しい顔をしたが、すぐに「王の判断として何も間違えではない。」と言葉を告げた。「家族としては全部間違ってるけどな。」アーサーが立ち上がった。明日には新しい的を買ってきてやると言いながら、本当に無くなっているのか冷蔵庫の中身を確かめる。その中にはほとんど何もなかった。飲んだのかと思ったが、缶がない。なるほど、と思った。きっとアーサーはこの孤独にふさわしくはないのだと気づいて。足先で、ガレージを出ようと歩き出す。
「だけど、お前のことだけが例外だった、オーム。」
  お前を救い出す算段を立ててた。ずっと。それは否定もできない事実で誰も知らなかったことだ。お前も、俺も。可哀想とかよくわかんねえけど、と。アーサーが言った。あいつは、あの王様は、多分そういった感情では動かねえよ。そういうものだから、オームが浮かべた自嘲的な笑みと、海の王の勘か?という言葉に、アーサーは鼻で笑った。「いんや、ただの事実。」
「ずっとネレウスがいたんだろ、お前には。」

 アーサーが倉庫を出て少しあるいた桟橋に、その影が佇んでいる。手元にはいくつかの缶が並べられており、そのどれもに正確な穴が空いていた。朱赤は夜でも存在を喪わない。本物というのは明かりごときに左右されないのだからさも当然のことであった。ひと、三人分ほど距離のまま、「それ、飲んだ後?」と分かりきったことを聞くことすらネレウスは好きではないのだろうということもわかってはいた。聞かずにはいられないだけで。「あの部屋に安いアルコールを持ち込むな。」一言の注意が飛ぶ。俺の家だ。アーサーが軽く返せば、ネレウスは肩を竦めて今度こそ言葉を返さなかった。
「早く戻す、約束する。」
「そんなに早く思いどおりにはなるまい。あの男が仕組んだことは結局こうして叶ったのだから。」
 あなたが王にこそ相応しい。あんたはそう思っていないのに?アーサーは敢えて飲み込んだ。言うべきではなかった。海の生き物の声が聞こえるのなら王様であるのなら、それは誰でもよかった。トライデントに選ばれる事は新たな犠牲者を選ぶことでもある。キースはアーサーには懐かない。いつでも深い海の底で、オームのことをうたっている。海の中は、オームが作ってきたからこそいままで平和を維持したのだということを、アーサーは身に染みてわかっていた。
「バルコは、オームに期待することをやめたんだな。」
「憧れの上に色を塗りすぎたんだろう。」
 あんたは、とアーサーは聞かなかった。穴が空いた缶と、人間の分だけの距離を開けたまま、ただ佇んでいる。それは拒絶だった。
「お前にあるから、あの子にも与えた。それだけだ。」
たった、それだけ。
 


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