Break Free(ホラノフ/隣人)

 小さな披露宴がはじまってから、シェーンはイリヤとまともにふたりきりになれていなかった。もちろん、そんなことは最初から覚悟していた。
 今日はふたりのためだけの日ではない。両親、友人、チームメイト。それぞれ異なる時期にイリヤとシェーンの人生に関わって、長い時間をかけてここまで連れてきてくれたひとたちがいる。
 ほほをくっつけて写真を撮られ、シャンパンで満ちたグラスを掲げられ、痛いほどの力で肩を叩かれ、全身で抱きしめられ、何度も何度もおめでとうと言われた。もちろん誇らしいし、涙が込み上げてくるほど嬉しい。
 それでも、自分の結婚式なのだから、もう少しくらいは夫のそばにいられるものだとシェーンは思っていたが——甘かった。
 庭でのパーティーは陽が暮れても賑やかなままだった。家と川のあいだに広がる芝生には招待客たちがあちこちに散らばり、壁に寄りかかって話し込んでいる者もいれば、ハリスの選曲に身を任せながらアルコールやフルーツポンチを飲んでいる者もいる。頭上にはユナが用意したストリングライトが何本も渡されていて、暗くなりはじめた庭を柔らかい橙色の灯りで照らしていた。食事もほとんど終わり、さっきまできちんとしていたテーブルの上には空いた皿とグラスだけが残っている。
 ジャケットを脱いですっかりくつろいだ様子の男連中も増えてきた。庭の向こうではエヴァン・ダイクストラがシャツの袖を肘までまくり、なにやら大声でしゃべりながらイリヤの肩に腕を回している。その隣ではトロイ・バレットが愉快そうに笑い、少し後ろでルカ・ハースまでつられて笑っていた。バーガンディ色のリボンをつけたアーニャは当然のようにイリヤの足元から離れず、長い鼻先を彼の膝に押しつけてはかまってもらおうとしている。
 輪の中心のイリヤは困ったような顔をしているくせに、彼らを振りほどく素振りはまるでない。それを見てシェーンは思わずほほをゆるめた。遠目からでも彼が楽しそうなのが伝わってきて胸があたたかくなる。
 しばらくそのまま眺めていたせいで、隣にいる母親が話し続けていることをすっかり忘れていた。
「それでね、春に撮った写真なんだけど——」
「あ、ごめん。うん」
 勘の良いユナがなにもかもお見通しという調子でじとりと目を細める。
「シェーン。聞いてなかったでしょう」
「聞いてたよ」
「うそ」
「……途中までは」
「でしょうね」
 彼女は責めているわけではなかった。むしろ、口元にはやさしげな笑みが浮かんでいる。シェーンもふふっと笑って、ジンジャーエールをひとくち飲んだ。
 それから庭のほうへ視線をやると、果たしてイリヤはまだそこにいた。久しぶりに髭を綺麗に剃ったせいで、頬から顎へ落ちる鋭く精悍な輪郭があらわになっている。ネクタイはゆるみ、白いシャツの襟元もすこし開けられ、逞しい胸筋がのぞいている。式の前にはあれほど堅く整えられていた金茶色の巻毛もいまではすっかりほぐれて、そのうちのひと房が秀でた額にくるんと落ちかかっていた。シェーンはそのほうがずっと好きだった。
 イリヤがおもむろにグラスを持ち上げる。袖口で丸いカフスボタンがストリングライトを受けて淡く光った。ゴールドの縁取りに乳白色のパールをあしらった、控えめで上品なデザインだ。シェーンはそれが今日のイリヤにとてもよく似合っていると思った。そのすぐ先、グラスを支える左手にはもうひとつ光るものが見えた。……指輪だ。イリヤの指で堂々と光っているのを見るたびにシェーンは胸の奥で蝶々が舞うようなおかしな心地になる。ほんの数時間前、指輪を互いの指に嵌めたときのことがふとよみがえってくる。
 ——この指輪とともに、あなたを愛し、敬い、大切にすることを誓います。そしてこの指輪を、私の愛の証とします。
 あのとき、イリヤは青緑色の瞳でシェーンをまっすぐに見つめていた。ここにはふたりしかいないみたいな、ひたむきなまなざしだった。誓いの言葉を茶化しながらも低い声でひとつひとつ復唱して、シェーンの指に指輪を滑らせてくれた。イリヤが指輪をしている。自分とお揃いのものを。もうふたりだけの秘密ではない。ここにいる全員がその意味を知っている。シェーンは我ながら単純で馬鹿みたいだと呆れるくらい、またじんわりと嬉しくなった。あの素晴らしく魅力的な男は俺の夫なんだ……。
 そう夢見心地で考えていたとき、ちょうどイリヤがこちらを振り向いた。芝生の端と端で視線がかち合う。
 シェーンは反射的に周囲を見まわした。ほんの一瞬だった。誰かが自分を見ていないか。誰かがイリヤを見ていないか。こんなふうに夢中で見つめ合っていることに気づいている人間はいないか。そこまでしてから、シェーンははっとする。今日ここにいる全員がイリヤとシェーンが結婚するところを見るためにきたのだ。朝から散々キスもしたし、大勢に写真だって撮られた。いまさら庭の向こうでひときわ輝く夫を見つめていたところで、いったいなにが困るというのだろう。シェーンはおかしくなってくすくすと肩を揺らした。するとその笑みを待っていたみたいに、イリヤが片方の眉をくいっと持ち上げた。遠すぎて声は聞こえない。それでも、なんだ、とでも言いたげな表情なのはわかる。シェーンは首を横に振った。なんでもない。もちろんイリヤには通じなかったらしい。疑わしそうに双眸を細めたあと、持っていたグラスをこちらへ向けてほんの少し掲げる。シェーンもジンジャーエールのグラスを持ち上げて応えた。芝生をはさんだ、ふたりだけの乾杯。それだけのことなのに、また胸の奥がふわりと浮き立つ。イリヤが自分の夫だなんて。たぶんあと百万回思っても飽きないだろう。
「もう」
 また隣から声がして、シェーンは我に返った。ユナが呆れたような、それでいてひどく楽しそうな顔でこちらを見ている。
「……なに?」
「なんでもないわ」
「母さん」
「本当になんでもない。ただ」
 ユナは静かにもうひとりの息子であるイリヤへ目をやった。大きな身体を屈めて、愛しいアーニャの頭を撫でてやっている。それを見届けてから、ユナはシェーンに視線を戻した。
「あなた、しあわせそうね」
 慈愛に満ちた母の瞳にシェーンは思わず言葉に詰まった。頭上のストリングライトが夜風にかすかに揺れている。川のほうから涼しい空気が流れてきて、シェーンのほほのそばかすをやさしく撫でる。青々とした芝生の上では誰かの笑い声が弾けた。テーブルではハリスがスマホと睨めっこしながら次に流す曲を真剣に検討している。
「うん」
 口にしてみると、驚くほど簡単だった。
「しあわせだよ」
 そうよどみなく答えるシェーンに、ユナは目尻に涙を浮かべながら心から満足そうに微笑んだ。
 その直後、ワイヤレススピーカーからそれまで流れていた曲がふと途切れた。ほんの一拍の静寂ののち、明るく跳ねるようなイントロが夜の庭に流れ出した。芝生のあちこちからわっと歓声が上がる。シェーンは誰の曲だろうと首をひねりながらハリスのほうをうかがった。ハリスもシェーンの気配に気づいたのか、テーブルの向こうで得意げに口角を上げた。
 軽やかで、勢いがあって、解放感に満ちた晴れやかな曲だった。シェーンには誰の歌なのかさっぱりわからない。ただ、周囲の歓声や笑い声に混じって、たびたび繰り返される歌詞がはっきりと耳に残った。
『ここから自由になる』
 シェーンはジンジャーエールのグラスを持ったまま、ぼんやりとその単語を反芻する。自由になる。顔を上げたシェーンとイリヤは惹かれ合うようにおのずとお互いの姿を探した。今度はシェーンも周囲を確かめたりはしなかった。イリヤはシェーンを見つけるとやわらかく相好を崩して前髪を掻き上げる。自由になる。その言葉がどこか違って聞こえた。昔のことをひとつひとつ思い出したわけではないし、そんな必要もない。ただ目の前にある幸福をありのまま受け取ればそれで充分だった。イリヤがかすかに首を傾けたので、シェーンはただ笑った。するとイリヤもすぐにとろけるように微笑む。ああ、たぶんこれが自由なんだ。こうして愛するひとを好きなだけ見つめて、そのひともこちらを見つめ返してくれること。シェーンは舌の上でその言葉を転がした。声には出さず、ただ唇だけがかすかにその形をなぞる。自由になる。そしていよいよそれがとても自分たちにふさわしいものに思えた。
 イリヤは手にしていたシャンパングラスを近くのテーブルへ置くとシェーンのほうへと歩き出した。人々のあいだを縫うように進みながら、途中で何人かに声をかけられる。そのたびに短く笑い返しはするものの決して足はとめない。まなざしだけはずっとシェーンをとらえたままだった。
「ほら、迎えにくるわよ」
 耳元でユナがからかうように囁く。照れたシェーンはなにか言い返そうとしたが、その前にイリヤがふたりのもとまでやってきた。
「ユナ」
 まず母親に声をかけ、それからシェーンを見る。
「俺の夫を借りていい?」
「どうぞ」
 ユナは即答した。イリヤが満足そうな表情でシェーンへ左手を差し出す。
「こい」
 シェーンはその掌と、そこにある指輪を見下ろす。
「どこに行くの?」
「いいから」
「イリヤ。説明になってないよ」
「退屈なこと言うな。俺は新郎様だぞ。少しくらい好きにしていいだろ」
「俺も新郎なんだけど」
「ならもっと問題ないな」
 イリヤらしい無茶苦茶で突飛な理論にシェーンは弾けたように声を上げて笑った。そして夫の手をとる。イリヤの指がすぐに絡んできた。背後のスピーカーからまたあの一節が聞こえた。自由になる。シェーンはなにも言わない。ただイリヤの手を握り返した。
 イリヤはシェーンの手を力強く引いたまま、人混みを抜けていった。薄暗くなってきた庭にはまだ笑い声が溢れている。ほんの数歩離れただけなのに、さっきまでいた場所が遠く感じられる。
「イリヤ」
「すぐそこだから」
「さっきからそればっかり」
 イリヤはそのまま家の中へ向かった。開け放たれていたガラス戸をくぐり、シェーンもあとに続く。イリヤが後ろ手にドアを閉めると、庭のざわめきが一段遠くなった。笑い声も、グラスの触れ合う音も、ハリス渾身の選曲も、ガラスを隔ててまだうっすらと聞こえている。この久方ぶりの静けさにシェーンはほっとひと息吐いた。キッチンには昼間の慌ただしさの名残がまだ残っている。アイランドの端には使い終えた食器がいくつか寄せられ、透明なピッチャーの底では氷が半分ほど溶けていた。窓の外では薄暗がりのなかで橙色の光の粒が揺れて、とても綺麗だった。イリヤはアイランドのふちに軽く腰をあずけると、シェーンの両手をしっかりと握りなおした。
「目的地はここ?」
「ああ」
 アーニャのリボンと同じバーガンディ色のスラックスを履いたイリヤの脚の間に右足を差し入れて、シェーンは真正面から身体を寄せる。
「……どうしたの?」
「お前とふたりになりたかった」
 くちびるをつんと尖らせる子どもっぽい仕草をたまらなく思いながら、シェーンはイリヤの肩口に額を伏せる。糊の効いたシャツの硬さといつもの香水のかおりが心地よい。
「そっか」
「俺たちの結婚式なのに全然ふたりきりになれない」
 シェーンはぱちぱちと瞬きをしてからゆっくりと口角を上げる。なんだ、イリヤもおなじことを思ってたんだ。ずっとどこかに引っかかっていた小さな不満が、途端に愛おしいものへ変わっていく。その拗ねたような言い方がおかしくて、シェーンはなだめるようにイリヤのほほから顎へやさしく指をすべらせた。
「結婚式ってそういうものじゃない?」
「知らない。初めてだから」
「俺だって初めてだよ」
 シェーンは大袈裟に目を回してイリヤのほほをそっとつねる。イリヤは大人しくされるがままになって、どこか満足そうに目を細めた。
「痛い。ひどい夫だな」
「はいはい」
 シェーンが左手を離そうとすると、イリヤがぎゅっと手首を掴んだ。そのまま逃がさず、自分のほほへ押し当てる。剃りたての肌はやわらかくなめらかで、シェーンの掌にほんのりと熱を移した。イリヤはそこへ頬ずりするように顔を傾けると、恭しくくちびるを触れさせた。掌にふわりとした感触が残って、シェーンはほほを赤く染めながらスラックス越しにイリヤの太腿を右手の人差し指でいたずらになぞった。
「そんなにふたりきりになりたかったの?」
「ああ」
「……うん。実は俺もきみを見てた」
 掌に触れたままのイリヤのくちびるが弧を描くのが分かる。今度はちゅっと音を立てながら掌の中心にキスをされた。シェーンがくすぐったそうに指を縮めると、イリヤの親指がシェーンの薬指の根元を撫でる。そこには今日交わしたばかりの誓いの指輪がある。次のキスは指輪の上に落ちてきた。さっきまでのふざけた調子とは違う、ひどく丁寧な、万感の想いが込められたキスだった。言葉を失ったシェーンはしばらくイリヤの伏せられた瞼や豊かな上向きの睫毛を見ていた。
「シェーン。指輪もスーツも、よく似合ってる。ずっと見惚れてた」
 ロシア語訛りの深いイントネーションが鼓膜を揺らす。シェーンのほほが朱色に染まり、初心なそばかすがじんわりと浮かび上がった。
「きみも似合ってるよ。俺の夫はすごくハンサムだ」
「ああ、知らなかったか? お前の夫はMHLで一番ハンサムで誰よりも性格がいい」
「ばか」
 シェーンはふざけるイリヤのゆるんだネクタイへ右手を伸ばして結び目を指先で弄んだ。そしてそのままネクタイをくいっと手前へ引いた。不意を突かれたイリヤの身体が傾く。シェーンはその美しいくちびるに自分のくちびるを重ねた。
 何度かやさしく触れ合わせていると、イリヤが舌でシェーンのくちびるの薄い表皮を舐めた。誘われるままシェーンは口を開き、慣れた様子で顔に角度をつけながらイリヤを口内に受け入れる。イリヤの太い腕がシェーンの腰へ回り、シェーンはイリヤの脚の間に身体をはさむようにしてキスを深くしていった。ぬるりとした舌の感触を楽しみながら、何度も治療されたあとのあるイリヤの歯並びを丁寧になぞってやる。掌で弾力のある尻を揉まれて、シェーンはくちびるの隙間から熱い吐息を漏らした。
 ふいに外で誰かの大きな笑い声がして、続いて庭から建物のほうへ近づいてくる足音が聞こえたが、それでもふたりは離れない。たとえ見られてももうかまわない。睫毛が触れ合うほどの至近で見つめ合い、それからどちらともなく笑った。
「……そろそろ戻る?」
 イリヤの額に額をくっつけながら、シェーンが名残惜しさを隠してつぶやく。
「そうだな。ルビーとジェイドが俺を探しているといけないし」
 真面目ぶった表情でそう言ったイリヤは、いま一度触れるだけのくちづけをする。それからシェーンの伸びた髪をそっと梳いて、やさしく耳にかけてやった。
「行くか」
「うん」
 イリヤがまた左手を差し出した。シェーンは今度こそ迷わずにその手をとる。
 ガラス戸を開けた途端に明るい音楽と人々のざわめきと夏の夜の空気がいっせいにふたりを包んだ。シェーンは繋いだ手を離さないまま、あらゆるすべてから解き放たれたように隣にいる夫を見上げ、屈託なく微笑む。
 いまここから、ふたりは自由になるのだ。

Wavebox♡
https://wavebox.me/wave/blcr4ovro6pp7bpi

powered by 小説執筆ツール「arei」

323 回読まれています