いつもの串盛3,300円(GK鯉月)

 宇佐美時重は観察していた。ここ数日の直属上司の目に余る浮かれっぷりは、もはや放っておける範疇を超えていた。奇行や奇声は今に始まったことではないし、気にしなければいいだけの話だったのだが、最近はいよいよこちらにまで悪影響が及んでいる。
「……」
 宇佐美がPCモニター越しに窺う先は鯉登と尾形である。
 先日、鯉登の得意先を尾形が怒らせるという出来事があった。営業一課長である鯉登はそれなりの頻度で出張するから、やむなく代理の者を商談に向かわせることも少なくない。今回代理を買って出たのは尾形だった(宇佐美にはこの時点でオチが読めていた)。そして案の定というか、何というか。「知りません」「わかりません」を繰り返した挙句上司への当てつけだと言わんばかりに見事に雑な見積を押し付けてきた性悪な同僚は、悠々と事務所への帰還を果たしたのだった。
 本社でお怒りの電話を受けた月島は青筋を浮かべて尾形を探し回ったが、時既に遅し。奴はとっくに午後の外回りへ出発──もとい出奔したあとで、その逃げ足の速さには宇佐美も素直に感嘆した。
「で、鯉登課長はなんて?」
「……聞きたいか」
 その夜行きつけの焼鳥屋で落ち合った尾形は、げんなりした顔で冷酒を舐めた。
「“誰にでも失敗はある。いつもの頑張りに免じて、今回ばかりは責任は問うまい。謝罪には私が伺うから気にするな。次は頼んだぞ”……電話越しだったがな、あの無駄にキラキラしたツラが俺にははっきり見えたぜ」
「うわキッショ」
「キショいだろ。白目剥きそうだったわ」
「僕ならキショさのあまり絶頂してるね」
「どういう感情だそりゃ」
 鼻白んだ尾形は本当に白目を剥いた。お前どうかしてるぞ。お前に言われたくないんだけど。ふたりの応酬は流れるように続く。
「あの課長殿が俺のミスを追及しないだなんて、どう考えてもおかしいだろ」
 レバーを串から引き抜きながら相槌を打つ。
「お前のはミスって言わないからな百之助」
「そんなことはどうでもいい。何か妙だ」
 大口の得意先をわざと怒らせておいて“そんなこと”とは流石の厚顔である。それはそうと、宇佐美にも尾形の言わんとしていることがなんとなくわかった。あの上司が怒らないはずがないのだ。信頼し合うどころか互いに嫌い合ってすらいるというのに、これはどうしたことだろう。
 ──そんなわけでここ最近、鯉登が優しい。気持ち悪いくらい穏やかで、にこにこしていて、何かにつけて礼を述べる。その度に鳥肌を立てているのは自分達だけなのだろうか。クールビズでネクタイを免除されているとはいえ、空調の設定温度は二十八度固定の夏本番。上司の薄気味悪い優しさで涼を取るだなんて冗談じゃない。
 宇佐美が資料作りの片手間に視線を送る、斜向かいのデスク。尾形の差し入れたデカビタが滅茶苦茶に噴き出して鯉登のオーダーシャツを黄色く汚しても、彼は気にすることもなくカラカラと笑っている。仕掛けたはずの尾形が調子を狂わされて言葉を失っている様は、何とも気の毒だ。
 またもやいつもの焼鳥屋で。
「機嫌が良いとか悪いとかの次元じゃないぞ」
 逆さまにした徳利から酒を注ぎつつ、途方に暮れたようにぼやいた尾形に、宇佐美はひとつの仮説を口にした。
「月島主任と付き合い始めた……とか」
 ぽろ。尾形の咥えた煙草から灰が落ちる。
「他に考えられる? あの仕事熱心で馬鹿真面目な鯉登課長が部下のミスを咎めない、なんかずっと笑顔、よく見たら肌ツヤも良くなってる気がするし……」
「よく見るなよそんなもん……」
「何かあったとしか思えないってことさ」
 宇佐美には半ば確信があった。鯉登の常識がひっくり返るような何かが起きていないとおかしい。でなければこの急激な変化に納得がいかないのだった。
「探りを入れてみるか」
「は?」
 面倒くさい、嫌だ、興味ない。途端猛烈に抗議しだした同僚に、串の尖った方を突きつける。
「だってさ、なんで僕らの方が調子崩されなきゃならないんだよ。癪だろ。このままじゃ僕、あいつのせいで成績下がっていずれとんでもないミスして、鶴見部長に叱られる未来しか見えない……ッ♡」
「嬉しそうに言うな。だがまあ、同感だな」
 つくねに異常な量の一味を纏わせ口に放り込んだ尾形は、顔色ひとつ変えずに咀嚼して飲み込んだ。ほらもう、ストレスで味覚終わっちゃってんじゃんか。百之助かわいそう。
「──というわけなんです、月島主任」
「……お前達は何を言っているんだ」
 翌日金曜日、当たり前に残業しようとしていた社畜(こと月島)の首根っこを引っ掴みいつもの店に連行した宇佐美と尾形は、正面切って現状を尋ねてみることにした。
「困ってるんですよぉ僕ら。教えてください、鯉登課長に何かしました?」
 答えに窮するかと思われた月島は、しかしこちらの問いかけにただただ困惑を返した。
「いや、まるで心当たりがないが……? 鯉登課長の様子がおかしいと?」
「ははぁ、誤魔化すつもりですな主任殿。あんたが課長殿の変化に気づかないはずもないでしょうに」
「変化も何も、あのひとは普段からヘラヘラしてるだろう。基本的に」
「アレもしかして僕ら惚気られてない?」
 思わず口をついた揶揄も「なわけあるか、馬鹿もんが。お前らの素行不良のせいで愛想良くしようがないんだ。すこしは自省しろ」とばっさり切られてしまう。
「でも最近は僕らにも笑いかけてくるんですよ。なぜか」
「なぜか、な。そのせいで仕事もままならんのですよ」
「お前らな……」
 悩める可愛い部下達相手に渋面を隠しもせず、月島は盛大なため息を吐いた。ムシリ、と乱雑に焼鳥を齧り取り、味わっているんだか何だかわからない表情で無心に口を動かす。しばらくして、
「とにかく俺は何も知らん。本人にでも聞いたらどうだ」
 それだけを告げて、しかし律儀に部下達のぶんも会計を済ませてくれるところを見るにつけ、このひとのこういうところなんだよなあ、と宇佐美は思うのだった。
「──というわけなんです、鯉登課長」
「貴様ら月島にそんなことを尋ねたのか!?」
 休み明けの月曜日、今度のゲストスピーカーは鯉登に交代。早速控えめな猿叫をいただいた。
「それでどうなんですか? 月島主任って口が固いんですよねぇ……付き合い始めたとしても教えてくれないかなと思って」
「私なら漏らすと思ったか!? 残念だったな! 付き合っとらんわ!」
「ははっ、大声ですなあ〜」
 潔い大声である。鯉登からは以前、月島のことでふたり揃って恋愛相談(?)を受けている。ゆえに話は早かった。
「だが私の態度でお前達を不安にさせていたとは……すまなかったな」
「それですよそれ、やめてください気持ち悪い」
「貴様この私が殊勝にも謝罪していると言うに、もっと何かないのか!」
「ああ良いですねぇその調子ですよ課長」
「腹の立つ奴だなッ!」
 ようやく以前の調子が戻ってきた。鯉登はこうでないといけない、決して彼を好きではない自分達にとっても、打てば響くこの上司の在り方は存外重要だったのかもしれない。
「では何ですあの見てるこっちが恥ずかしくなるくらいの浮かれっぷりは?」
 ボトルキープしている焼酎を勝手に追加したらしい尾形が、ズバリ切り込んだ。私はそんなにわかりやすかったのか、そんなにわかりやすかったですあんたぜんぶ顔に出るでしょう。歯に衣着せぬ同僚の言に宇佐美も頷く。諦めたのか鯉登が重い口を開いた。
「先週のことだ。私の九州出張に月島を同行させた。ついでと思って私の実家に顔を出し、一緒に夕食をとった流れで泊まることになったのだ」
「そっか、課長は鹿児島のご出身でしたっけ」
「ああ。その夜……」
「……」
 宇佐美と尾形は黙って次の言葉を待った。鯉登は静かに続きを語る。
「私は自室で、月島は客間で休んだ。“おやすみ”と言い合ったのは初めてのことで、私はその夜高揚して寝付けなかったのだ……だって何だか|夫婦《めおと》のようではないか? “おやすみ”って……フフ」
 思い出したのかはにかみだした上司に、今度は別の感情で絶句する。まさかこの男。
「……それで一週間以上も浮かれてらっしゃる?」
「そうだ!」
 なぜか胸を張る鯉登。呆れ果てた宇佐美と尾形は、それぞれ力いっぱい上司の肩をどついた。
「あんた女子中学生か!」
「ときめきのコスパが良すぎる!」
 ──この上司、いつになったら大人らしい恋愛のフェーズに進めるのか。まだまだ先は長そうだ。
 時間がかかるのは構いませんけどあまり僕らに気を揉ませないでくださいよ、と心から願う。宇佐美が飲み干した水割りは、氷が溶けきって味なんてほとんどしなかった。

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