ハム



残業から帰ると、リビングに息子がいた。
この時間にここで顔を合わせるのは珍しい。
「譲介、今日帰って来てたのか。」
「うん。」
おかえり、ただいまと言い合うのは何週間ぶりだろう。
大抵は、僕の残業よりこの子の仕事の方が遅いのだ。
仕事のあるこの子を彼女が車で迎えに行って、僕はその間に家に帰ってシャワーを浴びて寝ていることが多い。
台所に食べ終えた食器や脱いだ服なんかがそのまま残っていることが多いので、忍者みたいに消えてしまう息子の残像だけを見つめる日々が続いていた。
週末も、気が付けば僕が起き出す頃にはどこかへ行っているし、一体、あんなに仕事をして成績や出席日数は足りているのだろうかと思う。
大学に進学するとは聞いているけれど、そういえばどこの大学が第一志望かも覚えていない。
「この時間だし、食事は済ませてるよね。コーヒーは飲む?」
「いや、うん、ありがとう。」
自分でやるからそのまま映画を見ていなさい、と言おうとしたタイミングで、息子はさっと座っていたリビングのソファを立って「お茶の方がいいかな。」と言って流しの前に立って、蛇口をひねってカップに水を入れている。
仕方がないのでネクタイを緩める。
年頃の息子というのはこういうものなんだろうか、僕が同じくらいの年の頃はもっと雑駁で乱雑な話し方だった気がする。
それにしても、時の経つのは早いものだ。
遺伝子の悪戯で奥さんに似てしまった、綺麗な顔をした僕の子は、転勤を重ねるたびに言葉少なになっていき、気づいたら芸能界なんて場所にいた。
子どもは親が知らない間に成長するものだと聞いてはいたけれど、本当にそうらしい。
気が付けば、すっかり背丈も同じくらいになって、声も低くなって、僕の知っている小さな可愛い子とはまるで別人になってしまった。
そう思っていると、電子レンジにマグカップを入れた息子は振り返って「後でココアが欲しいって言わないでね。」と彼女に似た顔で口角を上げた。まるで演劇の台詞のような柔らかい口調だ。
「……母さん、そんなことを言うのか?」
「違うよ。」と言って小さく微笑む。
チェシャ猫みたいな微笑みが柔らかいものに変わる。
恋人か、と聞こうとして止めた。
僕にも紹介してくれ、と野暮を言ってしまいそうで。
「お茶を頼むよ。ほうじ茶より緑茶の気分だけど、茶葉はあるかな。」
「分かった。」
戸棚から茶葉の入った茶筒を出している子どもの背中を眺める。
鈴さんの趣味なのか、クリーム色の可愛い茶筒に、銀色のお茶のパッケージがそのまま入っているようだった。
この子はどんな人を選ぶのだろう。鈴さんに少し似た人だと、彼女は嬉しいだろうなと思う。
「大学はどこへ行くのか決めたのか?」
「あれ、言ってなかったっけ。」
「うん。僕が忘れたのでなければ。」
「うちから通える場所にある学校だよ。推薦で入ることにしたから。」
入学金が掛かるけど、僕の貯金と父さんの通帳から半分ずつ出すって母さんが言ってた、と言って、息子は聞いたことのない大学の名前を挙げた。
「ふがいない父親ですまないね。」
そもそも、このところは、ほとんど十年単位で『親』をやってない。
「今の成績で国公立には行けないのは確実だから、半分以上僕のせいだと思うよ。入試の試験が全部、戯曲の丸暗記で済むならどうにかなったかもしれないけど。」
「戯曲?」
そんなものに興味があるとは知らなかった。
転勤先で、時折この子を公園に連れ出したり、寝付くまで絵本を読んであげていた記憶が懐かしい。
「うん、時々舞台を見に行くから。」
「へえ、いいねえ。」
今ではすっかりくたびれたサラリーマンになってしまった僕が、大学時代、可愛い奥さんになる前の鈴さんと一緒に人形劇のサークルに入っていたことなど、この子は知らないだろう。そういえば、伝えたこともなかった。


茶器を暖めて、お茶が均等になるまで丸く急須を揺らす。
そうやって入れて貰った緑茶は暖かかった。
この子はおばあちゃんと暮らしたこともないのに、母さんの緑茶の淹れ方とそっくりのやり方をする。
ほとんど家にいないほど忙しいはずなのに、緑茶がある場所も、完璧に把握している。
鈴さんにも、普段はこうしてお茶を入れてあげているのだろうか。
いい匂いのお茶を啜りながら、ソファの隣に座って映画を見ていると、見知った顔が画面に出ていた。
「もしかして、これ、眠狂四郎?」
タイトルしか分からなくても、台詞に名前があれば分かる。
どうして今こんな映画を?
モノクロの画面は暗くて、おどろおどろしい音楽が鳴っていた。
「渋いな。レンタルで借りて来たのか?」
市川雷蔵なんて古い役者、僕ですら、ほとんど見たことがない。
まあ、どうあっても会話は弾まないだろうから、時代劇でも見てる方が多少はマシだろうか。濡れ場のあるジェームズボンドみたいな映画を、年頃の子どもと見るのは、かなり気まずいはずだ。
「人に借りたんだ。」と息子は言った。
「誰に?」
「………TETSUさん。」
テツさん、というからには男の人だろう。
さすがに今の時代で市川雷蔵が好きだと言うのは、もし同年代だとしても、恋人の可能性が限りなく低いだろうとは思ったけど。
「その人、今の事務所の先輩かい? 苗字は?」
「いや、あの、……四国にいた頃、TETSUさんが出てる映画のビデオテープあったよね? 母さんがいない日に一緒に見てたの。確かあれお父さんが買ったって聞いたんだけど。」
息子が挙げたのは、僕が大学時代にビデオテープが擦り切れるほど見ていた映画のタイトルだった。
ああ、TETSUさんか。
………TETSUさん?
「え? 譲介、今彼と仕事してるのか?」
うっかりソファから立ち上がってしまった。
そもそも、最近は誰とどんな仕事をしているのかも聞いてない。
あの黒須一也くんと親しいらしいという話は鈴さんから聞いてはいたけれど、そのくらいだし、仕事以外の場所で一緒の写真を見せてもらったこともないから本当に仲がいいのかは分からない、とも聞いていた。
「今じゃないよ。三年前から、時々。……あのさ、父さんが僕の仕事のこと全然興味ないのはわかってたけど。本当に知らなかったの?」
「いや、興味はある。あるよ!」
慌てて言えば言うほど怪しいと思われるのは分かっているけど、息子も僕のことを訝しげに見ている。そもそも、ここでテンションをあげたところで仕方がないので、ソファに座り直す。
三年前か、そうか。
まさか三年も前から僕に隠してたとは。
「母さんのことを……あとで問い質す必要があるけど、僕がこんな風に取り乱すのが分かってたから口止めしてたんだろうと思う。」
「そっか。」と言って、またテレビ画面に顔を戻したのでほっとした。
気が付いたら買い換えられていたテレビの大画面に、市川雷蔵の完璧に涼やかな顔が映っている。若い頃のTETSUさんはもう少し可愛げのある顔をしていたなあと思う。
今はきっと年相応の顔つきになっていることだろう。
大学時代の友人は、今も彼の舞台に時々足を運んでいるらしい。
せっかく都心の劇場に近い場所に家を構えたのだから、タイミングが合えばそのうち、と思っているうちにすっかり年月が経ってしまった。
「三年前って、譲介が例のあのドラマの仕事を始めた時期だろう? 母さんがKEIさんの出ているファッション雑誌とかテレビ雑誌をずっとスクラップしてた頃の。」と尋ねると、息子は「それ、今もだけどね。」と言って苦笑した。
「あの頃、僕も会社の移転が重なって仕事がてんてこ舞いだったしなあ。年末の旅行もあわやキャンセルするところだったくらいだし。」
「そういえば、そうだった。」
ずず、とお茶を啜る音が聞こえる。
「母さんが、KEIさんのサインですごくはしゃいでたの、覚えてるか?」と言うと、息子は、ああ、うん、と言ってから頭を抱えた。
「僕も、ミーハーの具合で言えば、母さんと似たようなものだからなあ。言わない方が無難だと思ったのなら、多分お母さんの判断の方が正しいと思うよ。」
というより、鈴さんが自分のフィーバータイムに入ってしまって僕のことをすっかり忘れていた可能性があることには蓋をしておくのが無難だろう。
「TETSUさんと今、一緒に仕事してるのかい?」
「あ、いや、……うん、色々教えて貰ってる。読み合わせ手伝ったり、発声練習とか。」
へえ。今は演劇の方に戻ったと聞いていたけど、この子と仕事をしているというなら、僕が知らないだけでテレビの方の仕事もそれなりに入れているのだろうか。
画面の中では、すっかり場面が変わって殺陣のシーンに入っている。
「僕がサイン下さいって言ったら、迷惑かなあ。」と言うと、え、何、と言って譲介がリモコンを押して音量を落としてしまったので、「僕もTETSUさんのサインが欲しい。」と二度言う羽目になった。
「……。」
今の譲介の顔は、夫婦そろって、という顔だろうか。
子どもが一足先に大人になってしまうと、いい年をした大人が気恥ずかしい気持ちにさせられる。
お父さん、あの、と口を開いたのは譲介だ。
「一枚なら多分大丈夫そうだけど、二枚目は無理だと思う。」
「そうだよね……って、え? 大丈夫なのか?」
「いや、そうじゃなくて、あの時のKEIさんの色紙も、本当はTETSUさんから直接KEIさんに頼んで貰ってて。あの時、次はないって言われてるから。あれからかなり時間経ってるから、色紙とハムとセットで持って行ってお願いしたら、なんとかなりそうな気がするけど。」
…………ハム。
なんでハム、と口に出す前に「TETSUさんって、時々、土方のバイトで忙しくて、持って行くなら日持ちのするものがいいんだ。」と口早に息子が言った。
「譲介、もしかしてTETSUさんと親しいのか?」
「父さん、あとで母さんの作ってるスクラップ、見たらいいと思うよ。今からでも、ドラマで僕が出てる回見るならそれでもいいけど。DVDならテレビの下のラックにあるし。」
僕が口で説明するより早いと思う、と息子は仔細ありげな顔で苦笑して、言葉を濁した。
「TETSUさん、ハム好きなのか。」
「多分。でも、カニの方が好きだと思う。蟹炒飯とか、よく食べてるし。」と付け加えるところを見ると、どうやら相当あの人と親しいらしい。
「それは……父さんの知ってるTETSUさんに近いな。」
「そうなんだ。」
「後で、母さんから父さんの昔のパスポートを見せて貰うといい。ファンクラブの会員証が入ってるから。」と言うと、え、と叫んで息子が立ち上がった。立ち上がったら目線が合わない。
すっかり背が伸びたなあ、としみじみしていると、譲介はソファに腰を下ろして長い足を組み「何それ、ずるいなあ、絶対見ないから。」と拗ねてしまった。
「鈴さんが何で止めたか分かるだろ。父さんの方がずっと年季が入ってる。」
空になった茶器を持ち上げて流しに立つと、「僕の方がTETSUさんのこと好きだから。」という不機嫌そうな声が背中に投げかけられた。
どうやら、僕と息子は妙なところが似てしまったらしい。
ふ、と口元だけで笑みを浮かべると、流しに、洗って伏せてあるケトルが目についた。
煎茶を飲むなら、やはりケトルで沸かしたお湯の方がいい気がする。
「譲介、お茶、もう一杯飲むか?」とケトルに手を伸ばしながら振り返ると、譲介は、腰を落ち着けたソファで腕を組んでいる。
「もし何か僕に話してないことが他にもあるなら、母さんが買って来た白が流しの下にあるけど。」
今から飲もう、と言いながら席を立つハンサムな僕の息子は、こちらを威嚇するような鋭い笑みを浮かべ、楽しみだな、と言った。
そういえば、この子が演技をしているところをこの数年ほとんど見ていない。
そのうち若い刑事役でも引き当てたら当たり役になりそうだ、と思ったけれど、僕は口を噤んで、可愛い息子に小さく笑みを返した。



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