陽炎
狄家の家中は、長と呼ばれる執事を筆頭に、秋の目に適ったもの、限られた数名で常に整えられている。屋敷内の衣食住はもちろん、秩序も。だが、それに綻びが入ったことが唯一度だけある。
その家中の長から架勢堂の大佬に一報が入ったのは、若頭、龍城幣と医者を果欄一派から匿ってしばらく経ってからだった。主人が城砦から戻ってこないと。虎は部下から聞きしな、すぐに車で屋敷に向かった。
「何でまたアイツは」
出迎えた長が深々と腰を折るのを止めさせ、中に向かう。先の城寨をめぐる大抗争で負った傷の痛みが疼く。それでも歩みを進める虎を、長が追う。
「お一人で向かわれたようで」
「伴も、車も、なしか?」
「このところ、奥に近づくのを禁じられておりまして」
執務室の前にたどり着く。
「いち早く気づいたのは、この者達でございます」
深々と扉の前で腰を折っている男が二人。いつも連れていた護衛の阿と吽だ。
「この者たちも、遠ざけておいででした」
黙して目を伏せている二人の肩がかすかに震えている。永くそばに置いていたこの者達までも遠ざけるとは。
「……」
虎は二人の肩にぐ、と手を乗せる。一度しっかりと掴み、再び肩を叩いた。阿が顔を上げる。虎と目を合わせ、しばらく見合ったのち、静かに顔を伏せるとともに扉を開けた。吽は静かに目を伏せたままだった。
主人なき執務室は、ひんやりとした空気を漂わせていた。綺麗好きの秋は常に周囲も整えていたが、机上の様子に虎は違和感を抱いた。物が定位置にありすぎる。いつも何かしら処理途中の仕事を置いていたのは記憶違いか。机を睨み付ける虎の気づきを察し、長は息を少し吐く。
虎に手前に置かれたソファを勧め、その向かいに長は浅く座った。
「書き置きだけはございました」
静かに応接机の上に差し出された紙面には、確かに秋の筆跡がある。信一の話では、大老閣が持っていた書面にも直筆の署名がされていたという。あれは確かに秋の署名だと力なく話していたが、まさかと舌打ちしそうになる。ため息をつき虚空を仰いだ。虎が読む気がないのを悟り、長は続けた。
「こちらには全ての代行を私に任せるとあります。何かあれば廟街に連絡をと」
それに従いご連絡を差し上げた次第で、と静かに続けた。
「勝手な」
「弁護士や銀行への申送も全てなされております」
詳細はこちらに、と次に差し出された紙束に三度のため息が出る。
「あいつは……全く」
頭に血が上れば脇目をふらず猛進する癖に、変なところが周到なのだ。この数十年その成りは潜めていたのに。
長は虎の様子を見遣り、それから目を伏せた。少し口元が震えたのちに、また虎に視線が戻る。それを繰り返さんとしたところで、虎が声を発した。
「執事としてはなく、ただ私の言葉として、お聞きいただけますか」
「……」
沈黙を持って、促す。
「とても悪い予感がするのです」
旦那様が戻っていらっしゃらないかもしれないと、彼は続けた。
「なぜそう思う」
「あの時と、同じなのですよ」
忌むべき名を、私は口にはできません。そう語る彼の表情は強張っている。
「長袍が見当たらないのです」
「何?」
「貴方様もご覧になられていたでしょう。あの、白い」
「言うな」
虎の強く遮るかのような口調に、そこで言葉が止まる。まるで、言葉にすればその予感が現実になるのを恐れているかのように。
「…それがどうした」
虎に促され、筆頭執事は続けた。葬儀の際に纏われて以来、奥に仕舞われていたのです、と。ただ、誰のとは言わなかった。再び身に付けることがないように、と虫干しをするために預かるたびに口になされて、とだけ続けた。静かに告げるその声が、耳の中で反響する。
「……家は任せる、あの二人のどちらかを使いにやってくれ。一人は必ず残せ」
「かしこまりました」
「城砦も果欄もどうなっているんだ」
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