ジャム


夜の十時。譲介は、TETSUの帰宅時間に合わせてコーヒーを淹れていた。
青いパッケージのモカマタリは、一か月前の粉とは違う豆だが、譲介にはいつまで経っても違いは分からない。
丁度いいところに玄関扉が開く音がして、譲介はおかえりなさい、と口にした。
自分から挨拶など不要だと言ったくせに、こちらが無言でいると、おい、いるなら声掛けろ、などと言うので、譲介が気づいたときには自分から先に声を掛けるようにしている。
白のコートを脱いでいて、上半身はいつもの黒いTシャツだ。
手には診療鞄、と思ったら、二つ重なった箱が紐で括られている。手土産だと言いながら時折カレーを買って来てくれることはあるけれど、段ボール箱は初めてだ。箱の外側には愛知県産ゆめのかとあり、苺の絵が描かれている。
狐に化かされた狸の気分とはこういうものだろうか。「あの、診療鞄は、」と口を突いて出た譲介の問いに「玄関。」という言葉が返って来る。
「それで、……これは。」
「んなもん、見りゃあ分かるだろうが。苺だよ、苺。まあ、毒は入ってねぇはずだ。」と彼は言った。
彼の診療報酬は、秘密保持契約という口止め料が入っている。最低でも数百万、時には一千万単位の金が一度に動く。たまたま農家が客だった、ということはないだろう。
そんなことを考えていると、「おい、コーヒーくれ。」と彼が言うので、いつものカップに入れて彼の前に持って行く。コーヒーを美味しそうに飲んでいる彼に、譲介は「どうするんですか、これ。」と言った。
「洗って食うしかねぇだろ。」
「今から洗います?」というと、この時間からか、とTETSUは時計を見た。
譲介は、「明日の朝まで冷蔵庫に仕舞っておきます。」と言って段ボール箱を縛り付けていた紐を鋏を入れて解き、パックをひとつひとつ取り出す。美しく、大きな苺だった。小粒の酸っぱい苺とは値段が違うのだろうと思わせる。
「運転中にあちこちぶつけただろうから、明日中に食っちまえ。余ったらカレーにでも入れるか?」
カレーの中に苺。TETSUがこちらをからかっているよう雰囲気があるならまだ対応できるが、いつものにやついた笑いを浮かべていない辺り、本気で生で食べる以外の食べ方を思いつかないらしい。
「そんな、他人事みたいに言わないでください。」
「まあ、そうだな。オレは明日っからまた仕事だ。今日は着替えを取りに寄っただけよ。」
「え、」
あなたも食べてください、と言おうとした矢先に、彼はそんなことを言った。
「今日ですか?」
「何か提出する書類でもあンのか?」
はい、と言えば彼は何日かこの家に残ってくれるだろうか。
取り出した苺は8パックある。一人で処分出来るような量じゃないことは明らかだ。
「今持って来ます。あの、」
「なんだ?」
「もうこの時間ですし、明日の朝まで仮眠してから運転した方が効率がいいかと。」と譲介は言った。
TETSUは考え込んで「……まあ明日の朝だな。」と言った。
十日の不在のち、また不在。譲介が呆然としている様子を尻目に、TETSUはコーヒーカップを流しに持って行き、そのまま風呂場へと消えていく。あの、と声を掛けようとしたとき、彼がいつものTシャツを脱いでいるところだった。点滴をするとき、筋肉の隆起した身体を何度も見ているはずなのに、譲介の知らない傷が薄っすらとした凹凸となっている様子に、息を呑んだ。着衣で隠れる場所の膚に、胸が騒ぐ。
彼はあらよっととか妙な独り言を言いながら、脱いだTシャツを掴んでそのまま風呂場へと向かう。脱いだものを床に落とさないで、とは言う必要がない。それでも、譲介は目を逸らすことは出来ず、広いTETSUの背中を見つめ続けた。



ぐつぐつと煮える鍋から、甘い匂いが漂って来る。
試験勉強に臨むはずの休日に、僕はなぜこんなことをしているのだろう。
譲介は、片手で、試験範囲の英単語を書いた単語帳を持ち、片手では鍋底に木べらを入れ、ゆっくりと苺と砂糖が入った中身をかき回した。
「It is natural for him to think so. ……彼がそう考えるのは当然。」

結局TETSUは、苺も食べずに行ってしまった。
昨日の夜、譲介は、彼が身体を洗っている間に、ブーツの替えを出すかして、付けていた灯りも消してしまおうと玄関ポーチを見た。その上、そのブーツの横には見慣れない杖があった。
まさか、と思う。
けれど、その杖は大きさからして彼にぴったりで、包装もされておらず、下から十センチ辺りの所に泥が不着しているような代物で、患者のための杖を買った、と言った来歴ではないだろうことは直ぐに分かった。それに、昨日の今日で買って来た様子でもなく、譲介の背筋は伸びた。
彼の病の進行は、譲介が考えている以上に早いのかもしれない。
いや、歩くのに足取りが覚束ない様子はなかったはずだ、と頭の中で反証しても、分が悪いのは明らかだ。譲介が追いつくのを待つような素振りを見せた、いつかの夜の彼。点滴を終えたソファから起き上がるまでのタイムラグの長さ。もしかしたら、譲介がハマーに乗らない間、ずっと中に隠しておいたのだろうか。
いつから、とすぐに食いつくのは論外だ、と頭の中で計算した。譲介はだから、点滴を終えて彼が腰を上げるとき、さりげなさを装って、あの杖はどうしたんですか、と尋ねるつもりでいたのに。先手を打たれ、今日は何か学校であったか、という普段なら聞かれないような問いに応戦させられるばかりで、面白がるような視線に、何も言わせては貰えなかった。相手の方がまだまだ上手なのだろう、TETSUは、譲介が起きる七時前に姿をくらませていた。
自身の体調について何の言い訳もせず、譲介に金の入った封筒と、この苺だけを置いて。
また仕事に行ってしまった。
次はいつ帰って来れるか分かんねぇからな、と書かれた厚みのある封筒は、金銭感覚が喪失したあの人らしい。そして今は、リビングの引き出しの中に納まっている。

鍋の底から赤い縁取りの泡が上がって来るのを見て、譲介は木べらをレードルに持ち替えた。
赤い色が渦巻くホーロー鍋から灰汁を掬い出す。
二度、三度と繰り返しているうちに、大量に投下した砂糖が勿体ないように思えてきた。
鍋の中の苺は、赤い色素が抜けて、段々と白くなっていく。譲介が今着ている黒のエプロンとは対照的だ。レシピは一度通して見ているはずだ。それでも普通の苺ジャムが出来るのだろうか、と心配になってきたので、譲介は鍋の中から目を離すことが出来ない。
手頃な瓶がないので、作り置きのカレー用に買って置いた未使用のタッパーを洗って、清潔な布巾で拭いておく。それから冷凍用のジップロック。どうせ、砂糖の分量が多くない。早く使い切ってしまわないと、と譲介は思う。
そういえば、いつかの日に、クレジットカードは作らないんですか、と譲介が聞いたら、「闇医者がそんなもんに頼れるわけねぇだろ、おめぇの名義の通帳はそのうち作るつもりだ、待ってろ。」と言ってごまかされてしまったことがあった。
家に置いている子どもに闇医者を自称するのはどうかと思うけれど、あの人がその場しのぎのごまかしを言うことは――冗談だとこちらが分かることに限ればそうではないけれど――ほとんどない。
自分名義の通帳か。
そのうちとは、いつのことだろう。譲介のために作った通帳を――手切れ金の代わりに、と言ったら言い過ぎだろうか――いつかここを出て行く日に手渡すつもりならば、そんな日が来なければいいのに、とさえ思う。
苺ジャムの甘い匂いが充満する台所で、譲介はため息を吐いた。

「……なんだァ、この匂いは。」と起き抜けの顔のTETSUが言った。
朝は、コートを着ていないだけのいつもの格好だ。黒いTシャツは彼の身体にぴったりと張り付いて、人を圧倒する筋肉を見せつけている。譲介の方も、休日らしく、パジャマからパーカーとジーンズに着替えている。あの薄い布の下にある傷のことを、譲介は考えないようにしようと思った。
朝食は軽い目に、と焼いたトーストの上にバターをたっぷり、その上に苺ジャムを掛ける。
コップには、ジャムを入れた牛乳。凍らせた苺ジャムを入れた簡易苺ミルクだ。氷の代わりに冷凍したジャムが入っているからかコップが汗をかいている。
「……何食ってんだ?」
「ジャムトーストです。この間の苺をジャムにしたので。食べるならパンがそこにあります。サンドイッチにしたいなら、チーズやハムは冷蔵庫に買ってあります。」
マンションから歩いて十五分の場所にあるパン屋は七時過ぎに開店するので、譲介はいつも、近くにある川べりの土手を走るついでに、小銭入れをポケットに入れてそこまで買いに行くことにしている。クロワッサンが美味いと評判の店らしく、開店時間を過ぎればいつも人が行列を成している店で、購入したのは昨日だが、トーストで焼きたての食パンは二日目とは思えないほどに美味い。
ナイフで切れ目を入れたパンをトースターに二枚入れたTETSUは、バターをパンの上に置いて、顔洗って来る、と言ってからかっきり三分後に、ふあ、と欠伸をしながらキッチンへと戻って来た。
顔を洗うと出て行ったものの、さして頭がしゃっきりとした顔でもないようなので、譲介は、彼のためのコーヒーを淹れることにした。いつもの手順でフィルターと粉をセットしている間も、TETSUは、スプーンで掬った苺ジャムを載せたパンを、大口で咀嚼している。
「市販のジャムにしちゃ、甘くねぇな。」
「砂糖を分量より少なくしか入れてないので。」
「悪くねぇ。」と彼は言った。褒め言葉だ。
「そりゃ何だ?」と言うので、やっとという気持ちで彼の方に振り返ると、TETSUは譲介のカップを眺めていた。
「……凍らせたジャムを牛乳に入れました。美味いですよ。」
「腹が冷えるな。」
彼が不機嫌そうな顔で言うのに、牛乳を先に暖めましょうか、と言いたくなって、譲介は口を噤む。
二枚目を咀嚼する音が聞こえて来る。譲介は残りの作業をコーヒーメーカーに託し、TETSUの向かいの席に腰を落ち着けた。タンブラー用のスプーンでぐるぐると底をかき回すと、牛乳が薄い赤に染まる。
「しかし、買ったにしちゃあこの容器は雑だな。どことなく見覚えがある。」
「これ、この間の苺ですよ。」そう言って苺ミルクを飲む。果肉が大きすぎて、逆に飲みづらい。
「あ?」
「容器は、カレーを入れる前の未使用の使い捨てタッパーがあったのでそれを使いました。」
「おめぇが作ったのか?」
「勉強の息抜きで。それに、あの分量は本当に無理だったので。三食苺だと偏るでしょう。」
譲介の返答に、まあそうだな、と言って、彼はこちらの顔に手を伸ばしてきた。
「付いてるぞ。」と言って口の端を拭われ、彼は譲介の口についていた苺ジャムの小さな欠片を自分の口元に持って行った。しょうのねえガキだ、と窘めるような言葉は、譲介の耳に一切入らず、彼の舌が指先についた赤いジャムをついばむ様をただ眺めていた。
「おい、顔赤いぞ。」熱か、とまた手を伸ばされ、譲介はとっさに後じさる。座っている椅子がガタついて、もう逃げ場がない。
「な、何でもないです!」と立ち上がると、TETSUは目を丸くした。きっと、変に思われている。
顔洗って来ます、とその場を後にして、譲介は洗面所で顔を洗った。
赤面した顔は、なかなか赤みが引かない。
「……気が立った猫かよ。」とTETSUが呆れたように呟いた言葉は、譲介本人には聞こえなかった。



powered by 小説執筆ツール「arei」

584 回読まれています