gradation

僕たちにグラデーションを与えてくる。
切実に、生きなければならないと錯覚するほどに、鮮やかに。

gradation

ここの家に鍵などはないから好きに使いなさいという言葉通り、オームマリウスのための空間は静かな深淵だった。水溜まり、とネレウスが称したのは陸地に用意された本当に水を貯めたものだった。どういう原理か、海からの海水を引いている。これは以外に水を用意するよりはるかに簡単なことなのだとネレウスは告げたが、それを簡単なのかそれとも果てしなく難しいことなのか、判断できるところにオームマリウスはいない。ただオームマリウスにわかることは、水の中に入るということだけでも陸地では難しいということだけだ。アーサーの家は海沿いにあった。桟橋からそのまま海に飛び込んでしまえるような場所に。だがオームマリウスがあの家にいることが苦痛を感じることを、ネレウスは早い段階で見抜いた上で、息抜きといいながら水たまりを用意した。陸地で生きたことがある人間のようなことを言う。陸地で水もなく生きてきたような風格を出すので、人生の地層を思う。水溜まりーー足先を入れて、震え上がる程の呼び声を聞いた。アーサーと話をするとき、必ず浮かび上がる意見の相違などという言葉では足りないほどの溝を埋める言葉を探すことへの疲労感がオームを包み込む。お前は大事だと思ったものはないのか。アトランティスだ。そんな問答を受けて、アーサーが息を呑む。そうじゃなくてーーそうじゃない、父さんとか母さんとかメラとか、いただろ。お前を大事に思う人が。 オームマリウスが何も言わないままアーサーを見つめて、ネレウス様が、と言葉少なく呟いたとき、アーサーはネレウス?と信じられないものを聞いた声を出した。あのおっさん?という。ゼベルの国王だと言えば、そうなんだがと言った後、メラの親父さんって意識が強くて、という。そしてもごもごと、苦手なんだよな、何考えてんのかわからなくて。とも。何を。何を?ゼベルの国を考えているのだろう。オームの発言はそれ以外に何があるんだと聞いているようにーーアーサーには責めているように感じたのかもしれない。家族のことは?と。家族はどうなんだ、孫の顔をみたいとも言わないんだぞと言う。オームは単純に、それはあの方が首を出す領分ではないからだろう、何かあれば相談するといい、案は用意されているはずだ。とアーサーに告げたのはオームなりの歩み寄りであった。アトランティスにも悪いことにはならないはずだ、と。だがアーサーは喉をつまらせて、そしてオームを少し遠くを見るような目で見たあと、俺はお前のことが大事だよといった。何をいきなりそんな違う話になったのかがわからなかったオームは、必要だからだろうと返したが、結局話は続かなかった。アーサーと話すことが大事だと言う。だがいつもこうなってしまう。その度に、間違えたことを知って、ーー、そもそもアーサーと会話の糸口を見つけることはオームマリウスにとっては難易度の高い作戦のうちの一つである。何を話していいのか、どの会話が効率的で最も効果があるのかが分からない。最初はメラの話をした。ダメだった。アトランティスの話をした。これも上手くいかなかった。趣向を変えて、砂漠にいた時の話をしようとしたが、オームマリウスにはユーモアが無かったからその時の空気が本当に一番どうやらダメだった。後々メラから、アーサーが本当にへこんでる、と連絡を受けてもオームは何がダメだったのかわからなかった。オームマリウスはその話はやめた方がいいのだなと思った。足先を水に入れた瞬間の歓喜は身体が知っている。いつでも使いなさいと差し出された環境を、オームマリウスは享受できる。ネレウスという人間が誰にもしないことだ。アーサーはネレウスがわからない、というがネレウス程オームにとって分かりやすくそして、割り切った人間も知らない。冷たいのではなく、優先順位を間違えないだけだ。それは、オームマリウスにも。あの人のーーネレウスという朱赤の寵愛を望む回遊は多い。それは単に手管と言うよりは、一時の遠い邂逅を懐かしむ感情に近い。差し出せば与えられる。遠いアトランティスの向こうのような。本来なら、何も無くなった、既になんでもない、はるか遠くアトランティスを置くようなオームマリウスを相手にする余裕も隙間もない人だ。昔から忙しく、そして時間のない人間だとオームはしっていた。オームマリウスだけが。それでも乞えば必ずネレウスはオームマリウスに応えた。同盟国の王だったから。時には王子だったから。だがーー今は。今でも、ネレウスはなんでもないオームマリウスの望みを聞こうとする。側面がある人だ。様々なカッティングをもっていて、人生にグラデーションがあるからこそ、あんなに眩しい。朱赤の証明を欲しがる人間の多いことをオームマリウスだけは、正しくその価値をしっていた。ネレウスに求めるということは、必ず代価が発生する。オームマリウスがまだ王座の冠を頭に乗せていた頃支払った代価はアトランティスが支払っていた。では、今のオームマリウスが支払うものは。オームマリウスは足先からするりと水の中に体をいれた。何も身に纏わぬまま。ネレウスはオームがここにいると必ず顔を出した。どれだけ忙しくて、どれほど時間が無くとも。全ての事柄は些細な事にすぎないという顔をして。代価を。アトランティスのものではないオームマリウスを望む。あの真意を、掴めずにいる。
 身体を、求めたのは、オームマリウスが先だ。
 ここまでして頂かなくても、と固辞したオームマリウスに、ネレウスは特にあなたに代償を差し出して貰おうとは思っていないがと嘯いた。あなたを飢えに晒しておいて?ネレウスは時々、世界から隔たれた方がマシだという顔をしてそんなことを言う。だからオームはネレウスに提案した。それは提案したなどという言い方をしたが、卑怯にも断れないようにしたと言った方が正しい。だったら、と。この飢えを満たすのはあなただ、と。欲しかった、どうしても。この朱赤の邂逅が欲しかった。振り返ってもフェアではない。差し出す価値もないだろう、こんな既にアトランティスの色も持たない体と心を。だがネレウスはそれを代価として受け入れた。代価と言っていいのかも分からないそれを。何度も。いつか代償を支払うのはオームマリウスだ。朱赤を求めて、邂逅を独り占めしている。オームを相手にすることになってから、他にひと時の遠い邂逅を与えていないことを知った。聞いたといった方がいい。ゼベルの宰相が零した言葉をひろってしまっただけだが、彼のためにオームは聞いてないというスタンスを崩したことはない。あなたみたいな方がおひとりに傾いているのはいいことだがな、と。それがアトランティスの燃え滓でも?自嘲的な笑みが浮かぶ。いいはずがない、オームマリウスだけが知っている。
 水面が触れる。振動で伝わった声色に、オームは目を開けて水面に顔を出した。少し離れた場所に、ネレウスがいた。陸地でいう真夜中だったが、来るとおもっていたという感情と、あなたに会いたくてここにきたのだという打算の感情が渦巻く。伝えたいことがあるのだとしたら。朱赤をしってから、オームに深淵の日はない。漣のように染み込んでいく。いい夜だ。素直にそう思える。こちらに、と示すようにオームが動かずにいると、ネレウスはやれやれという顔をしてジャケットを脱ぎ捨てた。白いシャツと、ベストが顔を出す。足先のスラックスが水に触れる。ネレウスはどれだけ質のいいものを揃えても、一度しか袖を通さなかった。ネレウスは水の中で泳ぐオームを見ることをとても好いていたから、水辺に座り込んで、どうする?というようにオームを見ている。何も聞かない。ネレウスというのはそういう人間だった。オームを深く落としていく時すらも、何も聞かない。口付けが深く、輪郭を混ぜていく時でも。波のように優しいように見せて、ネレウスは相手に錯覚させることがとても上手い。オームには見せない手管のひとつだ。あなたの好きなことだけ、とオームに言う。して欲しいことは?と言いながら、答える前にオームの望むことをまるで自分がしたかったことだというように行ってしまう。浅はかな男ですまないねといいながら。代価だと言い聞かせて、ネレウスと声に乗せる。グラデーションをかけながら。欲しい、と言う前に。シャツのボタンを外したネレウスがスラックスを脱ぎ捨てながら、「おいで。」ネレウスの強請る声が届く。身体が勝手にーー自然に、ネレウスの元へと泳ぐ。焦がれている。もうずっと。ずっと、あなたに。「くれるね?」今日こそ、オームマリウスが言うべきだったのに。触れた唇が離れていくことが惜しくて、ネレウス、と囁いた。欲しいと声に乗せて。間近で、吐息が混ざった。ああ、本当に、いい夜だ。

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