今から
「あいつの茶金さん毎日毎日聞いてたら、オレの方が先に底抜けしてしまうで………!」
「飲み過ぎですよ、兄さん。」
草原兄さんの悲痛な声に、寝床にいた周りの客がざわついて視線が集まってくるのを感じた。
僕の頭の中では、あの緑姉さんの額に、三本目の角が生えようとするところだった。このまま勝手に手酌させていてもいいが、他のふたりの兄弟子に後でそういう場面が見つかると後が大層面倒なので、大人しく草原兄さんのコップにビールを注ぐことにした。
そんな僕のコップには、今は半分だけオレンジジュースが入っている。
酒はそこそこに切り上げて、さっさと帰ってねむたいというこちらの意思表示が相手に通じているとも思えないが、とりあえず次何にするというお咲さんからの突き上げを躱すことは出来る。
「そもそも、『底抜けする』てなんなんですか……。兄さんがそうやて言うなら、僕が先にソレになってないとあかんのと違いますか。アレを日に五遍も聞かされる身になってください。」
「五遍? あいつほんまにうちで稽古してんのか……?」
まさか、稽古しててアレなんか、と言わんばかりの顔である。
流石、恐竜頭の草々兄さんの兄弟子である。
直球で単純。
そうでなければ、あの師匠の元で弟子は務まらないということだろう。
今思えばの話だが、兄弟子があの三人であればこそ、僕が師匠の家に弟子として繋ぎ止められていられたような気もする。
「草原さん、お酒はその辺で止めときいな。そろそろ向かいから草太くん呼ぼうか?」
「あ、お構いなく。あいつも適当にどうにかしてると思いますんで。」
草原兄さんの子どもは、気が付いたら卒業もせずに象牙の塔でのモラトリアムを続けていて、出来たばかりの日暮亭でバリバリとバイトを続けている。
親に似て堅実な生き方を選びそうな顔をしているので一度は草原兄さんのように勤め人になる経験を積むこともあるのかと思っていたが、あの年でもまだ就職を決めかねているようだった。
「カップ麺とかしょうもないもん食べて残業するなら、バイト適当に抜けて、うちに食べに来たらええのにね。……あ、適当て言うたらアカンか、若狭ちゃんとこで仕事してるんやった。」
「うちは緑が教育に悪いていうて、カップ麵みたいなもんよう食べさせんかったから、そういうのが今でも珍しいんやと思います。」
「夜まで働かせて、いつレポート書いてるんですか?」
「バイトの時間に書棚にある落語の本を読んで、隙間時間には師匠方にインタビューしながら、実地で勉強してるて言うてたわ。」
この梅田に最低賃金ギリギリの時給というので、そもそも落語好きな学生ですら、他所のアルバイトで稼いできて日暮亭に通う方がラクという有様で、ほとんどバイトの成り手がないのである。内弟子修行を終えた落語家の卵に対しても同様で、日暮亭がバイトの受け皿になれるかと言えば難しい。
そんな中、広報のホームページを作るにも運営するにも身内頼みということで、若くて吸収の早い草原兄さんの子どもは、八面六臂の大活躍である。
「……珍しいね、草原さんが愚痴とか。」
「いつもの小草若さんの調子で、茶金さんが底抜け~て言うのが、そもそも草原さんや草々くんには受け付られへんと違うか? いつも草若さんの落語が心にある、っちゅうこっちゃろ。師匠冥利やなあ。」
「ってあんた、いい話にまとめようとしてない? 草若さんの襲名披露は目の前やで。もうふたりともそれではあかんのと違う? もうおらへん師匠の草若さんより、目の前の小草若さんの落語をちゃんと聞いて、いいか悪いかの感想言ってあげへんと。小草若さんも、それではうまい事成長出来へんと思うわ。」
お咲さんが一席ぶつような勢いで言うと、酔っていたはずの草原兄さんが、ホンマですなあ、と泣いて拍手をし始めて、周りにいた客も倣って拍手をした。
「お前の方がうまい事言うてるやないか。」とカウンターから出て来た熊五郎さんに肘鉄を入れられる勢いである。
「えっ……そう?」と照れた顔で笑っている。
まあ、この人ら、草若兄さんの茶金さんをまだ聞いてへんけどな。
草若兄さん、今からでも寿限無に戻しませんか。
僕がそない言うたら、あの人、また拗ねるやろうな。
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