一瞬の交わり
「今日は帰りたくない」
その言葉にときめきの一つでも感じることが出来たらよかったのに。
明浦路司の身体から出てきたのは冷や汗だった。
なぜならそう言ってきた相手──帰りたくないと訴えてきたのは夜鷹純であったからだ。
夜鷹純。
麗しの男子フィギュアスケート金メダリスト。
加えて明浦路司の人生のさまざまなターニングポイントの起点となった、あの夜鷹純である。
夜鷹純が光のコーチを辞めた、という話は鴗鳥から聞いていた。同時に夜鷹が姿を消した、とも聞かされた。司が何らか情報を持っていると思ったのかもしれない。それこそ藁にも縋るように。
司と夜鷹の関係というと、夜鷹と鴗鳥の深夜のスケートリンクの貸切に司が数回参加させてもらったことがあるくらいだ。
鴗鳥経由で誘われた貸切には必ず夜鷹がいた。鴗鳥に誘われてほいほいと喜んで行った司は、毎回のびのびと滑っている金メダリストへ勝手に気まずい思いを抱いていた。
「純くんが明浦路先生のことも誘ってみたら、と言うんですよ」と鴗鳥はにこやかな笑顔で言っていた。ちなみにそれは鴗鳥による気遣いであると司は思っている。夜鷹は司がリンクを訪れても、司のことなんて全く目に入らないようにひたすら氷の上を滑っていたからだ。
それを気まずく思ってもしかし、勉強にはなる。司は図々しくも鴗鳥に誘われる度にリンクを訪れていた。金メダリストと銀メダリストのスケートを間近で見られるなんて、滅多にないチャンスだ。
夜鷹と司の関係と言えばそれくらいだ。強いて言うならスケートに誘ったり誘われたりする関係?
それだけ言うと親しげに聞こえるけれど、鴗鳥を介して、という言葉が間に挟まるためふたりの間に会話はない。目が合うこともほとんどないので関係性なんてあってないようなものだろう。
そもそも司自身も夜鷹と何らかの関係性を作ろうという積極性もなかった。あの夜鷹純が自分のことなんか相手にするわけないだろ。
その夜鷹純である。
司が勤めている大須のスケートリンクを後にし、帰路に着いた時だった。キンと冷えた街灯も少ない夜道。いっとう深い夜闇がぬらりと司の目の前に現れた。それは人型をしていて、だから司はすんでのところで悲鳴を上げることを回避出来た。よくよく見れば辺りから浮くくらい白い顔も認識出来る。その造形はとてつもなく整っていて、一方的に見慣れている夜鷹純の顔をしていた。
「泊めて」
何の前触れもなく目の前に現れた夜鷹はそう言った。とめて、の意味が分からず司はその場でしばらく呆然としていた。フリーズ。そんな司に夜鷹は思いっきり舌打ちをした。人っ子一人いない夜道に鋭い音が響く。
あまりの情報量にパンクしたままの司は、それでもぎこちない動きでポケットに突っ込んでいたスマホを取り出そうとした。連絡先はもちろんあの人だ。夜鷹純を引き取るのに相応しい人物。
「慎一郎くんには言わないで」
脳内を読んだかのように夜鷹は鋭い声で司の動きを制した。そうなれば司は動きを止めるしかない。今一番使うべきスマホを封じられてしまった。
ここからどうする。相変わらず夜鷹は司を真正面から見ていた。その目線に司はひたすら冷や汗をかくしかない。
それでもどうにか、半ば無理矢理口を開いた。コミュニケーションを取るには言葉を使うしかないので。
「……えーっと、夜鷹、サン。えっと、どうしたんですか?」
「泊めてって言ってる」
「とめて?」
「君のところ、泊めて」
夜鷹純とは意思疎通が不可能に近い。司は脳内の夜鷹純ウィキペディアを更新した。更新したくなかったこんなこと。
「いや俺なんかより鴗鳥先生とか」
「慎一郎くんのところにはいけない」
「ていうかご自宅は」
「帰れない」
「……何で俺?」
「君がそこにいたから」
つまり通りすがってしまったから掴まってしまったと。ハァ、よく分からない。自分は夜鷹純から情報を引き出すことすら出来ないらしい。
再び闇を切り裂くような鋭い舌打ちをした夜鷹純は司に一歩詰め寄った。自分よりも背丈が小さいはずの夜鷹は、目の前にするとひれ伏してしまいたいくらいの迫力がある。上目遣いがガンつけになることもあるんだ。現実逃避をしたまま月明かりを思わせる目を見ていた司は、どこか他人事のようにそう思った。
「今日は帰りたくない」
夜鷹の言葉で現実に引き戻される。
そう言われて司は冷や汗が止まらなかった。だってどう考えたって面倒ごとに巻き込まれてる! それもとびきり酷いやつ!
とは言え自分が夜鷹純に逆らうことが出来るのか?
そう聞かれると答えは一つしかない。
ノー。
明浦路司は夜鷹純のお願い事を断ることが出来ない。……お願い事なんて可愛らしいものではないかもしれないけれど。これはほとんど命令だ。
結局司は夜鷹を連れ帰った。その道すがら自分は一人暮らしではなく居候で、居候先の家に帰る、ということを伝えた。三度目の舌打ちをした夜鷹に司がスマホを取り出そうとすると、夜鷹は渋々、といった顔で頷いた。
夜鷹純を連れ帰ってしまった。見慣れた景色に慣れない人がいるというのはとてつもない違和感があった。これが夢だと言われた方がまだ信じられる。司は玄関に入ってこっそり自分の頬を抓った。痛い。現実である。
司の居候先である加護家の人々は寝静まっており、夜鷹の侵入をあっさりと許してしまった。その手引きをしたのは司自身なのだけれど、とんでもなく悪いことをしている気がする。今目の前に加護が現れたらどんな言い訳をしたらいいのだろう。想像しただけで司の全身から冷や汗が吹き出した。
さて、家に帰った司は夜鷹にシャワーを浴びさせ、コンビニで買った下着を着せ、自分のスウェットを着させた。夜鷹には手持ちの中で一番いい寝間着を渡したと思ったが、それでも毛玉のついたそれを着せるのは罪悪感があった。だって明らかに相応しくない。夜鷹純はシルクのパジャマとか着ていて欲しい。夜鷹自身は文句の一つも言わず、大人しく司のスウェットを着ていたけれど。
司もシャワーを浴び、静かに自室に向かう。
「じゃあここで寝てください……」
司は出来る限りのベッドメイクをし、夜鷹に自分の寝床を明け渡した。また何も言わない夜鷹が司の言葉通りベッドに潜り込むのを見て、司は部屋のドアノブに手を掛けた。
「君は?」
「俺は下のソファーで寝ます」
「……どうして」
「流石に床はちょっと……」
「ここで寝ればいい」
夜鷹はもぞもぞと壁側に寄り、ベッドの掛け布団を捲った。司は少し開けられた空間と夜鷹を交互に見た。夜鷹は何も言わないし相変わらず布団を捲ったままだ。
「はぁ!?」
「うるさい」
「すっすみません……」
どうして自分が叱られているのだろう。夜鷹の方が家主みたいな顔をしている。
「でもこれシングルですよ。そこに男二人はちょっと……」
「僕は気にしない」
「俺が気にします」
「……じゃあ僕がソファーで寝る」
「いやそれは!」
万が一下のソファーで夜鷹を寝かせ、加護家の誰かと出くわしたりしたら。……司の取る行動は一つしかない。
身体を起こそうとした夜鷹の肩を押すと、夜鷹は大人しく再びベッドに仰向けになった。そうしてここで寝ろといっている目と目が合う。
「……おじゃまします」
「ん」
司は大人しくベッドに入った。シングルベッドに成人男性二人が横たわるのは狭くてギチギチで、司の背中に夜鷹の背中が当たっていた。距離を取りたくともこれ以上離れようとすると司が落ちる。絶対セミダブルの方がいいよ! 司くん大きいんだから! そう言っていた加護の好意を固辞したことを後悔する日が来るとは思わなかった。ベッドの背丈は自分に合わせているから大丈夫だとしても、幅が明らかに足らない。
背後からひしひしと夜鷹の気配を感じる中で、当然だけれど司は眠れなかった。いる、と思うだけで意識してしまう。逆に意識しないようにしよう、と思えば思うほどまた夜鷹の気配を意識してしまう。だってどう考えたところで夜鷹純はそこにいるのだ。司は身体をギチギチに硬くしたまま横たわるほかない。
「……熱い」
独り言のような言葉が背後から聞こえた。跳ねそうになる身体をどうにか抑え込んで、司も小さく言葉を返す。
「すみません、俺体温高くて」
「体調不良?」
「いや平熱です。俺平熱が三十七度あって……」
「いつも具合悪いってこと?」
「元気だから大丈夫なんだと思います」
ふうん、と言われた次の瞬間、足に何か巻きつけられた。氷のようにひんやりとするそれが夜鷹の足であることに気が付いた司は、更に身体が硬くなった。そんな、あの夜鷹の足。美しく滑り、美しいジャンプを跳ぶ足。それが自分の足に絡められている。嘘みたいな話だ。
「あとうるさい」
「え、俺声大きいですか」
「声というか、気配」
「それは……」
すみませんとしか言いようがない。そもそもですね、夜鷹純が隣にいてすぐ傍で寝てて何も感じないって方がおかしいんですよ。司はそう言ってやりたいような衝動に駆られそうになったが堪えた。そんなこと言ってどうする。
「……何か話して」
「へ?」
「寝れないから。何か話して」
夜鷹の言葉は暴君のくせに頼んでくることは幼児のようだった。その言い方にこの居候先の少女である羊の幼い頃を思い出させた。寝る間際まで齧り付くように読んでいる本を取り上げてどうにかベッドに寝かせると、何か話して、眠くなるまで話して、とよくねだられていた。
だからその子に話すように話してやった。
「えーっと今日は朝からいい天気で、ランニングするのにちょうど良い日でした。途中でよくすれ違う犬……ゴールデンレトリバーなんですけど、その子を撫でて、家に帰ってきて、朝食の準備して……。卵焼きが上手く焼けて、羊さんが朝ご飯を残さず食べてくれました。羊さんが学校行くのを見送って、家事して、適当に昼飯食べて午後からリンク行って、資料まとめたり事務仕事して。いのりさんのレッスンをして、今日は貸切だったのでまた練習があって。それでリンクを出たところで夜鷹さんと出くわしましたね」
オチも何もないただの司の一日。羊には家と学校以外の生活があることが新鮮だったようで、意外とウケていた。
夜鷹はどうだろう。反応とか気にしなくていいかな。話せと言われたから話しただけだし。
「それが君の一日」
「そうですね。大体そんな感じです」
「全然滑ってない」
「まあ、俺はコーチですから」
夜鷹は何も言わなかった。そう言えば数ヶ月前、自分はこの人に証明すると啖呵を切ったのだった。その証明は結局出来ていないままで、それでも夜鷹はその話題について触れなかった。だから司もわざわざ触れない。
お互い黙っていたものの、まだ起きている気配がする。夜鷹は司の気配を騒がしいと言ったが、夜鷹の気配もそれなりに圧がある。
「……そう言えば、いつか言わないといけないと思ってたんですけど、鴗鳥先生との貸切の時に何度もお邪魔してしまってすみませんでした。きっと鴗鳥先生が俺のこと誘うから断れないんですよね? それが申し訳なくて」
夜鷹と司の共通点、かつ出来るだけ衝突しないもの、となると、あの貸切のリンクの話題くらいしか思い浮かばなかった。
「それ慎一郎くんが言ったの」
「いや鴗鳥先生は夜鷹さんがとは言ってましたけど」
「君は慎一郎くんの言うことが嘘だと思ってる」
「嘘とまでは言いませんが……」
お世辞か社交辞令だろうとは思っている。「純くんが明浦路先生のことも誘ってみたらと言うんですよ」そう言っていたのは鴗鳥だが、どうも信じられなかった。きっと恐縮している司の緊張を解すために行ってくれたのだろう。
「……言葉は素直に受け取った方がいい」
夜鷹は唸るように言った。言い含める、というよりは苦々しさが滲み出たような言葉だった。
「え?」
「僕が慎一郎くんに言った。慎一郎くんは嘘なんか言わない」
「はあ」
つまりは慎一郎の言葉には裏も表もなく、ただ夜鷹が司を誘ったという事実だけがあるらしい。
それを咀嚼するのに司はたっぷり一分も使った。夜鷹が司を誘ったのだ。え、マジで?
「でもあの夜鷹純ですよ!?」
「どの」
「あのー……スケートが死ぬほど上手くて、金メダリストの……」
「そんなのただの一側面だ」
夜鷹は吐き捨てるように言った。しかしそんな側面しか知らないくらいには司は夜鷹のことを知らない。リンクの上で恐ろしいくらいに美しいジャンプを跳んでみせることは知っている。それらが現役時代より美しくなっていることも。
そんな夜鷹が何を言おうとしているのか、司は知らない。
「……僕はよく慎一郎くんに言葉が足りないと言われるけど、嘘は言わない。言いたくないことも言わない」
夜鷹の声は低く小さかったが、真夜中のしんとした部屋ではよく響いた。
「君に嘘を吐く意味もない」
夜鷹は言う。
「君のスケートは目を惹く。記憶に残るくらい」
咄嗟に何も返せなかった。夜鷹純の言葉に嘘はなく、真っ直ぐ司の目の前に差し出される。
その言葉を受けて目の奥から溢れてきたものは、枕代わりのクッションに吸い込まれていった。
それがどういう感情から湧き出たものなのか、司自身も分からなかった。それらを一言で言い表すことは出来なくて、いくつもの感情や思いがない交ぜになっている。
それらは自分が今まで経験したことに付随してきたものたちだった。それらは司を形作り、同時に縛り付けているものでもあった。それらの一部が今、僅かに緩んだのが分かった。
司は深く息を吸った。つんと冷えた部屋の空気は、一瞬だけ氷上を思い出させた。
「そ、れだから、誘って、くれたんですか」
「君はまだ滑れるだろ」
司は夜鷹の頭の片隅にいるらしい。そこにいる自分はリンクサイドではなく、リンクの上に立っている。
「はは……。まだ言ってくれるんですか」
「褒めて、」
「褒めてないんですよね。知ってます」
それでも司はその言葉を噛み砕いて飲み干した。苦いけど甘い。そんな言葉だった。
「それでも俺は嬉しいです」
夜鷹が自分に向けた言葉だったから。
「褒めてないのに」
「いいんですそれで」
背後から僅かに戸惑った気配を感じて、司は少しだけ笑った。それは少しだけ空気を震わせ、闇夜に溶けていった。
それきり黙ってしまった夜鷹に、司は何も言わなかった。ひしひしと感じる気配には少しだけ慣れてしまった。気安いまでは思わないが、少しだけ息がしやすいような気がした。
背中にある気配に体温が混じり、ゆっくりと暖かくなっていく。そこにいるのは司の根底というより、ひとりの人だった。
ぼろぼろとこぼれたものを出し切ってしまった司は、その温もりに身体を委ねた。強張っていたはずの身体からするすると力が抜け、ゆっくりと意識が落ちていく。
肩を揺さぶられ、ゆっくりと意識が浮上した。目の前にはいっとう暗い夜闇があった。
いつの間にかベッドを抜け出した夜鷹はいつの間にか自分の服に着替えていた。
「帰る」
それだけ言って、夜鷹は司の部屋を後にした。部屋の中はまだ暗い。その中で急いで起き上がった司は、足をもつれさせながら夜鷹の背中を追った。
玄関でようやく追いつく。それでも夜鷹に何を言っていいのか分からなかった。引き止めるだけの理由も関係性もないのだ。ここにあるのは偶然と夜鷹の気まぐれだけだ。
でも見送りくらいはしていいだろう。司はとりあえずスニーカーに足を突っ込んだ。
革靴を履いた夜鷹がくるりと司に向き直った。こちらをじっと見る視線は、昨日感じたような迫力や圧力が減っているように思えた。
「……赤くなってる」
そう言って夜鷹は司の目元に手を伸ばしてきた。ぐ、ぐ、と親指で目元を押される。存在を確認されているような触り方だった。夜鷹の手は想像していたよりも冷たくなかった。
それから夜鷹は司の右手首を掴んでグッと引いた。されるがままの司はそのまま夜鷹の胸に抱き止められる。片手を背中に回され、ぽんと優しく叩かれる。抱擁と言うにはぬるく、触れ合いと言うには僅かに親密さを感じさせた。近づいたときに香ったのが自分と同じシャンプーの香りで、何とも変な感じだった。そこだけ抜き出すと自分たちが親しいみたいだった。それでもすぐに夜鷹は司を解放し、再び背を向けた。夜鷹に握られた右手首にぬるさだけが残っている。
玄関を開けると空の端から僅かに日が滲んでいるのが見えた。きっともうすぐ夜が明ける。
夜鷹は夜明けに背を向け、まだ深い眠りにつく街の方へ足を向けている。黒いコートを着た背中はきっとすぐに見えなくなってしまうのだろう。
「あの、……あの! また一緒に滑りましょう。よければまた誘ってください」
司は明け方の街で黒い背中に向かって言った。夜を纏った男は一瞬歩調を緩めたものの、すぐに足を速めて夜闇に溶けていった。小さくなっていくその背中を、司はいつまでも見送った。
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