RGB

 じっ。
 と一点を見つめているときの季肋くんは、一点ではなくすべてを見ている。というのは、私自身がその視線に晒されて初めて気づいたことだ。
 内も外も余さず観察されて、記憶されて、解釈されて、手元の紙に写し取られる。そうされたとき感じるのは少しの気恥ずかしさと誇らしさ。こんなことを思うのもおこがましいかもしれないけれど、私も季肋くんの成長の養分になれているのかなって、……そんなことを考える。
 まあでも、今、彼に観察されているのは私ではなく――。
「……んあ~っとォ……季肋サン……」
「動く、な……」
「ハイィ……」
 センセェ、と目と口の動きで助けを求められる。もうちょっとだけがんばれ、とガッツポーズで激励を返してから、私は周囲に視線を投げた。集中している季肋くんの邪魔にならないよう、こっそりと。
 時刻はもうすぐ深夜にかかろうとしている。なんだかんだでいつも人の絶えないHAMAハウスのリビングは、今日にかぎってはかったように静かだった。ここにいるのは三人だけ――私と、衣川季肋くん、そして五十竹あく太くん。
 事の起こりは三十分ほど前。残業を終えて帰宅した私が、珍しくひとりでリビングにいる季肋くんを見つけたことから始まった。
 
 声をかけてみれば、スケッチブックと睨めっこしていた季肋くんはぱっと顔を上げて、小さくおかえりなさいを返してくれた。その様子がなんだかすこし気恥ずかしげだったから、疲れでハイになっているのもあいまって好奇心がむくむく膨らんでしまう。
「絵、描いてたの? そっち行ってもいい?」
「ん……どう、ぞ……」
 ソファの足元で膝を抱えていた季肋くんの隣に座り込む。そっと傾けて見せてくれたスケッチブックには、昼班のみんな、それに何人かのHAMAツアーズのメンバーの姿が描かれていた。紙面いっぱいの素敵な笑顔と、彼らを彩る色鉛筆の鮮やかな色彩。
「夕方、帰って、きて……リビング、楽しそう……だった、から。ずっと、描いて、た……」
「そうなんだ。いい絵だね、見てるだけで声も聞こえてきそう」
 夕班の千弥くんに太緒くん、宗氏くんと潮くんが囲んでいるのはボードゲームだろうか。
 練牙くんと七基くんと幾成くんの手元には折り紙がある。笑顔の凪くんと、糖衣くん、それから優しい眼差しの琉衣くん。リビングは大盛況だったみたいだ。
 けれど、めくられるページを一枚一枚見ているうちに、無視できない違和感に気がついた。スケッチブックのイラストは全員、丁寧に色が塗られているのに――たったひとりだけ、どんな色も乗っていない人物がいる。
「……ね、季肋くん。聞いてもいい? ……あく太くんに色が塗られてないのは、どうして?」
「う……」
 正確には、塗ろうとした痕跡はある、ようだった。他の人たちと同じように、季肋くんらしいカラフルな色を。
 ただそのどれもが曖昧に掠れ、途中で止まってしまっている。この色じゃない、とでも言うように。
「非難してるわけじゃないよ。どうしてかなって……」
「……わ、から……なく、て」
「わからない?」
 消え入るような声で囁かれた言葉に首を傾げる。季肋くんは下唇を噛み締め、オレンジ色の色鉛筆をスケッチブックの上のあく太くんにかざした。
「五十竹、は……。まばたきするたび、違う色、に……見えて。全然、わから、ない……決、められ、ない……」
 訥々としながらも、季肋くんは苦しみを吐いて出すようにそう言った。わずかにひそめた眉は内に激情を秘めたしるしなのだと、今の私は知っている。
 色彩は季肋くんの感性そのものだ。大切な友達の色が掴めないのは、私が想像する以上にストレスなのだろう。
「私なんかが言っていいかわからないけど……ちょっとわかるな。あく太くんってきらきらしてて、いろんな表情を持ってて、目を離した瞬間全然別人になってるような……不思議な魅力があるよね」
「っ……」
 季肋くんが声なくうんうんと頷いている。同意を得られたことに安心して、もう一度スケッチブックに目を向けた。
「……本当に、いろんな顔を描いたんだね。季肋くんの目に映ってるあく太くん、すごく素敵だと思うな」
 素敵、だからこそ。思うように彩れない苦しみは計り知れないはずだ。かといって、絵の知識もセンスもない私に助言なんてできるはずもないし――。
 と、一緒になって唸るしかなくなりそうになった頃、救いの主の声が耳に飛び込んできた。
「あ、先生おかえり! ……と季肋ゥ? まだ残ってたん?」
 まさに渦中の人物、五十竹あく太くんが肩にバスタオルをかけてリビングに顔を覗かせていた。お風呂上がりらしく、いつものヘアバンドはつけていない。ほかほかとあったかそうだ。
「あく太くん! ナイスタイミングだよ!」
「へ?」
 立ち上がってあく太くんを連れ季肋くんのもとへ戻る。両肩に手を置き目の前に座ってもらって、「どうかな!?」と季肋くんに問いかけた。
「満足いくまで、じっくり見てみる……っていうのは!」
「へ? へ? センセ、何ィ!?」
「満足、いくまで……」
 静かに目を白黒させていた季肋くんの、まとう空気が、変わった。すうと息を吸い込んで、スケッチブックの新しいページをめくる。
「ごめんね、あく太くん。少しだけ協力してほしいんだ。……あく太くんの色が、見つかるまで」
「……オレの、色~……?」
 怪訝そうに眉を寄せていたあく太くんは、しばらく首を傾げて唸ったあと「ん~……ヨッシャ!」と座った太ももを叩いた。あぐらをかいて座り直し、いつものきらきらした笑顔を季肋くんに向ける。
「なんかよくわかんねーケドォ……季肋がンなにシンケンなんだったら、協力しないワケねーっしょ! よーっく見ておくんなァ!」
 季肋くんは一瞬手を止め、目を見開いた、みたいだった。足元に散らばる色鉛筆の一本を掴みかけ、しかしすぐに手放す。
「……ん……ありがと、五十竹。……しばら、く……その、ままで……」
「ほいよォ」
 軽快にそう応えたあく太くんも――その“しばらく”が自分にとってとてつもなく長い時間になるとは、思ってなかったようだった。もちろん、私も。
 
 ソワソワウロウロ視線を彷徨わせるあく太くんにもう一度激励のガッツポーズをし、ひそかに時計を見る。軽率に提案してしまった以上、私が責任を持ってストップをかけなければならないだろう。じっとしているのが苦手なあく太くんにモデルを続けさせるのは酷だ。
 そのうえ時間が経つにつれ、季肋くんの手に取る色もどんよりした寒色系が増えているように見える。これはこれで実際に見えている色なのだろうけれど、あく太くんの色かと言われると……季肋くん本人も納得していないみたいだし。露骨に眉間に皺を寄せている。
「……セ、センセェ~……っ」
 そんなことを考えているうちに、蚊の鳴くような声が聞こえてきて慌ててそちらを向き直る。“もう限界”と大きく書いてある顔で眉を八の字にしているのを見て、私は意を決して季肋くんのほうを振り返った。
 残念だけど今日はここまでにしよう? ――と言おうとした、そのとき。
「ね、先生、ゆび……」
「ゆび?」
「指、つまんでてェ……」
 思わぬ言葉と共に目の前にあく太くんの人差し指が差し出され、彼の顔と指とを交互に見る。あく太くんと人差し指、といえば、福井のときに。
「ウル太、部屋に置いてきちまってんよ……風呂行ってたからァ……。だからさ、代わりに先生が握ってて。そしたらオレ、ジャンプしないでもーちょいがんばれそ……」
 ハッとして彼の人差し指を掴む。痛めないように、けれどつよくやさしく力を込める。あく太くんが友達のために精一杯頑張ろうとしてる、その手助けができるなら。
 あのときのクリップみたいにきゅっと握った指先に、あく太くんもきゅっと目をつむって。それから大きくゆっくり深呼吸をした。
「……な、季肋。どお? 見つかる?」
 瞼を開いて、細めた眼差しで季肋くんに微笑みかける。
「見つけてよ。……季肋だけの、オレの色」
 季肋くんの手が止まった。
 わずかに開いた唇から、息を吸う音が聞こえた。長く長く吸って、長く長く吐く。そのあいだ、季肋くんはあく太くんから目を離さなかった。じっと、何かを焼きつけるように見つめ続けていた。まばたきもせずに。
 数分にも感じられた時間は不意に終わる。カラン、と色鉛筆が床に置かれて、季肋くんはスケッチブックをあく太くんにかざした。
「――完成」
「マジィ!? ……って、なんも塗ってなくね?」
 首を傾げたあく太くんが言うとおり、スケッチブックの上のあく太くんには何色も塗られていない――笑顔の周りを迷うようにたくさん色が重ね塗られているだけだ。もちろんこれも、素敵な作品に見えるけれど。
「塗ってないんじゃ、なくて。スケッチブックの、白、が……いちばん鮮やかな、白……だから」
「てことはァ……オレの色って、白?」
「…………」
 季肋くんはふるふると首を横に振る。うっすらとはにかんだ笑みを浮かべ、スケッチブックと実物を交互に見ては満足そうに頷いた。
「……全部、だ……」
 
 
 
 解せない顔をしたままあく太くんは部屋に戻り(あとでぜってェ教えろよな! と何度も振り返っていた)、季肋くんと私はふたりで後片づけをしていた。といっても、床に散らばった色鉛筆をしまいなおす程度のことはすぐに終わる。私も気になったのだ、季肋くんが見つけたあく太くんの色が。
「……主任、は……」
 そわそわしている私に気を遣ってくれたのか、季肋くんが口を開く。隣同士に座り直した私たちの目の前には、テーブルの上に置いたスケッチブックがあった。
「光の三原色、……って、知ってる……?」
「ええと。赤と、青と、緑だっけ。RGB、とか言ったりするよね」
「ん……全部混ぜ合わせると、白……、ひかりに、なる」
 ひかり。
 文字どおり脳裏で何かがぴかっと光った。一瞬のその向こうにあく太くんの笑顔が見える。季肋くんが迷いに迷って塗り重ねた色彩の真ん中で、真白い光を放ってあく太くんが笑っていた。
 そんなあく太くんが描かれたスケッチブックの一ページを、季肋くんの手が丁寧に切り離していく。
「画材の色、は、いくら塗っても……白には、ならない。俺、に見えてた、五十竹の、色は……だから、これが、正解」
 一枚になったページを差し出し、季肋くんは上目に私を見つめた。おずおずと、しかし意志の強い瞳で。
「主任。主任に、持っててほしい……今の俺に、見えた……五十竹の、姿。俺が見つけた、五十竹の、色……」
「私が? ……いいの?」
「……ん……」
 俺が持ってると、きっと、迷ってしまう。迷って、また上から色を塗ってしまうかもしれない。
 季肋くんはそんなことを訥々と語り、それから、「……あ……迷惑、なら……」とその手を引っ込めようとした。追いかけて両手で捕まえ、紙の上のあく太くんをそっとなぞる。
「迷惑なわけないよ。大事な役目を任せてくれてありがとう。……大切に、預かっておくね」
「……ありが、とう、主任」
 ほっと息をつく季肋くんに笑いかけ、「さて!」と小さく手を打ち合わせた。学生が起きている時間はとうに終わりだ。
「そろそろ部屋に戻ろう? あく太くんが起きてたら、ほどほどに説明してあげて。光の三原色のこと」
「ん……そうする。五十竹、すぐ寝そう、だ……」
 それはそれでちょうどいいかもしれない。秘密を共有するように密やかに笑い合って、部屋に戻る季肋くんの背中を見送った。
 リビングの明かりを消しても、カーテンの隙間から忍び込む月明かりはうっすらとものの輪郭を浮かび上がらせる。そこにかざしたあく太くんの笑顔は、本当に淡く光っているように見えた。
 明日の朝起きたら、額縁を買わないと。大切な預かり物を抱き込んで、私は深夜のリビングをあとにした。
 
 
 
 
 
 終

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