明日
いよいよやなあ。
明日の、草若弟子の会が私の、創作落語のお披露目会になる。師匠の手を借りずに仕草も何もかもを自分で決めることになる創作落語は、最後の仕上げのところで、草々兄さんのアドバイスも聞いて、なんとか形になったばかり。
完成度が高いとは言えないけど、もう泣いても笑っても明日が初高座。
普通ならワクワクドキドキ、てところなんやろうけどなあ……。
高座の前日に気持ちが高ぶってなかなか寝付けないというようなこともこのところはなくなっていたけど、師匠が危篤になってからは、お母ちゃんも一緒に寝てることもあって、なかなか寝られない状態が続いてる。その上、師匠の先代が使っていたという三番目の内弟子部屋も掃除して、小草若兄さんも隣の部屋で寝ることになった。
私らも寝られへんけど、小草若兄さんはもっとやろう。
草若師匠に扇子と手ぬぐいを渡されたあの日からもう六年……七年か。
毎日毎日、内弟子修行で、炊事洗濯と家事やって、あっという間に日が暮れて、と思ってた頃も、すっかり昔の話になってしもた。
師匠がまだまだ元気やったあの頃に戻れるなら、もっともっと家事も頑張って、落語も今と同じくらい頑張るのにな。
「きよみぃ、あんたちゃんと手ぬぐい持ったんか……。」
おかあちゃんの寝言に、なんや吹き出すような気配が隣からも聞こえて来た。
(お母ちゃん、もう~~~~!)
……もうふたりともとっとと寝てください、て言いたいけど、今日みたいな日にはそれも難しいやな。
草若師匠がこの家に戻って来るのは今日で最後かもしれへん、と思ってか、草原兄さんも四草兄さんも、いつもとは違って、師匠が身体がしんどい、とお部屋に引っ込んで行かれてからも、長いこと広間に居残って、ゆっくりお茶を飲んでから帰って行った。
片付けが終わってから、さあ寝よか、と布団に入ったはいいけど、流石の草々兄さんも、隣の部屋にいてる小草若兄さんも、いつものようには寝られないようやった。
目を瞑る前のお母ちゃんに、あんたも早く寝るんやで、て言われたけど、そんなん、なかなか出来るもんでもないし。
壁が薄いし、寝付けないようで寝返りを打ってるような気配は、隣からずっと聞こえて来てたけど、草々兄さんを差し置いて、小草若兄さんに寝られんのですか、と尋ねるのも違う気がするし。仮に話し込んでしもたとしたら、高座に上がる私たちに代わって師匠を見ててくれる予定のお母ちゃんを起こしてしまうやろう。それに、話せば話すほど、お互いに、きっともっと寝られんようになる気がして。
弟子の会の前日に、師匠の一時退院することが決まって、小草若兄さんが、天狗座よりうちの方が病院に近いから、と言って隣の内弟子部屋に越してきて今日が三日目。
ほんまは、病院での泊まり込みしててもおかしくない状況で、高座に上がる前に寝不足で倒れてはあかん、と言われて、ここに戻って来てたんやった。
これが病室なら、お前が今日師匠の部屋で一緒に寝るのは何もおかしないねんぞ、と夕飯の後で、草々兄さんに二度ほど小言を言われてたけど、そこまではええわ、と断った小草若兄さんは、結局、昨日と同じように隣の部屋で寝ることにしたようやった。
なんであいつはああ強情やねん、と草々兄さんはこぼしてたけど、師匠と一緒にいてたら泣いてしまうから一緒にはおられへんのかな、とふっと思った。
私が子どもの頃、おじいちゃんが倒れて入院してしもてから、うちの中で一番病室に通ってたのはお母ちゃんで、おばあちゃんは、顔を見せる時間を測ったように決めてて、直前まで、おじいちゃんの工房の中に風を通してみたり、自分の部屋にこもって三味線の練習したりしてた。
何でかな、とずっと思ってたけど、時々工房の外に立って、すっと伸びた背中で、中に誰もいない工房の畳の上のいつもの座布団を、まるでいないはずのおじいちゃんの背中を見てるみたいにして、じっと見つめてる時もあって、その時におばあちゃんの気持ちがちょっと分かったような気がしたのだった。
私も、おじいちゃんのいない工房でいつもの落語を聞いたりしたら、二階の部屋にひとりでおるよりずっと寂しいなる、と判ってても、落語を聞いてたらおじいちゃんが戻ってくるような気がして……。
あ、あかん、今泣いたら草々兄さんに聞こえてしまうわ。
なんやもっと明るいこと考えよう。
蟹すきとか……師匠ともう一遍食べたいなあ。
これもあかん……。
どないしたら良かったんやろ、とか、そんなん考え過ぎたらあかんてお医者さんからも言われてるのに。
真っ暗な部屋の中で、まだ寝付けていない草々兄さんと目が合った気がした。
(草々兄さん、私が寝られるようになんか落語してくれませんか。もう全然ダメです。)
無言で念を送ってみると(俺かてよう寝られんのにお前の面倒まで見てられるか。)という視線が返って来た気がした。
うっ……それは確かにそうなんですけど。
ただこうして横になってるのも不安ですやな……。
ここにお母ちゃんおらへんかったら、草々兄さんのぬくぬくの布団の中に入ってくけど、お母ちゃんだけやのうて、小草若兄さんも隣にいてはるから難しいし。
夜のしじま。
「こんにちわ、和尚さんいてはりますか? こんにちわ。おお、誰やと思たら魚屋の辰っつぁんやないか、さぁこっち入りなはれ。お子さんがお生まれになったということを聞きましたが、母子共にお元気ですかな? へえ、お陰さんで。産んだほうも生まれたほうもピチピチしとります……。」
小さな小さな草々兄さんの落語が聞こえてくると、お母ちゃんが寝返りを打った。
あ、これ、寿限無やないですか。
「親爺の言うのにはね「わしにとっても、こら初めての孫やさかいに、やっぱり出世するような名前を付けないかん」と、こない言いまんねや。ああなるほど、まぁ親心と言いますか、お爺ちゃん心と言うやつですなぁ。」
そこまで言うたところで、隣からゴソゴソと物音が聞こえて来た。
小草若兄さん、怒ってここに殴り込みに来るのとちゃうやろか、と思ったけど、そういう音とも違う。
落語は続いていて、その間も、静かに、こっちを起こさないようにそっと動く衣擦れの音が聞こえて来た。草々兄さんの話も続いている。
隣の部屋のドアが開く音が聞こえて、草々兄さんの落語もそこでやっと止まった。
「小草若兄さん、今からどこ行きなってるんですかね……。コンビニ行って、お酒買いなるんやろか。」
「今から、師匠んとこ行くのとちゃうか?」
「え?」
「いや、そんな驚くことか? 他に行くとこあらへんやろ。」
「いや、だって……。さっきは行かへんて。」
「あんなあ、この寿限無をあいつが覚えた後に、師匠が、小草若、て名前をアイツに付けたんや。」
初めて聞いた話やのに、そのことを私は、どこかで知っていたような気がした。
「こっから先はもうあいつ次第やけど、あいつかて、もう時間がないことくらい、分かってるやろ。」と草々兄さんは言った。
「小草若兄さん、明日になる前に、師匠と話せるとええですね。」
「そうやな。…………お前のおじいさんが言うたように、あいつも、師匠も、一回きりの人生や。」
お前も寝え、という小さい声が聞こえて来て、それから草々兄さんの寝息が聞こえて来た。
草々兄さんは師匠のとこ、行かへんのですか、とは、言えんかった。
それは、草々兄さんが決めたことやから。
小草若兄さんは、ずっとイライシャ=グレイの気持ちやったというたけど、グラハムベルは、こんな風に考えたことはなかったんと違うやろか。
私も、もう寝てしまおう。
明日も、ぎょうさんの人に笑ってもらえますように。
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