両手に花
「せんせーい、おはようございます!」
「お邪魔いたします」
からりと晴れた初夏のある朝、田原藩邸長屋の一室を二人の女性が訪ねてきた。来客の旨を妻に告げられ、渡辺登はのそのそと玄関先まで立っていった。
「おはよう、春沙くんに香玉くん」
「いやだ先生ったら、起き抜け丸出しじゃないですか。もうお天道様はすっかり昇ってますよ」
来客の一人、立原春沙が腰に手を当てて呆れ果てた声を出す。
「言い過ぎよ春ちゃん、先生は夜のお付き合いも多いんだから」
「その言い方やめてくれないか」
隣の斎藤香玉が真面目な顔で親友を窘める。登は決まり悪げに頭を掻いた。
「まあ、遅くまで酒を過ごしたのは事実だよ。君たちとの約束を忘れていたわけじゃないんだが、いつもの癖でね」
「ほんとかしら。とにかく早く支度してください、お昼になっちゃいますよ」
「わかったわかった」
春沙に背中を押されんばかりにして、登は長屋の奥に取って返した。後ろで香玉が登の妻にお持たせを渡していた。
春沙と香玉は、崋山という名前で絵描きをやっている登の女弟子である。気心知れた男弟子たちではなく、かしましい彼女らを連れて出かけたのには、登の側に訳があった。
「先生、こちらはいかがですか」
「ちょっと派手すぎないかな」
「そんなことありませんよ、奥様のお顔立ちにぴったり」
繊細な彫りが施された柘植の櫛を手に香玉が微笑む。そういうものかなあ、と登は腕を組んで首を傾げた。
三人が顔を突き合わせているのは、女性向けの装飾品を扱う小間物屋の店先だった。登の妻に贈る品物選びの参考に、春沙たちは連れてこられたのである。
「もう、先生! さっきからああでもないこうでもないって否定ばっかり。ほんとに選ぶ気あるんですか」
「あるよ、現にこうして店まで来てる」
心外だと言わんばかりに登が鼻先に皺を寄せる。不満げな春沙の耳元に、香玉が口を寄せた。
「春ちゃん、ここはぐっとこらえて。先生がへそを曲げて帰っちゃったら元も子もないわ」
「そうね……実際に連れ出せただけでも御の字だものね」
正確には春沙たちが登に連れてこられたというより、登を言いくるめて連れ出したのだった。妻に対してとことん不器用なこの師匠は、多少強引な手でも取らねば、櫛や簪や笄はおろか、ねぎらいの言葉の一つも贈れやしないのである。
「や、渡辺さん。両手に花じゃないですか、うらやましいな」
突然ばしりと肩を叩かれて、登はむせながら振り返った。
「ああ、長英くんか」
通りすがったのは登の仕事仲間、兼友人だった。もはや登の方には目もくれず、高野長英は爽やかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、麗しいお嬢様。何かお探しで?」
「今忙しいんです。一昨日おいでませ」
春沙がにべもなく言った。彼女は男性全般に興味が薄い。
「申し訳ございません。画塾以外で男性とは席を共にせぬよう、父から厳しく言われておりますので」
慇懃に頭を下げる香玉の様子に、登がにやりと目くばせする。
「うちの花は手ごわいよ。というか、私の目の前で粉かけないでよね」
「そうみたいですね。出直してきます」
「あ、待って!」
大人しく踵を返そうとした長英を引き留めたのは、意外にも春沙だった。
「お兄さん、先生よりは女心に通じてそうだわ。贈り物選ぶの手伝ってちょうだい!」
「あら春ちゃん、いい案ね。私からもお願いします」
登がぎくりと肩をすくめた。好奇心を満面に湛えた長英が首を突っ込んだ。
「贈り物って誰宛てなんだい?」
「先生の奥様よ」
「よしきた任せろ」
先ほどとは別種のやる気に満ちた長英が、いそいそと女二人に肩を並べた。
「あのね、人を野暮天みたいに言ってくれるけど、私は遊び場じゃちょっと名の通った」
「これなんかどうかしら」
「いいね、御新造様のお顔色には紅色が映える」
「このかんざしも捨てがたいです」
「聞いてる!?」
たっぷり夕暮れ時までかかって選んだ一品が、登の妻の気に召したかどうかは、後日春沙と香玉のみならず長英の元にまで礼の品物が届いたあたりから察せられるだろう。
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