ものいわぬふわふわ

 垂れた長い耳がふたつに、プラスチックの目がふたつ。グレーの綿のかたまりは、飛び跳ねるでも何かを物申すでもなく、それが使命だとばかりに、ただテーブルの上にちょこんと座っている。軽くジャンプしただけで部屋中の埃が舞い上がりそうな、雑多極まりない居間には少々不釣り合いだ。何を思ってあの人は俺にこんなものを。やはり真意を尋ねるべきだった。あの時はあまりにも驚きすぎて、お礼の言葉を言うだけでやっとだった。まさかこの歳になって、誕生日プレゼントにぬいぐるみをもらうなんて。
 思えば、ハン・ジュウォンが誕生日プレゼントを寄こすこと自体がおかしかった。サンベ所長の一周忌後は一度も会っていなかったし、その時にカトクも交換したけれど、それっきり連絡は取っていなかった。
 それなのに、ジュウォンは当日の夜、仕事帰りにわざわざ家までやって来た。いつもお世話になってるからとかなんとか言って、大きなラッピング袋を抱えて。
 玄関先で、星柄のやたらとファンシーな袋をいきなり手渡されて呆然とする俺に、ジュウォンはひとこと「誕生日おめでとうございます」なんてありきたりな言葉をかけたあと、すぐに「じゃあ」と背中を向けて車のほうへ走って行った。ものの数分の出来事だった。
 その日は一晩中、うさぎのぬいぐるみと睨めっこをしながら、得体の知れないギフトの意味及びハン・ジュウォンの行動についてを考えた。考えてはみたが、あっという間に考えあぐねたので、次の日、素直に当の本人へ物申すことにした。
 
 
『ねぇ、あれどういう意味?』
 スマホでメッセージを送ってから、すぐに言葉足らずだと気がつく。あれっていうのは───、そう打っている間に『ぬいぐるみのことですか?』と植木鉢のアイコンから返信が届いた。葉っぱの形がユーカリっぽい気がするけれど、いまひとつ何かは定かではない。とにかく、光差し込む窓辺の観葉植物をカトクのアイコンにするようなオシャレ感覚の持ち主が、中年のおじさんにぬいぐるみを送る理由はなんだ。
 1、かわいそうな中年のおじさんを揶揄っている
 2、あと先短い中年のおじさんを揶揄っている
 3、中年のおじさんを揶揄っている
 さぁ、答えはどれだと彼の言葉を待つ。しばし空いてから一行返事が届く。
『話し相手がいるといいかと思って』
 大変だ。中年どころか老人じゃないか。いささか、認知症予防や孤立防止のためのロボットというところか。ひどい。ひどすぎる。抗議の意味を込めて圧が強いペンスのスタンプを送ったら、すぐに電話が来た。
『もしもし、ドンシクさん。あの』
「ひどいなハン・ジュウォン。いくら無職のおじさんだからってそこまで落ちぶれちゃいないよ」
『すみません、言葉足らずでした。おそらく盛大な勘違いを……』
「勘違い? 嫌味じゃないならなんなのさ。あなたが俺にプレゼントくれるなんて、天変地異でも起きるんじゃないですか」
『ひどいのはどっちですか。僕にだって誰かの誕生日を祝いたい気持ちくらいあります。それがあなたなら、なおさらです』
「なんで?」
『なんで⁉︎』
 ジュウォンがさぞかし驚いた様子で声をあげた。驚いたのはこっちだっての。
「で、なんでよ?」
 さらに追求すると、ジュウォンはえーとかあーとか、ひとしきり意味のない言葉を連ねたあと『いけませんか?』とさらに質問を重ねた。
「いけなくなくはないけども」
『では素直に受け取ってください』
「う〜ん」
 そうは言ってもいまひとつ納得行かない。冗談半分でとある仮説をぶん投げてみる。
「俺のことが好きとか?」
『……。それは……。ぬいぐるみに聞いてみてください』 
 ジュウォンは歯切れの悪い台詞を残して「それじゃ」と一方的に電話を切った。今度はこっちが「なんで⁉︎」と叫ぶ番だった。
 

 🧸🧸🧸
 

 イ・ドンシクさんと食事に行くことになった。
 本当は、誕生日プレゼントを渡してその流れでスマートに食事に誘う予定だったのだが、結局プレゼントだけを押し付けてその日は逃げるように家に帰った。あまりにも図々しすぎたと数日打ちひしがれていたら、一週間ほどしてドンシクさんからカトクにメッセージが届いていた。
『中華が食べたい気分なんですが、どう?』
 僕はすぐにOKの返事をし、ソウルの高級中華料理店の予約を取った。


 6月の中旬、なぜかパイナップル柄のアロハシャツで待ち合わせ場所に現れたドンシクさんは、子犬のように震えていた。その日は朝から雨が降っていたし、約束した時間にはすっかり気温が下がっていたので、上着も持たずに(そもそも、そこそこいい店だと事前に言っていたにも関わらず)やって来た彼の体をどうにか冷やさないようにと暖房を効かせた車に乗せて、コーヒースタンドでホットコーヒーを、それから衣料量販店でカーディガンを買っているうちに渋滞に巻き込まれた挙句、予約の時間になってしまい、やむなく高級中華料理店デートはキャンセルになった。
 5分に1回、数メートルほど進む車の助手席で、ドンシクさんは申し訳なさそうに小さくなっていた。申し訳なさそうにしていても、シャツの柄がパイナップルなせいで、あまり申し訳なさそうに見えない。
「どうしてパイナップルなんですか?」
 僕がそう尋ねると、彼はシャツの裾を掴んで「なんでだろうね?」と首をかしげて、少し考え込んでから「ぬいぐるみがそう言った気がして」と言った。
「え、喋りかけたんですか?」
「素直に受け取れっていうからさ」
「それはそうですけど。まさか本当にやるとは」
 僕は、申し訳ないような、嬉しいような気持ちになった。勝手に緩む口元を手で覆う。
「最初はね、ハン・ジュウォンはなんでこんなものをって、ずっと疑問だったんだけどさ。まぁなんとなく、今日は雨だね〜とか、屋台でおまけしてもらった〜とか、なんてことない話をしてるうちに、不思議とそれが日課になって。なんでだろうね、返事なんかないのに」
「僕もそうでした」
「子供の頃?」
「はい。家の中に僕の話を聞いてくれる人はいなかったので」
「そっか。友達だったんだね」
「そうだったのかもしれません」
「うん」
 ドンシクさんは静かに頷いたあと「おなかすいたね」と言った。
 
 
 どうにかこうにか渋滞を脱して鐘路の町へ出た。ドンシクさんが広域捜査隊時代によく通っていたという中華料理店に連れて行ってくれた。交差点の角にひっそり佇む小さな店は、お世辞にも綺麗だとは言えない。それでも味はお墨付きだというので、僕は少し緊張しながら、猫背で歩く彼について行った。
 店に入って、二人用のテーブル席に座った。丸椅子はガタガタしていて安定しないし、真四角のテーブルは人差し指で撫でるとぺたぺたとくっついた。
「高級中華じゃなくて申し訳ないけど」
 そう言ったドンシクさんのカーディガンの下からパイナップル柄のシャツが覗いていて、やっぱり申し訳なさそうには見えなかった。年季の入ったメニュー表を開いて彼に手渡す。
「なんでもお好きなものを」
「いいよぉ。誕生日はとっくに過ぎたし」
「いつもお世話になってるので」
「またそれぇ? 変なの」
 ドンシクさんは、メニュー表のページを開いたり戻したりしながら、メニューの文字をひとつひとつ指で追った。
「今日は麺の気分かな」
「餃子も頼みますか?」
「そうね……いや! 春巻きにしておこう」
「雲呑麺と、春巻きと、僕は海老炒飯と、お酒は?」
「老酒!」
「了解です。あ、酢豚。酢豚も食べたい」
 メニュー表を見ていると、どんどんいろんなものが食べたくなって来る。一度見切りをつけて、すみません、と店員に声をかけた。


 テーブルの上に、酒瓶とショットグラスがふたつ、それからソフトドリンクのグラスが置かれた。
「あなたも飲む?」
「いいえ、これはユヨンさんの分」
 ショットグラスへ順番に、ベッコウ色の液体を注いでいく。片方はそのままテーブルに、もう片方をドンシクさんへ渡した。
「改めて。お誕生日おめでとうございます」
 僕はそう言って、手元のジャスミンティーとふたつのショットグラスをそれぞれ合わせた。
「ユヨナ〜。俺たちもう四十過ぎだってよ! 笑っちゃうよなぁ」
 ドンシクさんがテーブルに肘をつき、酒を煽る。彼の目に、うっすらと涙が溜まっていた。その目線の先には、中身の減らないショットグラス。このグラスは一時間経っても一週間経っても、絶対に減ることはない。
「毎年誕生日が来るたびさ、ユヨニとの歳が離れていくんです。俺たちは双子だったのに」
 ドンシクさんのショットグラスが再び液体で満ちていく。僕は手酌をする彼の右手にそっと手のひらを添えた。彼の指先はまだ冷たくて、僕はたまらず店員に再び声をかけた。
「……すみません!グラスもうひとつください!」
「え、車大丈夫? 明日も仕事なんでしょう?」
「運転代行を頼みます」
「ここから江原道までいくらかかると思ってるの」
「いいんです! 僕も飲みたい気分なので!」
 すぐにテーブルへと届けられたショットグラスに、並々酒を注ぐ。今度はドンシクさんが酒瓶を持つ僕の手に指先を添えた。僕はそのままベッコウ色の酒を一気に口の中へ放り込んだ。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
「大丈夫です。心配いりません」
 もう一杯酒を一気飲みしたあと、独特の香りで少し咽せそうになって、それでも無理矢理飲み込んだ。
「僕とあなたの年齢差はずっと変わりません。あなたは5月生まれだから先に歳を取るけど、すぐに取り返します」
「なにそれ、どういうこと?」
「僕はたくさん食べるし、絶対にあなたを看取ってから死にます」
 ドンシクさんが目を丸くする。だんだん口も半開きになって、耳のあたりも赤く染まって───。
 耳が赤い?
「ふふっ、あなた本当に、なんでそんなに。ふふっ!」
「おかしいですか……」
「おかしいよそりゃあ。あはっ、あはは!」
 ドンシクさんが声をあげて笑った。丸椅子の片側ががたりと音を鳴らす。なんだかとんでもないことを言ってしまった気がして、テーブルに突っ伏した。僕は馬鹿だ。この人のことになると、知的でスマートなハン・ジュウォンは姿を消してしまう。
「ねぇジュウォナ」
「はい」
 呼びかけに応えて、顔を上げた。すぐそばにドンシクさんの顔があった。彼はテーブルの向かいで頬杖をつき、僕の顔を覗きこんでいた。小さなテーブルで元々近かった距離がぐいとさらに近づく。
「あなたは聞いてくれる? 俺の話」
「……もちろん」
「なんでも?」
「なんでも!」
「スーパーの安売りの話とか、近所のめんどくさい婆さんの話とか」
「話してください。あなたのことならなんでも」
「そう。あなた本当に俺のことが好きなんだね」
 頬杖をついていたドンシクさんの手が、僕の頭の上にぽんと乗せられた。にやける口元を見られたくなくて、両腕で隠す。
「ぬいぐるみがそう言ってましたか?」
「さあね。あの子はなにも喋らないもの」
 ドンシクさんの片側の口角がぐいと上がる。やっぱり僕は馬鹿だ。プレゼントも、食事の誘いも、告白だって。何もままならない。飼い犬みたいに頭を撫でられたまま、僕は小さく口を開いた。
「あなたが……好きです」
「……うん」
「あなたの紡ぐ言葉を、僕がすべて受け止められたら、どれだけいいか」
「……うん」
 ありがとね、ジュウォナ。
 耳元に唇が触れる距離でそう囁かれて、思わず彼を抱き寄せようと体を起こした時───。
 両手いっぱいに皿を持った店員が、テーブルの前で気まずそうに立っていた。皿を置けるよう、僕はすぐに体を起こしてテーブルの上のグラスを寄せた。無言のまま、料理が並べられていく。雲呑麺、春巻き、海老炒飯、酢豚。立ち上がる湯気、香ばしい胡麻油の匂い、気まずい空気。
 ドンシクさんはずっと楽しそうににやにやしている。僕はただ、とにかく気まずいこの場をやり過ごそうと「胡麻団子、追加でお願いします」と店員に向かって言った。


 僕たちが老酒味のキスをしたのは、腹も満たされた数時間後、雨が上がった頃。
 
 
 

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