風呂
「あ、なんやこれ、昨日のサスペンス、結局野球延長してるやん……てことは、最後尻切れになっとるぞ。」
あかんわ~とテレビに向かって叫ぶ兄弟子の尻を親子で見せられている午後八時。
隣の子どもは「草若ちゃんやなあ……。」と僕の隣で小さく呟き、気が付けば布団とタオルケットを敷いた上に寝転がっていた。ちなみに、僕の布団を敷くべき場所にはまだちゃぶ台が置いてある。
「それなら今日はこれでおしまいやね。僕、今日ははよ寝るわ。」
はい、おしまい、と手を叩く。どちらかと言えば、火曜の夜番組より土曜夜の二時間スペシャルが気に入っている子どもは、それほど痛手がないような顔をしている。
「ちょっと早うないか?」
「ええんよ。明日も図書館で勉強してからプール行くし。後はふたりでお稽古でもなんでもしといて。」と子どもに言われて、こっちを向いた兄さんと顔を見合わせた。
これはあれだ。
やましいところのある大人ふたりが、お稽古でも何でも、のその『何でも』の部分を子どもが分かっているのかいないのかを気にしている顔だ。
涼しくなるまで稽古するという言い訳で隣に行って抱き合っているのをプロレスごっこと都合のいい誤解しているのもいつまで続けて行けるのかというところだった。
この兄弟子と来たら、ついさっきまで声を堪えてたと思ったら、肝心な時に名前を呼びたがるし、こっちが入れたいのを我慢してるのに、欲しいとか入れてくれとか……。
「あ、お父ちゃん、もしかしたら図書館の食堂で食べて来るかもしれへんから。お小遣い頂戴。五百円玉がええな。」
考え事をしているところにいきなり子どもがにゅっと手を出した。
後ろめたさもあってか反射で「ちょっと待て、今出すから。」と言ってしまった。
子どもの前で考えてたらあかんな、こういうのは……。
小遣いみたいなもんはなしで、必要な分だけ申告制やと子どもに言った途端にこれまで必要がなかったはずの『必要』が湧いて出てくるようになった。
子どもの自立みたいなもんと安全は相反するもので、自転車を買うてから格段に行動範囲が広くなったせいで、出掛けた先から帰って来るのが面倒になる距離を移動するのだ。
「自転車で行くんか?」
「うん。図書館遠いし、バスやとお金掛かるもん。」
「とりあえず角とか横断歩道とかではちゃんと左右見て、走ってる車は自分の思ったようには止まらんもんやと思って気ぃ付けて運転せえ。お前が怪我したら草若兄さんが泣いて頭山になってまうからな。」というと、はあい、と子どもが元気な声で言った。
「なんでオレだけやねん。」
「僕は子どもが怪我したくらいでは泣きませんよ。」と言うと、お父ちゃんが泣いたら空から槍が降って来るかもしれへん、と子どもが言った。
「暑い日は自転車運転せんでええように、そのうちオレがスーパーカー買うたるわ。」と言いながら、兄弟子は次に何を見るつもりか、ビデオデッキからビデオを出して新しいのを入れている。
「スーパーカーってどんなん?」とこうして改めて聞かれると確かになんや、という気がする。
「ごっついエンジン付いたピカピカの外車のことや。」
でかいし格好ええで、と兄弟子が楽しそうに笑うと、子どもが首を傾げた。
「草若ちゃん、そういうのは今時、スポーツカーって言うらしいで。それに、ごっつい車って維持費掛かるんとちゃうん。税金かて、小さい自動車よりようけ取られてまうから大変よ、って友達のおかあちゃんが言ってたで。」
子どもの頃から何でも分かったような顔をしてると、そのうち落語家になってまうぞ、と言いたいような気持になるが、なりたいと言われてもなりたくないと言われても諍いの種になりそうで口をつぐむと兄弟子は「その分、ちゃんと稼いだるて。」と子どもの頭を撫でた。
そのうちな、とあの頃と変わらない自信を見せてこの人が笑うと、時が止まったような気がする。
「車庫がある家に引っ越すのが先と違いますか?」
「そやなあ、引っ越しが先か。」
「このうちから引っ越ししたら、日暮亭が遠くなるんと違う?」
「スーパーカー、やないな…スポーツカーあったら、すぐ行けるわ。」
「あすこの道、駐車場から遠いやないですか。どっちかいうと電車の方が便利ですよ。」と言いながら、ぼんやりと次の不動産屋を巡る面倒さを考えていた。
新しい家を買うか借りるかしたとして、僕と子どもの隣にこの人がいてくれるかどうかということ。借家を借りるとして、間借り人が三人の構成を尋ねられること。
収入の不安定な芸人の身で、ローンを組めるかどうか。
貯金を貯めて家を買ったところで、この人が一緒に暮らすのを承諾してくれるかどうかというのが主だった問題だった。
「お前、子どもの質問を混ぜっ返したるなや。」
混ぜっ返してるのと違って、算段のとっかかりを考えてるんです。
「お父ちゃん、新しい家のこと考えてるのと違う?」
「……そうやな。アパートとかマンションやのうて家に越したら、また草若兄さんの服が山ほど増えるし。」と適当に言うと、兄弟子は、オイコラ、と言わんばかりの顔になった。
他意はないです、と言い訳を口にするより先に「僕、新しいとこは広いお風呂あるうちがええな。」という子どもが言った。
その声に草若兄さんの顔が真っ赤になった。
――広い風呂て、ええなあ。
――僕は銭湯はもう一生分入りましたけどね。
まさか子どもの前で、似たようなことをラブホテルの風呂に浸かりながら話してたとは言えない。
「草若兄さんも広い風呂ええな、て言うてたし、考えとく。」と言うと、本人は案の定頬を赤らめている。
「やったあ!……あれ、草若ちゃん、なんか顔赤いで、」
「この部屋暑いんと違うか? 兄さん、さっとシャワー浴びて来たらええんと違いますか?」
先にどうぞ、と言うと、「そないにさせてもらうわ。」と言って兄さんはここに持って来ていたパジャマもそのまま置いて部屋を出て行った。
「草若ちゃん、お風呂あがった後、前のパンツそのまま履いて出て来る気ぃなんかな……?」
そこまで言われたら、子どもが手渡しに行くと言い出すより先に「……渡してくる。」と立ち上がるしかない。
「僕もシャワー浴びて来るから先寝ててええぞ。」と部屋の中を振り返ると、子どもは、「お父ちゃんの分も布団敷いとくからな。おはようおやすみ、」と言ってにこっと笑った。
powered by 小説執筆ツール「notes」
31 回読まれています