【火アリ】モモ

 クロックワークカフェを出れば夜はとっぷりと暮れていた。
 火村はそのまま捜査本部へととんぼ返りをするのだろう。私はカフェの出口で彼と別れ、駅へ向かう為に歩き始めた。
 街を歩く人は皆忙しなくて、そういえば今日は日曜の夜であったことを思い出す。曜日を気にすることのない仕事故に、時々こうして他人の時間と自分の時間がずれているような気がしてしまう。
 私はふと昔読んだミヒャエル・エンデの名作、『モモ』を思い出した。
 時間泥棒である灰色の男たちから人々の時間を返す、モモという不思議な少女の物語だ。私の時間ももしかしたら、灰色の男たちに盗まれてしまったのではないかと思う事がある。
 それは17歳の少年であった私の時間だ。
 あの時の事を、私はあまり記憶していない。彼女が手首を切ったらしいという話を聞いてから、私はただひたすらに原稿用紙に向かったのだ。
 寝食を忘れて無我夢中で原稿用紙を黒く染めていった私は、一時的に彼女から逃避した。小説の世界への逃避によって私は自らの心を守ったのだろうと今なら思う事が出来る。
 いつまでも引き摺っていてはいけないと、そんなことはよくわかっているというのに……わかっているつもりであるのに、私は未だにこうして彼女と当時の私に囚われ続けているのだ。
 9.11の際に、アメリカにいたのだという。そしてアメリカで、私の著書を手に取ったのだという。
 あの日、私が一世一代のラブレターを彼女に渡したあの日、生きていてもつまらないという理由で手首を切った彼女が。
 私の想いなど誰にもどこにも届かないのだと痛感した、あの彼女が。

 突然強く腕を引かれ、私は思わずつんのめってしまう。

「そっちは駅じゃねえだろ、先生」
 その声に驚いて振り返り、私の腕を掴んでいるのが大阪府警に戻った筈の火村英生であることに気づく。慌てて周囲を見渡せば確かに駅へ続く道から大きく逸れ、住宅街へ迷い込もうとしていたことに気づいた。
「ったく、今日はずっと変だと思ってたんだ。まあ旧友が絡んだ事件じゃあ繊細な作家先生のメンタルに響くのもわかるけどな」
「ああ、すまんな……君捜査本部に戻るんやなかったか?」
「戻ろうとしたさ。お前の足元が覚束ないから慌てて引き返してきたんだよ。熱でもあるんじゃないか? 本当におかしいぞアリス」
 火村はそう言いながら私の不精により伸びた前髪を掻き分けて額に手を触れる。相変わらず指が長いなとか、やはり右手はキャメルの香りが強いなとか、そんな事を考えていたらそんな子供相手みたいなことを、と拒絶するのを忘れていた。
 暖かいなと思う。
 この男なら、死のうとなどしないのではないか、とも。
「熱は無いみた……っ」
 額から手を離した火村が私を見て固まった。
 切れ長の目を大きく見開き、腕を下ろすこともせずただ固まっている。その表情は驚愕とか、きっとそんな感情なのだろうと思うと不思議だった。珍しい事もあるものだ。
「なんやの君、ひとの顔見て」
「……気づいてないのかよ。マジか?」
 何が、と言いかけて言葉が喉に引っかかる。何故だろうかと喉に手をやろうとして、その手にぽたりと冷たい雫が落ちた。
「え?」
 慌てて自分の頬に触れると冷たく濡れていた。
 そんな馬鹿な。いったいいつから公衆の面前でいいオッサンが泣き顔等晒していたのだろう。いたたまれなくなり袖でごしごしと擦って水分を拭い取る。
「アリス……何があった?」
 火村の声が頭上から降ってくる。
 先ほどまで犯人を論理的に追い詰めていた男が、なんて声を出しているんだ。自慢の――火村自身が自慢にしているかはわからないが――バリトンで何をそんな心細げな声を出す必要がある。
「な、んでも」
「無くはねえだろ。吐け」
 しおらしい声を出したかと思えば今度は暴言と来た。なんなんだと顔を上げた先に見た火村准教授の整った顔は不思議なほどの困り顔だった。
「なんで君がそんな顔すんねん」
「人の顔見て失礼な奴だな」
「人の顔見てそんな顔しとる奴に言われた無いわ」
 アホらしくて笑えてしまう。
 今日初めて笑った気がして、私は胸のつかえがすっと解けたような気がした。そして、胸のつかえと共に、また目尻から涙が滲む。
 この歳になってみっともないと思うのに、見られているのが火村だけなら良いかと思ってしまうとまた緩んだ涙腺が決壊してゆく。泣き笑いの表情でぼろぼろと涙を流す私に火村は目に見えて狼狽えており、少しおかしかった。
「おい、さっきの奴らに虐められてたとかか?」
「っ……そんなん、ちゃうわ、あほぉ」
「じゃあなんなんだよ畜生」
「り、臨床犯罪学者やったら、推理、してみぃ」
「無理言うな。そもそも臨床ナントカってのはお前がつけた渾名だろう」
 無茶を言っているのはわかっているが、なんとなく、彼には私の不安定な情緒の説明をしたくはなかった。
 昨夜の夢や、同窓会や、『モモ』や……説明することが多すぎていけない。
 火村はもう一度「畜生」と吐き捨てるように言ってから、唐突に私の後頭部に大きな手を回す。抵抗する間もなく彼のブルーのシャツの胸元に私の顔を押し付けた。
「……汗くさ」
「お前もな」
「しゃあないやろ、暑かってんもん」
「もん、じゃねえよ子供か」
 憎まれ口を叩きながらも火村の手は私の後頭部を離さない。そんなに押し付けるから私の溢れた水分は彼のシャツに吸われていってしまう。今日は珍しくブルーなど着ているから濡れた箇所が目立ってしまうだろうに。そう思いながらも私は強く拒絶はしない。
 不器用な親友の不器用な励まし方に、胸の奥がじくりと痛む。
「泣くなよ」
「……目から汗が出ただけや」
「作家ならもっと上手い事言えないのか」
「失礼なやっちゃな」
「なんで泣いてた」
「……」
「おいアリス」
「黙秘する」
「てめぇ」
 いつまでそうしていただろう。ゆっくりと私の頭を撫でていた手が離れていき、私は漸く乾いた顔を上げる。うっすらと髭の生えてきた相変わらずの男前が思いもかけず不安げな顔でこちらを見ていて少しどきりとしてしまう。咄嗟に視線を逸らしてしまったが、明らかに不自然だっただろう。
「……帰るぞ」
「え? でも君、捜査本部戻らなあかんやろ」
「お前を置いて行けるかバカ」
「っ……大阪人にバカ言うな、アホ」
 そう言って笑う私を見て、火村はほっとした様子で息を吐く。
 こんなにわかりやすい男だっただろうかと驚くほどに、火村は安心したようだった。
 心配をかけてしまっていたのだと今更に気づく。私は小さくごめんと謝り、そしてありがとうと添えた。
「迷子にならないように、手を繋いで駅まで行くか?」
「アホか」
「あ、そうだ。今夜泊めてくれ」
「もともとそのつもりや。警部たちには連絡入れとけよ?」
「わかってるよ」
 火村はそう言って携帯を取り出す。
 火村の背中は夜の闇に少し染まり、灰色に見える。
 時間泥棒の灰色の男たち。忙しなく働くこの男もまた、もしかしたら私の時間を盗む泥棒なのだろうか。そんな事がふと頭に浮かぶ。
 自分がなぜ泣いていたのか、私自身にもわからない。昨夜の夢と、彼女の現在を知ったことで私の何かが刺激されたのだ。
 けれどもう、泣きたい衝動はどこかへ消えていった。それはきっと霧散したのではなく再び私の中の奥深い場所に仕舞われたのだろう。そしてその衝動は、今後も折を見て顔を覗かせるのかもしれない。
 目の前の灰色の男は一時でもその衝動を私から奪い去ってみせた。……というのは、こじつけが過ぎるだろうか。
 ――この男は死なないだろうか。
 不意に、先ほども感じた想いがぶり返す。
 私の想いは、彼には届くだろうか。届いても届かずとも、彼は手首を切ったりしないだろうか。

 しないだろう。絶対に。

 そういえば、彼が学生時代から暮らす北白川の下宿先にモモという雌猫がいるのだ。火村が雨の日に拾ってきたのだというそのお嬢さんは野良時代が長かったからかたいそうお転婆で、私も何度引っかかれたかしれない。
 なんとなく、あの猫に会いたくなった。

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