水溶性のキスをして

 街灯がぽつぽつとスポットライトのようにコンクリートを照らす。歩きなれた住宅街は人の気配はするけれど、しんと静かだった。時折すれ違う仕事終わりの人々は、みんな総じて疲れた顔をしている。自分もそんなに疲れた顔をしているのだろうか? ぺた、と荷物を持っていない手で自分の頬に触れてみたけれど分かるはずもなかった。
 駅から徒歩十分圏内。それが自分たちの住まいだ。夜になるとまだ少しひんやりとした風が吹き抜ける五月の終わりごろ、寒暖差に少しだけだるさを覚える体で歩を進める。もうとっくに見慣れたマンションのエントランスで郵便受けの中を確認してからオートロックを開け、エレベーターホールへと進んだ。
「……あ」
 しまった。牛乳を買ってくるのを忘れた。こういった忘れ物は、大体こういうタイミングで思い出すものだ。今更駅前に戻るのも面倒で、思わず大きな溜息が零れてしまった。必須というわけではないが、まぁ明日にするか…とエレベータに乗り込みながら携帯端末を取り出す。階数のボタンを押して、重力に逆らいながらぐんぐんと昇っていくエレベータの中で端末のメモアプリに牛乳、と入力しておく。リマインダーもセットして、これならきっと明日は大丈夫な筈だ。
 ぽーん、と軽い音がして指定の階に到着する。誰もいないマンションの廊下を歩きながら、ポケットに携帯端末を放り込むかわりに部屋の鍵を取り出した。いつだったか、ゲームセンターで気まぐれに取った小さめのうさぎのぬいぐるみがついている。
「ただいま」
 がちゃりと鍵を開けて入った室内は、予想通り暗闇に満ちていた。やっぱりか、と蓮はまた溜息を零す。玄関の鍵を閉めてから、いつもの定位置にぬいぐるみつきの自分の鍵を置く。そこには先客がいたままだった。黒い猫のぬいぐるみがついた鍵が転がっていて、仕方ないなとその黒猫を立てておいてやった。
 まずは暗闇の廊下を通り過ぎて、リビングへと向かう。がさがさと抱えていた袋をテーブルの上に置いてから、手探りで壁のスイッチを押す。ぱちん、という軽い音と共に、室内に暖色系の光が灯った。上着をぽいとソファの背に放り投げる。きちんと狙い通りの場所に掛かったことを確認してから、ついでにキッチンの電気も付けて、まずは手を洗いに行く。手洗いうがいはきっちりと。飲食業の掟だ。いや、飲食業じゃなくても、多分健康的な生活をする上では一番大事な事だけれども。
 鏡に映った自分の姿をなんとなく確認する。疲れた顔をしているのかもしれないが、自分で自分の顔色を確認することが上手ではない自覚があったので、わからないな…という感想だけが残った。いつもと変わらない、寝癖のような黒い癖毛。日の光を吸い込んでも変わらない、真っ黒な瞳。あの頃から変わったと言えば、眼鏡を取っ払ったことと、背が伸びたことくらいか。あぁ、少しだけ髪も伸びたかもしれない。そろそろ切りに行かないと。
 ぺちりと頬を両手で叩いてから、再びキッチンへ戻る。乾かしっぱなしだったケトルに水を入れて、とりあえずコンロの上に置いた。あとで火を付けよう。
 ここに来るまでに通り過ぎた廊下の中間地点にある扉を叩く。コンコン、と硬い音が二回響いた。数秒待つ。返事はない。
「おーい」
 再びノックをして声を掛けるが、相変わらず反応がない。仕方ないなとドアノブに手をかけて、そうっと扉を押し開く。やはり部屋の中にも暗闇が満ちているが、奥の方、テーブルライトだけが煌々と光を放っていた。やっぱりなあ、と内心で溜息を吐く。仕事が煮詰まってくると、大体こうなるのはそろそろ学んだ。そして、この状態になってしまうと時間感覚がすっかり抜け落ちてしまうことと、反応がかなり鈍くなることも。
「明智」
 声を掛けるが、やはり反応はない。机の前に座ったままの背中に近付く。彼の右側に回って、手で肩を叩きながらもう一度声を掛けた。明智、と再び名を呼べば、ぴくりと肩が揺れる。やっと反応があってほっとした。
「……蓮」
「大丈夫か」
 のろのろとパソコンのディスプレイから顔を上げたのを確認して、蓮は彼の目にかかる髪をそっと指先で退けてやる。その表情はだいぶ疲れているようだった。いつもは強い意志を持っている赤い瞳が、どこかぼんやりとしているように見える。
「…もうそんな時間だった?」
「二十時過ぎてる。ただいま」
「おかえり」
 そんなやり取りをしながら、蓮は入口へ戻り部屋の電気をつけた。ぱっと明るくなる室内は、いつもと違って少し乱雑に本が積まれている。締め切ったままのカーテンが少しだけ揺れている。これは、朝に自分が換気のために開けたままなのだろう。それだけ彼の仕事が煮詰まっているのだ。こうなると、彼の意識は仕事以外に全く向かなくなるので。
 そうなるのだ、と知ったのは同棲し始めてすぐの頃だった。あの頃に比べると、まだこれでもマシになった方ではあるのだが。
 視界の端で、明智が両腕を伸ばしている。ごきん、とどこかの関節が鳴る音がする。ぐうっと上半身を伸ばしてから、かけていた眼鏡を外して眉間を揉んでいた。かなり疲れてるな、と思う。
「お疲れ。大丈夫か?」
「…大丈夫に見えるか?」
「大丈夫には見えないなあ」
 返事は大きな溜息だった。おおよそわかっているなら聞くな、ということだろう。そういう会話を彼はあまり好まないことを知っていて、自分は毎度話しかける。返事はないけれど、仕草がそれを如実に伝えてくるから実質それが返事のようなものだ。無視ではないのだから、少しくらいは気を許してくれているのだろうと解釈している。こいつが本当に嫌ならば、完全なる無視を決め込むことを知っているので。
「夜食べた?」
 おそらく食べていないだろうことはわかっているけれど、一応聞いておく。ちらりと見えた作業机の上には、空っぽになって少し時間が経っているマグカップしか存在していなかった。
「…まだ。わかるでしょ」
「うん」
 わかってて確認した、とにこりと笑えば相変わらずの微妙な表情が返ってくる。そういうところだぞ、と顔に書いてあるので、俺は更に機嫌がよくなる。自分の事をそう認識してくれているのだ、と思うと、彼の中に自分の居場所が作られているような気がして嬉しくなるのだ。
「すぐ準備するから」
「ん」
 のろのろと仕事部屋から出て行った明智の後を追いかけてキッチンへ戻る。彼はリビングのソファに座りぼうっとしていた。ふと思い出したかのように携帯端末を取り出し何かしらの確認をしている姿を視界の端に収めながら、手早く夕食の準備をしていく。
 先程コンロに置いたままだった水の入ったケトルを火にかける。ばこん、と冷蔵庫の扉を開けて、朝から何一つ配置が変わっていない鍋を取り出した。一人分くらいのコンソメスープがひんやりと冷えている。それも火にかけながら、職場から持って帰ってきた残り物のロールキャベツのタッパーを開けてスープに放り込んだ。冷凍していた使いかけのカットトマト缶の残りとケチャップを追加して温めなおす。こういう時に残り物があると楽だなとしみじみ思う。この時間に帰宅してから、なにか料理をしっかり作ろうという気にはなかなかなれないので。
 帰宅途中に入手してきたサンドイッチは明日の朝食にするつもりだったが、もうこのまま夕食として出してしまおう。夜に食べるメニューとしてはちょっと軽いかもしれないけれど、まぁいい。
 静かな部屋の中、キッチンで作業する物音だけが響く。しゅんしゅんとケトルが湧いた音を立てたので、さっさとアイスコーヒー用の豆を準備して落としていく。冷蔵庫の中にいつも入れているアイスコーヒーは、帰宅するとだいたい空っぽなので全て彼が飲んでいることになる。たまには水も飲めよ、と言った数日後に、ペットボトルのミネラルウォーターがダースで届いたことを思い出した。…まあ、言うとおりに飲んでくれているのなら、何も言うまい。
 リビングにテレビはあるが、朝に時計代わりとしてニュースを流すのが役目なのでこの時間にはあまり付けることはない。流行りのドラマもバラエティも、お互いそんなに興味がないのだ。昔、彼がよくテレビに出ていたことを思い出す。今となっては遠い昔の話のように扱われるそれ。あの頃と比べると、お互い落ち着いたものだなと思う。ふわりと漂ってきたトマトとコンソメの匂いに意識が引き戻された。もうすぐできる、と声を掛ければ、ん、と返事が返ってくる。ほんのささいな日常のやり取りの中、返事があることが嬉しいのだと思っていることを、きっと彼は知らないだろう。
 ロールキャベツとサンドイッチという軽めの夕食はあっという間に二人の胃の中に納まっていった。ごちそうさまでした、と律儀な言葉が少しだけ嬉しい。育ちがいいのかもしれないし、あの頃に必要だったから身に着けたものかもしれないが、きっと自分はそれについて聞くことはしないだろう。お互いに知らないことも多いけれど、今この空間が上手く回っているのだからそれでいいと思っている。
「何?」
「え?」
 どうやらじっと明智の事を見つめてしまっていたらしい。不躾な視線になっていたかもしれないと少しだけ焦るが、彼の表情は多少の疑問を浮かべてはいるが不快そうではなかった。よかった。
「いや。コーヒー飲むか?」
「もらう」
「ミルクと砂糖は?」
「…どっちも入れて」
「了解」
 少しだけ考えた後に返ってきたオーダーに頷く。使い終わった食器をまとめてシンクに運びつつ、再びケトルに水を張って火にかける。いつものマグカップを二つ取り出して、コーヒーを落とす準備を整えていく。時折視線がこちらに向くのをわかっていて、淡々と自分の作業を続ける。ここで自分が視線を上げると、盛大に顔を顰められるかこの作業が終わるまで視線が一切向かなくなるかの二つに一つなので、気付かないふりをしておく。ふりをしていることさえバレているだろうけれど、お互いが何も言わないのならそれでいいのだ。彼からの視線の先が、自分であれば。別にそれでいい。
 いつもなら明智はブラックコーヒーを好むが、今日はミルクと砂糖もご所望なので多分かなり疲れている。夜も更けてきたからかもしれないけれど、帰宅時の様子を見ればまあ前者だろうな、と推測する。
 挽いた豆に、ケトルからの湯がゆっくりと染みていく。家でしか使わないこのブレンドの豆は、ルブランにお世話になっていた時に作ったものと同じ配合だ。あの時試行錯誤しては彼に出して駄目出しされては配合を変えていたもの、要するに、明智の好みである。酸味控え目ですっきりしたブレンド。これに辿りつくまで結構かかったなぁ、なんて思い出まで鮮明に思い出せる。ゆっくり落ちていくコーヒーが二人分の量を満たすまで、そうはかからない。冷蔵庫の中をもう一度覗き込んで、牛乳を買い忘れていたことを再び思い出した。このタイミングでこれである。あー、と首を傾げつつ、料理用に置いてあった小さめの生クリームのパックを取り出した。買っておいてよかった。
 マグカップにコーヒーを注ぎ、明智の分にだけ生クリームと砂糖を少し入れる。スプーンでくるくると混ぜれば、白いクリームがとろけて混じっていく。真っ黒だったカップの中が、柔らかなブラウンで満たされた。
「はい」
「ありがとう」
 温かなマグカップを両手に持ち、片方をリビングのソファでくつろぐ明智に渡す。そうっと大事に両手で受け取る仕草がなんとも彼らしいなあ、といつも思っている。時折幼い仕草を見せるのは、その姿を見せてもいい、と思ってくれているからだろうか。そうだといいな、と祈る。
 彼の左隣に腰を下ろす。左利きの彼はそれをあまり好まないのを知っているけれど、敢えていつもそちら側に座る。お互いの利き腕がぶつかってしまうので、彼はもそもそとソファの上で姿勢を変えてこちらの右側に背中を預け、俺を背もたれにして座りだすのだ。彼が何度言ったところで自分が話を聞かずに毎度左側に座るものだから諦めたのだろう。きっとこれが彼の妥協点なのだと思っている。正直なことを言うと、彼にこうしてもたれかかられていることが嬉しいからこそ、俺は繰り返しているのだ。
「今回の仕事、だいぶ詰まってないか?」
「いつもに比べると、まぁ」
 ぽつぽつと会話を続けながら、ぼんやりとした時間を過ごす。食後のコーヒーをこうしてゆっくり飲む時間は穏やかだ。彼も、この時間だけはいつもより少しだけ柔らかな空気を纏う。
 彼を追いかけて色々あって、やっとこうして隣に収まってくれたことにいつも安堵している。何度も目の前からいなくなってしまった事は自分の中に根深く残っていて、未だにその夢を見て飛び起きる事がある。彼は自由に飛び立つことのできる烏だ。地上から焦がれる俺を、彼はどう思ってくれているのだろうか。時折、不安になる。自分が彼に渡した、いや、押し付けた感情の返事を、同じぶんだけ欲しがるだなんて子供みたいだ。傲慢すぎる。
「蓮」
 ふと思考の隙間に彼の声が滑り込む。弾かれたように顔を上げれば、彼が訝しげに振り向いていた。どうかした? と首を傾げてみれば、それはこっちの台詞なんだけど、と眉を顰められる。
「いや、ぼーっとしてただけ」
「聞いてなかったんだな?」
「ごめん」
 そう、と明智は再びそっぽを向いた。しまったな、機嫌を損ねてしまった。完全に自業自得なので、もう一度ごめんと謝る。彼はコーヒーを飲み終わったのだろう、マグカップをことんとテーブルの上に置いた。
「まぁいいけど」
「よくない」
「えぇ…」
「よくないから、もっかい言って?」
 彼に続いて自分も空っぽになったマグカップをテーブルに置く。嫌そうな声を上げながらも、明智は自分を背もたれにしたまま動かない。ぱたぱたと彼の指先が何も入っていない胸ポケットの上を彷徨ってから、はぁと溜息を吐くのが聞こえた。
「……コーヒー。たまには、ルブランのが飲みたいって言ったんだよ」
「このブレンド飽きた?」
「そんな事言ってないだろ」
 間髪入れずに返ってきたのは不機嫌そうな声。そっか、このブレンドやっぱり好きなんだ、と少しだけ嬉しくなる。よかった。肩口に流れるブラウンの髪先を弄びながら、じゃあ今度一緒にルブランに行こう、と提案する。あの頃と違ってあまり外に出ないようになった明智を誘い出すのはなかなかに大変だ。こうして機会を伺いながら提案して、彼の気分が良ければまぁいいよ、と頷いてくれる。もちろん、気が乗らなければ即座に行かない、と返されてしまうのだが。
 明智は少しだけ考えるそぶりを見せてから、ちらりとこちらに視線を寄越す。それはどこか、様子を伺う猫のような仕草にも見えた。彼の赤い瞳は、彼本人が思っている以上に感情を乗せる。
「……いいよ。たまには外に出てあげても」
「ありがと。ついでに俺とデートしよ」
 たまには俺にご褒美ちょうだい、と小首を傾げて続ければ、彼の眉がひそめられた。声には出されないが、こいつ、と思われていることはわかる。いいじゃないか、欲しいものは声に出さなければ手に入らないのだから。それに、彼はこうして俺に強引に押し切られる方が気が楽なのだということを知っている。
「…好きにすれば?」
「やった」
 相変わらずの溜息の後に続いた返事によし、と笑う。次の休みはデートができる。いつも単純だなと言われるけれど、嬉しいものは嬉しいのだ。とんとんと彼の肩を叩けば何、とこちらを見てくれるのもまた嬉しくて、そのままそっと唇を重ねた。触れるだけのそれでも、うっすらとコーヒーの味がする。
「疲れてるんだけど?」
「今日はなにもしません」
「どうだか」
 微かに離れた唇の間で、そんな軽口を叩き合う。ふふと笑えば、仕方ないなとばかりに溜息を一つ吐いた後、微かに彼の口角が上がった。それがいつもの彼のポーズなのだと俺は知っている。明智、ともう一度声を掛けて、手持ち無沙汰にしていた彼の左手を取った。
「煙草買いに行こう」
「今から…?」
「そ。ないんでしょ」
「確かにないけどさ」
「いいじゃん。気分転換も兼ねて」
 時計をちらりと見上げる彼の手を引っ張る。渋々と立ち上がってくれた彼に続いてソファから立ち上がり、ぽいっとテーブルの端に置いてあった端末をポケットに突っ込んだ。繋いだままの手を引っ張って、ほら、と玄関へ誘う。この時間なら、手を繋いで外を歩いていても特に気にならないだろう。俺は全く気にしないけれど、彼は少しだけ気にするから手を繋いで歩きたい時は夜の散歩になる。ぎゅっと握り返された手が温かくて嬉しくて、俺はまた調子に乗ってしまいそうだ。
「蓮」
「うん?」
「…なにその締まりのない顔」
「だって嬉しいから仕方ないだろ?」
 俺はお前と一緒なら何でも嬉しいんだよ、と繋いだ手を引っ張る。一歩だけ近付いてくれた彼をもう一度引き寄せて、ちゅっとリップ音のするくちづけを一つ。俺が単純なことなんて今に始まったことじゃないだろう? と笑う。
「…能天気なやつ」
 そんな能天気なやつの挙動を大体許してくれる明智も相当なんだよなあ、と思いはすれど口にはしない。あの頃よりかは少しだけ柔らかくなった赤い瞳の目元を緩め、行くよ、と今度は明智に手を引かれる。嬉しいなあ、と噛み締める。この手を握ったままでも許してくれることが幸せだ。
「うん」
 玄関にある鍵をもう片方の手で掴んでから、俺達は夜の散歩へと繰り出した。

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