幕間


久しぶりに着ると、スーツなんてものは落ち着かねぇもんだな、とTETSUは思う。
最近は仕事で演じるにもラフなTシャツとライダースーツのボトムにブーツだ。窮屈と言えばあれほど窮屈なもんはないっていうのに、慣れというのは大したものだ。
例の二十七階よりまだ高いな、と思いながら、夜景の見えるホテルの広い廊下を歩く。TETSUを見てどこかで見た顔だという顔をする人間もいるが、すれ違う人間はほとんど日本人ではないこともあって多くはない。
KEIが指定した都心にあるホテルの最上階のバーは、平日の夜だというのにそこそこ人が入っていた。受付らしき場所に人はいないが、あいつがいるかどうか確認したところで無駄だろう。
人を待たせる女だった。
まあ、待つ価値がある女ではある。
そういう意味ではKEIは、TETSUにとって特別な女のひとりだった。
そのままバーテンのいるカウンターに直行する。
カウンターの方がこっちのことを見つけやすいだろうと思い、スツールに腰かけた。
バーテンはどこかで見た顔だということを分かっているのかそうでないのか、顔色も変えやしねえ。
まあ、オレの顔を知らない、に一票だな。あの鬱陶しい前髪を纏めてしまえば、どこにでもいる普通のおっさんだ。
「ウイスキー水割り。」と言うと、お好みの銘柄はございますか、とバーテンは言った。
「じゃあその手前のやつくれ。」と棚にある瓶を指さすと、白州の十二年でよろしいですか、と尋ねて来る。
薄っすい水割りにしてくれと注文のひとつも付けようかと思ったが、本職のやりように口に出すのは野暮の極みだ。そうしろ、と頷く。
KEIからの連絡があったのは昨日のことだ。
雑誌の収録の後で下げ渡されたスーツを、どこで見られてるかも分からねえのにまた着るわけねえだろ、とKEIの知り合いの施設のチャリティオークションとやらに渡したら思ったより金になったらしく、ドラマの打ち上げを兼ねて飲みに行こうという話になった。
自分の金になる訳でもないのにご苦労なこった、と思ったが、まあいいだろう。
たまには大人の付き合いと言うのが必要だ。
短い音が鳴ったスマートフォンを見ると、譲介からメッセージが入っていた。
――週末に、本を返しに行きます。新しいのを借りたいから、家にいられる時間を教えてください。
なんだろうな、こいつは、と思った。
出会った日、こいつに今自分の持っているものを全てでぶつかってやろう、と思った。
柄でもないことをやっていることは分かっていたが、あの時は、そうすべきだと思ったのだ。
譲介は、テレビ出演の余波で増えて来た仕事にTETSUが忙殺されている間に高校に進学し、大学受験も間近になってきた。口煩い四十男をそろそろ見限ってもいい頃合いだろうとこちらは覚悟を決めているというのに、あの子どもは、気が付けば、まだTETSUの傍にいる。


「TETSUくん、お待たせ。」
「……来たのか。」と振り向くと、薄紫の上品なスーツの上下に身を包んだKEIが立っていた。
「そりゃ、私が誘ったんだからね。」
スカートを穿いた姿などは、もう撮影の際にしか見ないが、今日もゆったりとしたパンツスーツだ。白いカットソーに、大きな金色のイヤリング。
隣に来ると、何の匂いかは分からないが香水をつけてるな、ということだけが分かる。
昔は香水をこれでもかというくらいに振りかけていて、時には鼻が曲がると思っていたこともあったが、そうした紆余曲折を経て、今はこなれたアラフィフの美魔女が出来上がったというわけだ。
共演しているドラマの作中では四歳差でKEIが年下ということになっているが、実際のところ、KEIよりTETSUの方が二歳下だった。
同じ俳優養成所に通っていた頃からの付き合いだから、数えてみれば、もう四半世紀になる。
入所は、関東が地元のKEIが一か月早かったせいで、あの頃からずっと先輩面をされている。女の存在は下げてなんぼ、というクソのような昭和の風潮は、上下関係に厳しいはずの俳優養成所の中でも例外ではない。あの頃からTETSUは、年長のKEIには頭が上がらないというポーズを取っている。その方が、ずっと気楽だからだ。
「先にやってたぜ。」
TETSUがグラスを掲げると、KEIは、私も同じものを、とバーテンに言った。
いつもの、血のように赤いルージュでKEIが微笑むと、すぐにお持ちします、と言うバーテンの頬には分かりやすく色が灯る。
言葉通り、一分で水割りが「ご用意」された。さっきまで妙に待たされていたのが嘘のようだ。
「乾きもので何か摘まむものをくれる?」とバーテンに頼むKEIの横顔を見て、悪い女だな、と思うが、まあ商売道具の使い道を心得ているとも言える。
乾杯、とこちらを向いたKEIと、形ばかりのグラスを合わせる。
軽いガラスの音が鳴ると、「TETSUくん髪切ったのね、若返ったじゃない。」とKEIは笑った。
「オレは元からそっちより若ぇだろうが。」と憎まれ口を利くと、KEIはこちらの耳を引っ張らんばかりの顔で微笑んだ。
クソ。目が笑ってないぞおめぇ。
ナッツをどうぞ、とKEIの前に置かれた小皿の中から、TETSUはアーモンドをひとつ掠めとって腹に入れる。
「なかなか撮影では会えないけど、最近どうなの。」
「どうって、いつもの通りだ。」と言うと、ふ、とKEIは笑った。
「仕事は増えたんでしょ、もう少し何かない?」と言われ、『僕にも分かるように説明してください。』とこちらを睨んで来る譲介の顔が思い浮かんだ。
人に説明することも教えることも不得手だったが、もう、ただ不得手と言う言葉で逃げているばかりではいられない。
「この間言ってた、杮落とし公演、正式に呼ばれることになった。」
地方の小劇場だった。市営の公会堂を取り壊して民間委託の劇場を立ち上げるということで、その委託先の上の方にK2のドラマのファンがいるらしい。
一也の共演という形で呼ばれたので、脚本を見ると台詞も多いわけではないが、枕が変わると寝られない自分の質を分かっているので、むしろその方が楽と言えば楽だった。
「ふうん。良かったじゃない。」とKEIが水割りを飲み干して、これ薄いわねえ、と言った。
「追加で作ってもらえよ。」
「せっかくバーに来たからにはカクテルがいいような気もするけど、……まあいいか。」
KEIはバーテンに目配せし、ラフロイグをロックで、と言った。
すぐに古いグラスが下げられて新しいグラスが出て来る。
「そういえば、譲介君が第4シーズンでメンバー入りしたとき、万寿山でたまたま見てたのよね、ふたりの掛け合い。」
万寿山、というのは、KEIとTETSUがかつて通っていた養成所の近所にある街中華だ。今住んでいる場所とは縁がないだろうあの店に行くとしたら、KEIが会う相手は限られる。
まだあの人は、あの辺りの学生街に住んでいるのだろうか、TETSUは狭いマンションに住み続けている自分のことを棚に上げて、KEIと共通の知り合いの顔を思い浮かべた。
「長老が、TETSU君は化けるぞ、って言ってたけど、まさか当たっちゃうとはね。」
「村井さん、そんなこと言ってたのか? テレビの人気なんか、水もんだってのに。」
かつての兄弟子からのてらいのない褒めというのは、身の置き所がなくなるものだ。TETSUが頭を掻いていると「譲介君は若いからきっと売れるだろうって思ってた。だから、私もピンと来てなかったけどね。TETSUくんが生き生きしてるところを見て、嬉しそうな顔してた。」とKEIは笑っている。
「あのシーズンはTETSUくん出ずっぱりだったから、私も全部見てたけど、子供に囲まれてカレー食べてるところも含めて、ホントに全部良かった。」
クッソ。
既にネットミームとやらになっているTETSUの写真は、廃校になった小学校であさひ学園の撮影ロケをしたときのもので、時折インターネットの掲示板だのを賑わわせているらしい。マネージャーが、対処には困るが宣伝にはなると言っていた。全てを削除することが出来ないなら、いいところだけを見るしかないということだろう。TETSUが大きなため息を吐くと、事情を知っているKEIは「まあ悪いことばかりでもないでしょ、顔が売れるのは。」と言ってこちらの背中を叩いた。
やけくその気分で、水割り追加、と手を上げてバーテンに合図すると、次はもう何がいいかとは聞かれず、さっと新しいグラスが出て来た。オリーブの皿が付いて来たのはサービスだろうか。
TETSUは、この一杯で止めておくか、と思いながらグラスを傾ける。
「それにしても、可愛い子に好かれちゃったみたいね。」
「はあ?」
「譲介君と、ずっと仲がいいみたいじゃない。」とKEIは言った。口角が妙に上がっている。
「可愛くはねえだろ、あいつは。ただ外面がいいだけで。」
後で、譲介にメールの返信をしておかねえと。そんなことを思いながら生返事をすると、KEIが、チッチッと指を振った。
「TETSUくん、昔からこういうことは良く分かってないのよね。譲介君って、普段から興味がない人にはガン無視らしいわよ。まあ、あの顔でそうなるのは良く分かる。そういうところも含めて、昔のTETSUくんとちょっと似てる。だから構ってるんだろうけど。……相手が成人するまでは、ちゃんと線引きなさいよ。」
TETSUくんはいい大人だから分かってるわよね、と言って、KEIはケラケラと笑ってから、静かな目でこちらを見た。
「線引きぃ?」
長い間こういう業界にいた。KEIが瞳の奥に何をちらつかせているのか気付かないフリなど出来はしねえが、理解したくもねえ話だ。TETSUは、ナッツをがりがりと齧りながら、「相手はまだガキだぞ。」と言って逆にKEIを睨み返す。
「子どもが大きくなるのなんて、あっという間よ。」とKEIは言った。
「心当たりでもあんのかよ。」
「一般論よ。まあ、TETSUくんが、兄さんひとりに操を立ててるよりは健全かしらね。」
「バッッッッカ野郎!」
あいつとオレはそんなんじゃねえよ、とTETSUが勢い余って立ち上がると、KEIは「何もなかったんなら、そっちの方がよっぽど心配なんだけど。」と眉をひそめた。
どういう思考回路なんだよこいつら、と思うが、TETSUはもう何かを言い返すような気力はなかった。
兄が兄なら、妹も妹だ。
はあ、とため息を吐く。
「一人でも、誰かと一緒でもいいけど、ちゃんと幸せになりなさいよ、TETSUくん。」
「……幸せ、なあ。」
水割り飲んで話すような与太じゃねえだろ。内心ではそう思っていても、年上の女の心遣いが分からないような顔をして突っ張る年でもないことは自分でも分かっている。
TETSUは黙って頷き、手元の酒を飲み干した。

powered by 小説執筆ツール「notes」

379 回読まれています