洗濯機
春の日の昼下がり。
三人分の洗濯物を取り込んでいると「洗濯機、見に行かへんか?」と兄弟子が言った。
「今からですか?」
明日は天狗座での仕事が入っているはずだった。
今日は夕方から草々兄さんのところの板間の稽古場を借りて、草原兄さんとおさらいをする予定になっているのに、何を呑気なことを言っているのか。
また逃げ癖が出たのかと眉を上げると、こちらの雰囲気を察知したのか「今すぐにって訳やないけど。」と弱腰の返事が返って来る。
「新しいのに買い換えたいなら、量販店に行って好きなもん買ったらええやないですか。僕の懐を当てにせんといてください。」ときっぱり拒絶すると、お前なあ、と兄弟子は呆れたような声を出した。
「そうやのうて、お前のとこの洗濯機使ったら、オレの服もおちびの服も、直ぐにダメになってまうやろ。よそ行きの服を洗う手洗い機能みたいなの付いた新しいのを買ったらええんちゃうかと思ってな。」
「草々兄さんのスーツの話じゃないんですから、そういう時はまっとうに金払って汗抜きクリーニングに出すか、おしゃれ着用の洗剤を買って来て手洗いしたらどうです?」と言うと、お前が言うか、という顔をされた。
「……洗剤だけやったら、スーパーで事足りるやないか。」
「それで何か悪いことありますか? 僕もなるべく子どものは手洗いしますし、兄さんも、このところは仕事が入ってると言っても、昔ほどじゃないでしょう。」
「そら、オレの仕事が死ぬほど詰まってることはないけど。」
洗濯機か。
今の時代、ただ洗剤だけを買うにしても、馬鹿にならないというのに、その上、使えなくなったわけでもない家電を買い換えたいとは。そもそもベランダで野ざらしになる予定の洗濯機にそんな大層な機能は必要ないのだ。
便利な機能がいくつあったとしても、使いこなせないうちにダメになってしまうか、あるいは、ピカピカの新品が目に付いた泥棒に持ち去られてしまうだけだろう。
その上、かつての二層式洗濯機はほとんど絶滅してしまい、時代は全自動だ。リユースショップで買えるような型落ちの商品を探すのが無難だろう。
代替として中古品を買うとしても、この場では話をどう切り出すべきかと頭の隅で考えていると、兄弟子は、何やらしょげた様子で、布巾で茶碗を拭っている。
強気で行ってもいいサインか、これは?
いや、新品買う話をしてから、安い方に話しを持って行く方がまあ無難だろう。
「買い物、僕も付いて行っていいですけど、出来れば量販店やないとこにしてください。草若兄さんと行くと、普段はいらない機能が仰山付いた、高いだけの商品を買わされる気がしますから。仏壇買った時みたいに洗濯機に住めばええのに、とか。今更言いたないですよ。」
「はあ? オレが店員のカモにされるて言うてんのか?」
こちらの言葉に引っかかるところがあったのだろう、ひとつ年下の兄弟子は、かつての、あの酒癖が悪かった頃のように声を荒げた。
「ほんまのことでしょう。今まで、兄さんの金遣いの荒さをとがめる人間がいなかっただけです。あと、こういうのはそろそろ止めたらいいと思いますよ。今でも小さい草若て言われてんの、そうやって自分の意見にそぐわないこと言う相手に向かって、いちいち突っかかっていくからと違いますか?」
口が滑った、とは思ったが、こうなっては止まらない。
反論を全部聞いてしまってから謝るタイミングを探すしかないな、と思いながら、布巾で食器についた水を拭きとっている兄弟子を見つめると、相手は「そうなんか……?」と驚いたような顔をこちらに向けて来た。
「……まさか、気ぃ付いてなかったんですか?」と言うと、草若兄さんは頷いた。
「まあオレの器はまだまだやっちゅうことくらい分かってるけどな。」
「そこまでは言ってませんけど、」
兄弟子は僕の方を向いてから、手にしていた布巾を皿の上に置いた。
「そら、お前はただ、オレが買い物の邪魔やと、そない言いたいんやろうけどな?」と言った。図星を指されて、僕は口を噤んだ。子どもの弁当箱とか、新しい文房具だとか、消耗品でただ揃えてあればいいだけのものにも兎角金を使いたがる普段の挙動を見ていれば、大きな買い物にはどうなるかは推して知るべしというところだった。
兄弟子は、こちらが躊躇している隙に、畳もうとしていた洗濯物の半分をひったくって「そこまで言うなら、お前がひとりで行って買って来い。」と言って、こちらに背を向けた。
「ひとりではあかんか、おちびの意見も聞いたり。……親子ふたりで楽しくデートして来たらええわ。」
しまった。
時間を五分前に巻き戻したい、と思ったところで、もう遅い。
突然の不機嫌の理由が判明したところで、デートの誘いに失敗したと思い込んでいる兄弟子は、すっかり臍を曲げた様子でそっぽを向いている。
そもそも、デートらしいデートがしたいなら、最初から素直にそれなりの場所を提示してくれていたなら、僕だってこんな風につっけんどんな返事はしない。薔薇の咲いた中之島公園とか、なんかあるだろう、こいさんが好きな男と出会うようなその辺のスポットが。
そうは思っていても、今から何を言おうと後の祭りだ。
「もし、子どもが付いて来て欲しいと言ったら、考え直して僕らと来てくれますか?」
「……。」
まだ言葉が足りないのか、じろりと睨まれたが、子連れの前提で行くことになった以上、気の利いたデートの申し出などは出来そうにない。それに、重ねての言い訳もしたくはなかった。
それでも――その場限りのことでは、という但し書きが付いているが――物わかりのいい顔を作れるようになった兄弟子は「分かった。」と頷いてくれた。
その数時間後。
『早めに出掛けるから、夜はいらんで。』
そう言って、草若兄さんは雑な書置きひとつで荷物を纏めて、風のように部屋を出て行ってしまった。
またか。
夕飯で機嫌を取ろうと思い、オムライスを準備をしていたにも関わらず、そのまま、その日は仕事から戻って来てからも、僕らの部屋には顔を出さなかった。
どうせ、行き先は草々兄さんのところだろう。僕がそう言うと、癇癪を起こして暴れた子どもは、暴れて右の脛を蹴った。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
風にたなびくのぼり。
店内からは、陽気なBGMに合わせた館内放送が大音量で流れて来る。
「おとくやんへようこそ。今日のおススメは、衣替えに合わせたミセスヨイドの防虫剤など、盛りだくさん。チラシを眺めながらゆっくりお買い物していってや~!」
プチ家出をして居候になっていた草々の家から戻って来たその日、オレは四草に先手を取られ、『日用品の買い出しに車を出すので、兄さんが新しい洗濯機を見に行きたいならついて来ていいですよ。』と子どもの前で約束をさせられた。
数日前の口論を忘れたような顔をした厚顔男に連れられてやってきたのが、この梅田近隣のショッピングタウンにあるDIYの店だったというわけや。
「僕ちょっと中入って洗濯機見てくるね!」と先陣を切ってホームセンターに向かって駆けていくおちびの背中を眺める。
「元気やなあ。」
「そうですね。」
素直に嬉しそうな子どもに引き換え、隣のこいつは……。
ここまで運転してきただけで、すっかり肩の荷が下りたという顔をしている。大阪のおばちゃんらに揉まれて買い物をするんやから、今からが本番やっちゅうねん。
まあ、オレも並んで走るには腰が辛いねんけどな。
「しっかし、ヤマダとかヨドバシならともかく……草原兄さんの元職場に来てどうすんねん。」と高い場所にある看板を見上げる。
おとくやん、て。
「電化製品の割引がありますし、購入前の選択肢が少ない方が、早く決められますよ。それに、ここなら駐車場が広くてレンタカーも置きやすいですし。」
久しぶりに車を借りてここまで運転して来たのは、駅や電車の車内で自分に似た姿かたちをした子どもと一緒にいるとこを写真に撮られないためだろうとは思っていたが。ただの建前にしても、四草の言い分に合わせるつもりで「どんだけ買うつもりやねん。」と苦笑した。
「この先、衣替えもありますから。蚊取り線香とか、シーツやタオルケットの洗い替えとか、こまごました夏に必要そうなもんも、まとめて買ってしまいましょう。」
線香?
「蚊取り線香は、流石に早くないか?」
今から買ってどうするんやと首を傾げると、「そういうことにしといてください。」と言って四草は何やら腹に一物抱えているようないつもの顔をこちらに向け、オレの首元を指でつついた。
「……っ、お前、また。」
指で示された場所がどうなっているのか、鏡を見ずとも分かる。とっさに片手で隠して、辺りを見回し、ジャケットのポケットを探る。いつもは何かしら入っているポケットの中は空っぽで、首元に巻くスカーフもない。
「まさか、今日に限って何にも持ってないんですか?」と悪びれない顔の男に、「お前が元凶やろが。」と反射でヘッドロックを掛ける。
「お前はほんまに……。」
人の身体を好き勝手に、とは表では言えずに口をつぐむ。
それに、その場になったら結局、お前の好きにしてええからと言うてしまうオレも悪い。
「ほんまに、何です?」
「……聞きたいんか?」と尋ねると四草からは、「後でいいです。」としれっとした顔で返事が返って来る。
ああ、もう。
ほんまにいけ好かんやっちゃ。なんでよりによってこんなヤツを好きになってしもたんや。
そら、顔はそこそこええし、料理もそこそこ上手いし、夜には少し優しいけど。
洗濯機も、結局はこいつの部屋のベランダに置くことになるのに、何でオレが折半せなならんねん。
「おい、四草、昼飯は奢ったるし、日用品もオレが持ったってええけど、洗濯機はお前が金出せよ。」
「はあ?」
「半分出したろうと思ってたけど止めや、止め。どうせ、おちびの服と、オレとお前で汚したシーツとか布団のカバー洗うのが先やろ。冷蔵庫が壊れたら、そん時はオレが出したるわ。」と手を振ると、年上の男は、算段を誤った、と言わんばかりの顔になった。
はは。
お前のそういう顔、もっと外に出したったらええ。
この先も、ずっと見とってやるから、な。
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